函館本線配線図 (旭川)
久しぶりに函館本線各駅の配線図のご紹介の続きです。
今回は旭川駅です。
1958年6月(※1)
・旅客駅のほか、貨物駅、貨車操車場、車両基地(機関区、客貨車区)、工場と、すべてそろった駅です。とにかく大きいです。
・1950年から1954年までは「構内駅」というものが設置されています。試験的に導入された制度のようで、駅から主として操車場部分を分離したもののようです。
・「市街軌道線」という文字が見えますが、旭川市街軌道ではなく旭川電気軌道と思われます。1973年まで貨物営業が行われていました。
・ほかにも「電灯線」とか「ガス線」とかよくわからない側線があります。
・函館線と富良野線の乗り換えは大変そうです。
・機関車走行線の配置が独特です。
1985年1月(※2)
・第1ホームと第2ホーム間にホームのない本線が2線設けられています。下り本線と第1ホームを移設したのでしょうか。
・貨物駅は北旭川に移転して、この時点ではほぼ貨物営業は行われていなかったと思われます。
・貨車操車場機能も1980年に北旭川に移転しました。下りの仕訳線はなくなっていますが上りはそのままです。
・1985年3月時点では機関区にはDLが105両、DCが98両、客貨車区には41両のPCが配置されています。結構な規模の車両基地です。
・旭川工場は1973年9月に旭川車両センターに名称変更されています。
・それにしても客留線は使いにくい気がするのですが。専用の引上線はありませんし、旭川終着列車の客車編成はどのようにして収容されるのでしょうか。
1998年1月(※3)
・上り仕訳線群がきれいに撤去されてしまいました。
最近の前面展望動画やGoogle マップをもとに私が作成したものです。
・その後2003年に車両基地が北旭川に移転しました。
・工場が閉鎖された時期がよくわからないのですが、下記の空中写真を見る限り1990年頃にはなくなっているようです。
・そして2010年に高架化工事が完了し、機能的な配線の駅に生まれ変わりました。
続いて国土地理院の空中写真を見てみます。
・USA-R264-48(1948年5月)を加工したものです。
・この時点では富良野線ホームは函館線ホームと並んでいます。
・MHO521-C7-13(1962年6月)を加工したものです。
・富良野線が移設され、ホームが遠く離れた位置になりました。仕訳作業と富良野線列車の競合を避けるための措置でしょうか。
・MHO722X-C6-8(1972年5月)を加工したものです。
・稚内寄りの踏切が立体交差化の工事中です。
・CHO7719-C14-8・C15-10(1977年9月)を加工したものです。
・工事中だった道路橋が完成しています。
・旭川駅~新旭川駅間が高架化されています。
・HO844X-C9-7(1984年8月)を加工したものです。
・ヤード系の貨物輸送が廃止されて仕訳線が不要となった頃ですが、ぱっと見にはよくわかりません。
・HO893X-C4-16(1989年6月)を加工したものです。
・下り仕訳線と貨物積み下ろし設備が撤去されたように見えます。
・上り仕訳線にも貨車の姿はありません。
・HO941X-C3-15(1994年7月)を加工したものです。
・上り仕訳線も撤去されました。
・工場は見事に更地です。
・CHO20021X-C4-13(2002年9月)を加工したものです。
・工場跡地には早くも何かの施設ができています。
・HO20069X-C7-6(2006年7月)を加工したものです。
・高架化工事中です。
・車両基地はなくなっていますが扇形庫だけがぽつんと取り残されています。
・CHO20143-C9-10(2014年8月)を加工したものです。
・高架化工事が完成しました。
・稚内寄りの道路橋は逆に線路の下をくぐるようになりました。
配線図は
※1印・・・NZさん
※2印・・・SYさん
※3印・・・モクムールさん
よりご提供いただきました。
ありがとうございます。
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富良野線は当初から列車としては函館本線、宗谷本線からは隔絶された配線だったのですね。
旭川経由で富良野線直通列車は設定が無いのは当然のことですが、イレギュラーでは存在したことがあります。
伊納・納内間の神居古潭トンネルで補修工事をする必要があって、1996年5月~8月にかけて、札幌発のオホーツク9号と下り利尻が、滝川・旭川間を富良野経由で迂回運転が行われました。深夜の富良野で客扱いしたこともビックリされましたが、旭川駅では9番線か10番線から上り引上げ線を使用して入換が行われたと思われます。
実はオホーツク9号には乗ったのですが、深夜の富良野に着く記憶まではあったものの、それ以降は夢の中で、今でも惜しいことをしたと後悔してます。
投稿: 北東航21 | 2024年2月 9日 (金) 09時11分
「当初から」→「構内改良後」ですね。1948年の空中写真の解説を見逃していました。
投稿: 北東航21 | 2024年2月 9日 (金) 09時13分
北東航21さん
それって富良野と旭川でスイッチバックということですね(旭川では同時に入換も)。結構スゴイ迂回運転だと思います。
投稿: f54560zg | 2024年2月14日 (水) 20時08分
函館線・宗谷線・石北線の貨物仕分線を旭川駅構内に作る為に犠牲になり、富良野線の乗り場だけが仲間外れにされて河川敷手前の端っこに追いやられました。
富良野線の乗客より函館線・宗谷線・石北線の貨物が優先で、優等列車の走らない富良野線なんか後回し。同じ改札から利用できるだけでもありがたいと思いなさい。と言わんばかりの配置でした。
乗客にはベビーカーを持ったママさん、片足を欠損して松葉杖で移動する男性、杖を着いた高齢者…等々様々な方々が数多く富良野線を利用してました。
そんな弱者を嘲笑うかのような長い地下通路がいつも憎たらしく感じてました。
貨物仕分線を旭川駅構内でなく最初から現在の北旭川駅に作っていたら…富良野線だけが不便な思いをすることなく函館線・宗谷線・石北線利用者と同じ利便性で利用出来たと思います。
投稿: わたさん | 2024年10月31日 (木) 09時10分
富良野線は開通当初から大正初期までは函館線・宗谷線と同じく幹線でしたが、滝川~富良野間が開通し滝川~根室間が根室本線・旭川~富良野間がローカル線の富良野線に格下げされました。
ローカル線に格下げされたことにより、都市間輸送でなく、沿線地域本位のダイヤ設定を組めるようになったそうですが、客貨分離・無煙化等の合理化、キハ54・キハ150を新製早々に積極的に導入し、沿線のスピードアップをはかる等、他の路線より厚待遇な部分も多々ありましたが、それらの厚待遇は国鉄からJRに移行して国営から民営に変わり、サービス面でのイメージアップだったのかもしれません。
富良野線だけが仲間外れにされて遠く端っこに追いやられた為に生じる不便な対応は旧旭川駅を知らない現在の高校生以下の方々には理解出来ないかと思います。
旧旭川駅での富良野線の扱いについてマイナス面ばかり記しましたが、逆にそうではなくプラス面な部分がわかる方いらっしゃいましたら是非コメントお願いいたします。
投稿: わたさん | 2024年11月 1日 (金) 07時47分
わたさんさん
富良野線ホームに向かう方のご苦労、よくわかりました。
ローカル線に格下げされた富良野線ですが、今では富良野に向かう列車本数は富良野線の方が多くなっていますね。
投稿: f54560zg | 2024年11月 3日 (日) 19時13分
f54560zgさん
コメントありがとうございます。
富良野に向かう列車本数は滝川~富良野間より旭川~富良野間の方が確かに多く設定されてますし、旭川始発の普通列車は函館線・宗谷線・石北線よりも富良野線の方が本数は多いですね。
1980年代後半には富良野線を某有名鉄道会社が買いたいと申し出たとか出なかったとか…の噂も出たほどです。
地元の鉄道に詳しいあり高齢者に聞いた話しですが、旭川駅構内に貨物仕分線を設ける際、当時の旭川市は合併前で面積が狭く、他に土地がなかったそうです。
それで函館線の隣の乗り場のままでは、富良野線の本数を減らさなければならない。
乗り場はそのままにして本数を減らすか?、乗り場を遠く離してしまうけど本数を確保するか?
の二者択一になったときに出た答えが後者だったそうです。
その結果、富良野線の利用者には不便な思いをさせてしまうが乗り場を仕分線の外側へ移設せざるを得なかったのだそうです。
それから約35年、富良野線沿線は北海道を代表する観光路線へと変わり始めました。
それが今から35年年前の話しです😆
投稿: わたさん | 2024年11月 8日 (金) 16時39分
わたさんさん
富良野線の利用者の方々には長い間不便な状態が続きましたが、これからの未来は明るそうですね。
投稿: f54560zg | 2024年11月10日 (日) 11時06分
f54560zgさん
ありがとうございます。
乗り場が遠く端っこに追いやられてから約60年の歳月が経過し、貨物仕分線が撤去されてから約30年が経ち、やっと他の路線と同じ条件で乗降出来るようになりました。
それが今から約15年前のことです。
嬉しいことのように思えるかもしれませんが、他の路線はそれより60年も前にその条件で利用出来ていたのに富良野線だけが叶いませんでした。
当時の国鉄は乗客輸送よりも石炭や貨物輸送が優先だたのか、本線でもない・優等列車は走らない・大型機関車は乗り入れ出来ない富良野線は除け者扱いされる路線だったんでしょう。
地下通路が出来た当時は改札から4・5番ホームまで跨線橋を渡り、そこから地下通路を潜り6・7番ホームまで行く…という面倒臭い移動方法を国鉄は富良野線の乗客に当たり前のようにさせていたそうです。
いかに弱者のことを考えずに国鉄側の都合で富良野線を除け者扱いしていたかが駅の構造を見ても容易に感じ取れます。
逆にそんなことはない、富良野線利用者に対していつも「不便な思いをさせて申し訳ない」と思っていた…という話しは過去にも今にも当時の国鉄関係者から一度も聞いたことはありません。むしろあの配置が当然かのような話しばかりしか聞こえません。
投稿: わたさん | 2024年11月21日 (木) 09時51分