ちょっと気になる電化区間 その4
ちょっと気になる電化区間のお話の4回目です。
電化年月日については特に明示したものを除きWikipediaを参考にしています。
●明石駅~明石操車場(山陽本線)
ちょっと古い話です。
1934年9月に明石までの電化が完成し、京阪神間の電車の基地として、明石客車操車場に隣接した場所に1937年8月に明石電車区が設けられました。ですのでほぼ時を同じくして電化された明石駅~明石操車場間は電車の入出区用回送用であり、操車場であるがゆえに営業電車列車は運転されませんでした。
その後1944年4月に明石操車場が廃止され、代わりに西明石駅が開設されたことで晴れて電化区間の終端まで営業電車がやってくるようになりました。
そうは言ってもなかなか変わった形態ではあります。
●尼崎駅~塚口駅(福知山線)
ここはちょっと特殊です。あまり情報がないのでWikipediaの受け売りになりますが(汗)。
展望車を連結した「つばめ」「はと」の客車編成全体の転向のため、大阪→尼崎→塚口→尼崎→宮原→大阪のルートが使用されていたようですが、1956年11月の東海道線全線電化による電機けん引化に合わせ、尼崎~塚口間も同時に電化されました。
その後1960年に151系化されたことで転向目的の利用はなくなったと思われますが、一部の大阪発着の北陸方面の電車特急列車の折り返し回送に利用されていました。具体的には1975年3月時点では4028M雷鳥9号、4008M北越2号が塚口駅で折り返して向日町に入区していました。
その後1978年10月に回送電車列車の運転はなくなったようですが、架線設備は残され、1981年3月に改めて電化されました。
1977年3月13日撮影です。尼崎駅を発車して東海道線をまたぐ勾配を上る725列車大阪発鳥取行きです。電化されています。
1980年2月27日撮影です。塚口駅です。電化されています。
いずれにせよこの区間には電車・電機けん引の営業列車は運転されたことはなさそうです。
●鴫野信号場~吹田操車場、巽信号場~淀川駅(片町線)
関西地方初の電化は1932年12月の片町線四条畷駅~片町駅間で、この時鴫野信号場~吹田操車場、巽信号場~淀川駅間も同時に電化されています。貨物駅であった淀川駅に隣接して電車基地が設けられたことと、修繕が吹田工場で行われることになったことで、それぞれへの自力回送のために電化されたものと思われます。
また1933年2月に城東線が電化されていますので、この時京橋駅~淀川駅間も電化されたはずです。
淀川は駅ですが貨物駅であり吹田も操車場ですので、これらの区間に電車の営業列車が走ることはなかったと思います。
1950年4月の吹田操の線路配線は以下のようで、架線が張られている範囲を赤線で示しました。
・城東貨物線と吹田工場を結ぶ最低限の部分だけに架線が張られているのがわかります。
・北方貨物線も電化されていますが、電化されているのは宮原操車場までです。これは京阪神電車の基地である宮原電車区所属車の吹田工場入出場回送のためと思われます。
参考までに、1950年4月の、宮原操車場の線路配線は以下のようです。同様に架線が張られている範囲を赤線で示しました。
Wikipediaには北方貨物線は1958年全線電化と書かれていますが、おそらく1934年7月の吹田~須磨間の電化の時点で吹田操~宮原操間も同時に電化されたのではないかと思います。
その後淀川は貨物駅も電車基地もなくなって巽信号場~淀川間は廃線となり、鴫野~吹田間は新大阪への乗り入れが行われておおさか東線へと大きく姿を変えました。
●長尾駅~四条畷駅(片町線)
長尾駅~四条畷駅間の電化は1950年の12月です。ここは普通に電化区間の終端まで電車営業列車が運転されていた区間なので、その点では特に違和感はないのですが、気になるのは「なぜ長尾駅がおよそ40年もの長きに渡って電化区間の終端駅であり続けたのか?」ということに尽きます。なぜ最初から、あるいは早々に木津や奈良まで電化を行わなかったのでしょうか。
1980年2月26日の撮影です。
似たような例としては可部駅、府中駅、南小谷駅などがあるのですが、それぞれには歴史的な背景や旅客需要など、電化区間の終端である期間が長くなった理由がそれなりにわかる気がします。ただ長尾駅にはそれらしい理由が思い浮かびません、個人的には。このあたりをご存知の方、是非ご教示下さい。
●和歌山操駅~和歌山駅(紀勢本線)
1968年9月に和歌山駅の客貨分離が行われ、貨物部門は和歌山駅から1.4kmほど亀山寄りに新設された和歌山操駅に移されました。ですので同時期に行われた和歌山操駅~和歌山駅間の電化は電機牽引貨物列車のためのものであり、電車営業列車が運転されたことはありません。
操車場までの電化という点では先にご紹介した熊本操車場の場合と似ていますが、熊本の場合は操車場部分を含めて熊本駅であったのに対し和歌山の場合は和歌山操駅と和歌山駅がそれぞれ独立した別個の停車場になっていますので、電化区間の表現としては少し違ったものになりますね。
1978年3月の配線図です。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
ありがとうございます。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。
« ちょっと気になる電化区間 その3 | トップページ | ちょっと気になる電化区間 その5 »
こんにちは。いつも楽しく拝見しています。
長尾以東の電化が遅かったのは次のような理由が考えられます。
1 大阪(京橋)から奈良方面へは大回りしているため、直通旅客が少ない。
2 田辺、奈良間は頻発運転の近鉄が並行していいた。(民営化直前まで国鉄は私鉄の営業を圧迫してはいけないため、増便はできない)
JR宝塚線も同様に電化が遅い。
3 民営化直前まで同志社前駅が開業していないため、旅客需要が少ない。
ほかにも理由がありそうな気がします。
ちなみに、交換駅以外は無人で、交換駅の田辺も祝園も運転要員はいても、営業要員がいないくらいの旅客需要でした。
投稿: 片町線長尾以東 | 2024年7月17日 (水) 21時14分
>早々に木津や奈良まで電化を行わなかったのでしょうか。
そもそも、木津~長尾間は、関西鉄道のメインルートとして開業したものの、名阪間の最短最速ルートだけでは、沿線の利用者が取り込めず、翌々年には奈良経由に変更した事に由来するように思います。
後に、同区間はほぼ放棄状態になり、奈良電の山田川~新田辺が、片町線の西木津~田辺と並走状態で開業できたようで、
これらの駅沿線は京都府ですから、京都線で京都市への利用者も多く、難波へ出るには長尾経由より大和西大寺経由で、という利用者が大多数を占めていて、同区間が非電化のまま長年放置されてしまったように思います。
JRになって「私鉄王国関西」と同等に渡り合えるよう、同区間が電化されて、学研都市線という愛称が付きJR東西線が開業して、大阪(北新地)まで直通で行けるようになって、利用者が増えたのが今の姿ではと思います。
投稿: moni5187 | 2024年7月17日 (水) 22時52分
東海道線名古屋ー浜松電化時(1955年7月)に名古屋駅ー名古屋機関区間にも架線が張られていたのか気になります。
投稿: コスモス | 2024年7月18日 (木) 11時12分
片町線がなぜ長尾までの電化なのか。
・戦前四條畷まで電化されていて、以遠も汽車にしては多い通勤需要があった。
・長尾以東には天井川のトンネルが数本ある。
・長尾駅が大阪府の東の端であり、キリが良かった。
あたりが長尾まで電化する判断の根拠ではないかと想像します。
投稿: 天鉄ヲタ | 2024年7月20日 (土) 00時20分
何れコメントされると思いますが戦前品鶴線と大崎支線が開通したが品川新鶴見間は非電化でしたし山手貨物線非電化でしたが横須賀線用電車を大井工場入出庫の為に山手貨物線は品川大崎間電化されていた筈です其れと品鶴線山手貨物線大崎支線が丁度デルタ線構造になり戦前の展望車連結していた富士号燕号の方向転換(続に蛇窪回し)に利用されて折品鶴線上り線のみ電化されていました(戦前D50牽引品鶴線の下り貨物列車の写真が有りますが上り線のみ架線を張ってました)
投稿: yyoshikawa | 2024年7月20日 (土) 16時24分
浜松ー名古屋間の電化完成は1953年7月でした。誤記訂正します。稲沢電化までの4か月間に旅客・貨物ともに名古屋駅で機関車交換をしていたなら、列車本数からすれば、駅で滞留する電気・蒸気機関車はけっこうな台数になり、それだけの留置線が構内にあったのか、蒸気は名古屋機関区で待機するなどの分散措置をしていたのか、貨物は浜松から蒸気牽引のままで稲沢まで行っていたのかなど、興味を惹かれます。
投稿: コスモス | 2024年7月21日 (日) 10時42分
片町線長尾以東さん、moni5187さん、天鉄ヲタさん
基本的に長尾以東は需要が少なかった、ということですね。県境(局界)も気になります。上郡とか。
コスモスさん
確かに名古屋駅での作業は大変そうですが、名古屋機関区までは架線は張られていないと思います。
投稿: f54560zg | 2024年7月21日 (日) 15時41分
yyoshikawaさん
そのあたり、気にはなっているのですが、資料が少なくて状況が把握できていません(汗)。
投稿: f54560zg | 2024年7月21日 (日) 15時52分
「何事もなかったかのように訂正させていただきました(汗)。」
ご苦労様です~
気になったことではないのですが…
1970年中頃?に片町線全線乗車を初めてやりました。
旧国には間に合わず、101系EC→長尾(旧駅)→キハ11系といった時代でした。
昼間の閑散時のせいもあり、長尾まで乗客は数名…キハに乗ったのはさらに少なく…
こらぁしばらくは長尾から先の電化は無いな、と。
103系やキハ40などになる頃までに、数年に一度乗る機会があっても同じような印象でした。
「松井山手」なんて影も形も無く、田園地帯でもあり、のどかな車窓風景でした。
で、地元の方々は、主に近鉄を利用されていて、片町線はほとんど利用されていないようでした。
投稿: 気になる人 | 2024年8月27日 (火) 22時25分
すみません!
1970年中頃?→1970年代の中頃
でした。
投稿: 気になる人 | 2024年8月28日 (水) 10時15分
気になる人さん
私が片町線に乗車したとき(1980年)は、乗客数については記憶にないのですが、長尾駅前後での車両面の落差は強烈に感じました。
それを思えば木津電化で格段に近代化されたように感じます。
投稿: f54560zg | 2024年9月 1日 (日) 09時46分