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2025年7月 2日 (水)

米原空中写真

米原駅の様子の変化を国土地理院の空中写真で見てみます。

 

Usar5864194711tkmbks
・USA-R586-4(1947年11月)を加工したものです。
・神戸寄り(写真右側)にキレイな形の三角線があります(以前三角線(デルタ線)の記事でもご紹介したのですが、リンク切れになってしまいました(汗))。2つの頂点が行き止まりになっていますので、機関車の転向用ではないかと思うのですが。
・東京寄りには将来の東海道上り線のように見えるものがあり、そこにも三角線があります。このあたりはナゾです。
・この時点での電化は沼津以東と京都以西です。汽車のケムリがのどかな感じです。

 

Mkk615c662146227196105
・MKK615-C6-6214・6227(1961年5月)を加工したものです。
・1回目の改良工事が行われ、上り線が移設されました。
・東京寄りには車両基地が、神戸寄りには貨車操車場がいずれも上下線の間に設けられています。


Ckk759c124c134c144197509tkmbks
・CKK759-C12-4・C13-4・C14-4(1975年9月)を加工したものです。
・新幹線が開業しました。
・操車場はずいぶん立派になった感じがします。

 

Kk952xc93199505
・KK952X-C9-3(1995年5月)を加工したものです。
・東京寄りの機関区付近、ホーム付近の転車台周辺、貨車操車場部分の線路が撤去されたように見えます。

Ckk20111c815c914201109tkmbks
・CKK20111-C8-15・C9-14(2011年9月)を加工したものです。
・2回目の改良工事が行われた後の姿です。
・下り線が移設され、それまで神戸方が広がったハの字型だったホームが平行になりました。

 

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コメント

1947年の写真を見ると、東海道下り本線側に本屋があって反対側に機関区などがあるごく一般的な配置に思えます。それが後に機関区よりも外方に上り本線を移す大胆な変更があったのですね。1961年の写真をよく見ると、農地の一角に三角線の頂点の痕跡?が見えます。
操車場のために鉄道用地が拡幅され、後に操車場の廃止で元々の側でなく拡幅された側が残るという事例は、他にもあったでしょうか?

東京よりの三角線は「関西鉄道考古学」に載っていました。
列車を空襲から守るために岩脇山に作っていた未成の列車壕につなぐ線路の跡のようです。
本には未成の壕の写真が載っています。

懐かしく興味深い写真をありがとうございました。

 1947年版ではすでに東京方の新上り線らしき準備がなされていますね。三角線も関連して。電化のときの新設と勘違いしていました。
 東京方の上下本線の上方には貨物下り仕訳線が見えます。ここが電化のとき、米原機関区の電機庫と客車区に変身し、下り本線はその外側を迂回する形となりました。
 車両基地でなくなった現在も旧設備は残っているようです。

 旅客駅は3番線が上り本線でここを発車するつばめ・はとの写真は多く撮影されています。
 米原電化のとき、現在の上りホームが新設され、東京方の新上り線が使用開始されました。このとき蒸機庫と転車台は残っています。新ホームは地形の関係から下りホームとは並行になっていません。
 北陸本線のホームは変わらないままでしたが、北陸特急の増発に伴い新上りホームに沿って北陸直通ホームが増設されています。

 最後の変更は旧下りホームを上りホームへ並ぶ位置へ移し、現在の形となりました。新下り本線はホームがない通過線となりました。旧蒸機設備は跡形もなくなりました。

 大阪方では、最初は貨車の上り仕訳線のみでしたが、下り仕訳を統合して抱き込みの大ヤードとなりました。
 それが現在では上り線側に縮小され、下り側の余剰地は総研の風洞などが並び、保存車両も眺められます。

 クモイ103さまのご指摘のとおり、縮小のとき新設側が残り、創建以来の部分が廃止されるのはなにか残念な気がします。

 勝手なことばかり記しました。E10の撮影に出かけた思い出を大事にします。

クモイ103さん
すぐに思い当たるところがありませんので、珍しい事例ではないかと思います。

moldyさん
情報ありがとうございます。
Wikipediaにもちらりと書いてあったもののどこだかわかりませんでした。ありがとうございます。

C6217さん
私は米原というとC6217を思い出します。

: f54560zg さま
 
 思い出す原因はなんでしょうか? でも、お聞きすると自分のことも白状しなければ・・・・・・ 
 困った。

C6217さん
そんな大した話ではないのですが(汗)、鉄ピク誌の1971年4月号のトピックフォト欄に米原駅に留置されているC6217の写真が投稿されていました。「呉線で長く活躍したC62も昨年10月呉線電化で追われ 小樽築港へ生き延びたC6215・16を除いて廃車となったが狭軌最高速度記録を持つC6217が1月中旬から米原北方に留置されている」といった文章が添えられており、これが妙に記憶に残っていただけのことです。

C6217は、ネットにある履歴を調べてみると、呉線での運行が終わったあとに、1971年1月13日付けで書類上のみ糸崎区→稲沢第一区になりましたが、実機は糸崎区から稲沢第一区に移動せず米原区側線に長期間留置されており、1971年3月9日に笠寺駅に回着 その後 トレーラーで名古屋市東山公園に搬入保存されたという履歴がありました。その米原駅で留置されていたことが、ピク誌に乗っていたようですね。その後、2011年03月14日からJR東海 リニア・鉄道館にて展示開始されたとのことです。

参考データ:https://d51498.com/db/C62/C6217

コスモスさん
そのようだったようです。当時はそのようなことは知らなかったものですから「何で米原?」と思っていました。

f54560zgさま  C6217がご記憶に残ったのは嬉しいことです。
 1970年に廃車になるとき、速度記録機としての保存運動が起こり、現場に近い保存場所として名古屋の東山公園が選ばれました。そういう諸々の手続きの間を米原で過ごしたのでしょう。回送したのですから廃車にはなっていなかったことになります。
 東山公園を一度尋ねました。高台の公園で、正面は速度記録を樹立した木曽川橋梁を望んでいる由でした。
 私の記憶は呉線の1960年代後半になります。

ネット情報の車歴によれば、廃車の日付は1971年3月8日で、翌9日に笠寺駅に回着になっています。廃車になったら、線路上での回送(甲種回送?)ができないとすれば、廃車後に笠寺への回送はできないようにもおもえますが、どうなのでしょうね。
参考HP:https://d51498.com/db/C62/C6217

コスモスさま

 資料のご案内ありがとうございました。生まれたときから現在まで最も長く居たのは東山公園なのですね。
 彼女のボイラーが新品交換されていたのも初耳でした。蒸機のメカからいえば当然のことですが。
 リニア館は一度訪れています。保存は申し分ありませんが、照明よりも太陽光の下での保存がベストだと今も思っています。

C6217さん、ご参考になったようで幸いです。

機関車C6217は1954年12月に東海道線木曽川橋梁で時速129kmを記録した2年後の1956年12月に鷹取工場でボイラーを新品に交換されていますね。廃車前提で稲沢に送られるまで、最後は糸崎区で新品のボイラーで主に呉線で運用されたのは、ご存じのとおりです。

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