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2024年10月27日 (日)

単行機関車列車 その3(小樽)

単機回送のお話の3回目です。
今回は小樽駅~小樽築港駅間で行われていた単機回送です。

参考資料は以下の通りです。
 時刻表1988年3月号
 '88貨物時刻表
 鉄道ダイヤ情報1988年9月号
 鉄道ダイヤ情報1988年12月号

 

1988年3月です。
_198803tkhdot
・小樽駅~小樽築港駅間の単行機関車列車及びこれに関係する客車旅客列車のみを掲載しています。この時点では小樽駅にやってくる貨物列車はありません。
・それにしてもこれはスゴイです。何という数の単行機関車列車が運転されているのでしょう。単行機関車列車を赤線で示すと以下のようになります。
_1988031tkhdot
・ED76は小樽~小樽築港間を34往復するのですが、そのうち何と4割以上が単機です。
・これを見て率直に感じるのは、「機関車をこんなにも回送する必要があるの?」ということですね。列車→単機となる折り返しが14回、単機→列車となる折り返しが15回であるのに対し、列車→列車となる折り返しはわずか5回しかありません。そこまで単機回送を行わなければならなかった理由を知りたいところです。
・その後客車列車は電車に置き換えられ、2009年3月時点では単行機関車列車は姿を消していました。先の宇都宮貨タや盛岡貨タの場合は機関車の待機場所を変えたことにより単機回送がなくなりましたが、小樽の場合は機関車けん引列車そのものがなくなってしまったわけです。

 

参考までに1988年3月の播但線の寺前駅の例をご紹介します。
_198803tkbttm
・寺前駅始発・終着となる客車旅客列車のみを掲載しています。
・寺前駅まで客車を引いてきた機関車は単機で回送されることなく客車を引いて戻っていきます。近くに機関車基地があるわけではないので当然といえば当然かもしれませんが。
・その後電化・電車化されて、2009年では機関車けん引列車は姿を消しています。

話がそれますがこの寺前駅、ごくごく普通の中間駅です。このような駅に、短時間ではありますが3両の機関車と3編成の客車が集結するのはなかなか珍しいことではないかと思います。SL時代には給炭水の設備はあったのでしょうか。19790829a04bttm
(1979年8月29日撮影です。)

 

こちらの記事もご覧下さい。
 函館本線配線図 (小樽~銭函)
 函館本線配線図 (小樽~銭函) 1998/2
 寺前 1979/8/29

 

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コメント

>そこまで単機回送を行わなければならなかった理由
f54560zgさんは単機回送を目の敵?にしておられる様ですが、思うに当時の国鉄の感覚ではごく当たり前の作業であって別段深く考えていたわけではないような気がします。小樽築港と小樽の関係のような近距離の場合、機関区から隣接する客車区へ構内運転するのと大差ない感覚だったのではないでしょうか。

小樽~小樽築港間3.7km×単機29本=は107kmに及びます。すなわち単機で小樽から野幌まで行って帰ってくるという不思議な作業を毎日行っているのと同じです。
実際に行われていたわけですから、そこには何らかの理由があったはずです。その理由が知りたいだけです。

このあたりは全く想像でしかなく、大した根拠もないので「私の感覚で想像する当時の国鉄の感覚」という曖昧模糊としたものなのですが、小樽-野幌間往復に匹敵する距離としても、それでもなお当時の国鉄では「日常の当たり前の作業」という感覚であったろうと私は想像しています。それ以上のことは言えませんけど。

上記はクモイ103です。大変失礼いたしました。

蒸気機関車の場合は、運用後に機関区で石炭、水を補充したり、石炭灰の処理、方向転換などの作業が必要でしょう。電気機関車の場合はその必要性はないでしょうが、合理的な運用よりも蒸気時代からの慣行が踏襲されていたのでしょうか。なぜ踏襲されていたのかは、乗務員の中でも機関士の立場が強かったのかもしれません。

最初に挙げられたのが1988年というのが気になっています。
というのも、国鉄の財政状況が悪化した昭和50年代末から、「列車キロ」の削減が財政状況を好転させる一つの施策という位置づけになっており、それを経たうえで累計「107キロ」という単機回送はそれなりの理由が無ければ異常です。

1978年であれば、さもありなん、と思いますが、1988年といえば、JR北海道になって1年目の終わりでこの無駄に見える単機回送の背景を私も知りたいです。

北東航21さんが改めて指摘された
>最初に挙げられたのが1988年
という点を私は軽く見過ごしていました。確かにJR化後のその時点では意識が変わっていたかもしれません。
そうなると、この88年の状態がいつから続いていたのか? もしかして国鉄時代からずっと続いていてまだ見直しの途上だったのか? と気になります。

北東航21さんの仰るように107キロの単機回送には何か「合理的」な理由があるはずですね。単機回送を「合理化」して列車→列車の折り返しにすべくダイヤを再編して得られるものは何かと考えてみると、まず思いつくのは乗務員の労働時間削減ということになりますが、これは当然ながら人員削減の大きな根拠になります。1988年当時は労使間の関係はとてもデリケートだったでしょうから、そのような「合理化」がすんなりと受け入れられたかどうかは疑問で、何かしらグレーゾーンのような扱いになっていたのかもしれません。また、この構内運転のような単機回送は果たして「列車キロ」に素直に含まれていたのかも疑問です(完全に素人意見です)。

 機関車運用は線区全体をにらんで設定されますから、終着駅の折り返しを考えるのは後回しになります。
 函館本線では基地の岩見沢への到着と出発の運用が最優先ですね。したがって小樽の折り返しが客車と別になれば築港まで回送するのは当時の状況から常識だと思います。
 小樽に機関車留置と乗務員の設備を設ければ別ですが、管理上からも築港への回送がベストです。
 次善の策として、小樽は無条件で折り返し、築港で機交換する方法もあります。現実にこれを採用した例があります。

皆様
多くのコメントをありがとうございます。
整理して別途記事を作成したいと思います。

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