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2024年2月18日 (日)

敦賀付近の路線の変遷

今回は敦賀駅付近の路線の変遷についてのお話です。
参考資料は鉄道ピクトリアル各号、停車場変遷大事典、交通公社の時刻表、Wikipediaほかのネット情報です。

最初にGoogleマップの航空写真で敦賀付近を見てみます。
Googlemaptgtz
敦賀は周りを山に囲まれており、長浜方面、今庄方面のいずれに向かうにも山岳地帯を突破しなければなりません。長大トンネルの掘削がままならない頃は鉄道にとって苦難の時代で、急勾配と水害、土砂災害、雪害に挑む覚悟が必要になります。

 

1882年3月
188203hrtg2
・1882年3月に長浜~柳ケ瀬、洞道口~金ケ崎間が開業して敦賀に鉄道が初お目見えしました。但し柳ケ瀬隧道が未開通だったため徒歩連絡となる区間が存在しています。
・この時点で将来東海道線となる区間の開通状況は新橋~横浜間、大津~神戸間に過ぎません。そう考えると敦賀がいかに重要な地域だったということがわかる気がします。

 

1884年4月
188404hrtg2
・遅れていた柳ケ瀬隧道が開通し、線路がつながりました。つながりはしましたが、それは苦難の歴史の始まりでもあります。
・柳ケ瀬隧道は全長1.3kmあまり、当時は日本最長でした。また刀根駅はスイッチバックです。
・柳ケ瀬隧道周辺での蒸気機関士の苦労については鉄道ピクトリアル1974年7月号に「柳ケ瀬越えの憶い出」として敦賀機関区OBの方が書かれた文章が掲載されています。それはそれは大変だったようです。

 

1896年7月
189607hrtg2
・敦賀~福井間が開業しました。敦賀~今庄間もトンネルとスイッチバックが続く厳しい区間です。
・米原←→福井は敦賀でスイッチバックとなります。
・1897年9月には金ケ崎駅の旅客営業が廃止されました。

 

1909年6月
190906hrtg2
・敦賀駅が移転し、スイッチバックが解消されました。
・1909年10月に線路名称の制定が行われ、敦賀駅を通る鉄道は北陸本線と名づけられました。

 

1912年3月
191203hrtg2
・金ケ崎への貨物支線が付け替えられました。
・北陸本線は1913年4月に直江津まで全通しました。

 

1917年12月
191712hrtg2
・小浜線の一部が開通しました。
・1919年1月に金ケ崎駅の旅客営業が再開され、同時に敦賀港(みなと)駅に改められました。

 

1932年9月
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・貨物駅の敦賀新港駅が開業しました。ただし1943年4月には敦賀港駅の構内側線化される形で駅としては廃止されてしまいます。

 

1957年10月
195710hrtg2
・深坂隧道開通による近江塩津経由のルートが単線・交流電化で開業しました(赤線は交流電化区間を示します)。従来のルートは柳ケ瀬線とされ、分岐点として鳩原(はつはら)信号場が設けられています。
・これにより木ノ本~新疋田間では勾配の緩和が実現しましたが、新疋田~敦賀間においてはまだ急勾配が残っています。
・深坂隧道の全長は5.2kmほどで、当時は全国で4番目の長さでした。
・柳ケ瀬駅、刀根駅、疋田駅はこの時貨物扱いが廃止されましたが、中ノ郷駅は1960年8月まで貨物営業が行われていました。

 

1962年6月
196206hrtg2
・深坂隧道の開通から4年と8か月後、今度は北陸隧道が複線で開通しました。同時に敦賀~福井間が交流電化され、急勾配や災害のの苦労から一気に解放されることとなりました。
・北陸隧道は全長約14km、もちろん当時は日本最長です。柳ケ瀬線とは違って杉津経由の旧線は単純に廃止されてしまいました。

ここで木ノ本~敦賀間の列車ダイヤをご紹介します。時刻表1963年8月号から作成したものですので貨物列車や回送列車はありませんが。196308dgys1
・赤い実線が柳ケ瀬線列車で、青い破線は北陸本線の普通列車です。北陸本線の優等列車は省略しています。
・柳ケ瀬線列車はすべて気動車列車です。下り7本、上り8本で、そのうち1往復は中ノ郷折り返しです。米原方面に直通する列車はありますが、敦賀方面はすべて敦賀止まりです。
・折り返し647Dとなる上りの列車が見当たらないのですが、634Dが木ノ本で7分停車しますので、これから切り離されるのかもしれません。
・一方で北陸本線の列車はすべて客車列車です。行先もバラエティに富んでおり、スゴイところでは上野←→米原なんて列車もあります。

 

1963年10月
196310hrtg2
・新疋田~敦賀間に残っていた急勾配を緩和するためループ線が採用され、これを上り線として複線化が行われました。
・ループ線により勾配は緩和されましたが、上り線は下り線に比べ3kmほど距離が長くなっています。
・柳ケ瀬線は北側で北陸本線とは切り離されて鉄道としては疋田どまりとなり、疋田~敦賀間はバス連絡となりました。鳩原信号場は廃止されました。

ここでも列車ダイヤをご紹介します。時刻表1963年12月号から作成したものです。
196312dgys1
・赤の細線が代行バスです。柳ケ瀬線列車と代行バスとは必ずしも一対一に対応しているわけではなく、列車1本にバス2本があったり、列車のない深夜に運転されるバスもあります。
・柳ケ瀬線列車は上下とも8本となり、米原方面直通はなくなりました。
・このダイヤの範囲外ですが、彦根・米原~木ノ本間にはローカルDC列車が数往復設定されています。おそらく敦賀のDCが使用されていて、柳ケ瀬線短縮前は柳ケ瀬線の営業列車として送り込まれていたのではないかと想像しています。もしそうであれば、柳ケ瀬線が疋田どまりとなってからは北陸本線経由の送り込みに変更されたはずです。北陸本線に下り1本のみですが気動車列車(633D)が運転されていますので、これがそれなのかもしれません。(上りに関しては、時刻表の東海道本線のページに敦賀5:10発彦根行き622Dというのが掲載されているのですが、北陸本線のページにはこれが木ノ本始発として掲載されています。これが敦賀始発の誤記れであれば納得できるのですが。)
・上野発着列車は長野発着に変更されています。

 

1964年5月
196405hrtg2
・疋田~敦賀間がバス連絡となった柳ケ瀬線は、そのわずか7か月後に全線が廃止されてしまいました。
・1966年11月に新深坂隧道が完成し、これにより木ノ本~敦賀間の複線化が完了しました。

 

1974年7月
197407hrtg2
・湖西線が開業しました。
・青線は直流電化区間を表します。

 

2003年3月
200303hrtg2
・小浜線が電化されました。直流です。

 

2006年9月
200609hrtg2
・ここからは電化方式の変更という、新たなフェーズに入っています。1991年9月に長浜までが直流に変更され、さらに2006年9月には敦賀までが直流化されました。これにより湖西線、小浜線との一体感が高まりました。

 

2019年4月
201904hrtg2
・敦賀港線が廃止されました。

 

その昔、敦賀への鉄路は険しいものだったわけですが、1957年から1963年までのわずか6年の間に深坂隧道、北陸隧道、そして鳩原ループ線が開通し、電化・複線化もされて一気に隘路が解消された感じがします。逆に言えば、今の北陸本線を当たり前のように見てしまうと、かつての困難はとても想像できない気がします。

 

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コメント

多分日本で初めて本州横断鉄道です日本海の敦賀は何れ我が国がウラジオストク経由で欧州へ向かう最短ルートになる事を予測していた其れと古代より京都への物資を運ぶ為に街道が設けられていた有名なのは鯖街道が有りますね 其れと本州で太平洋と日本海の間の距離が一番短い其れと他所に比べ巨大山脈が途切れておるので早い時期に工事を進めていった其れと日本で最大の湖である琵琶湖の存在もこの区間に鉄道を建設するのを優先的に行ったのでしょう

本題と直接関係なく恐縮ですが、敦賀駅移転の話が出てきたので便乗させて頂きます。北陸本線の路線長についての疑問です。

かつての私の旅行記録に以下2点の記載があります。北陸本線上り522レ乗車記より抜粋。
「大土呂-北鯖江間の線路脇に100キロポストがあった。そうか、あと100キロかと思い時刻表を繰っておや?と思った。米原からの営業キロは北鯖江89.4km、大土呂94.1kmなのだ。100キロ地点は福井の手前でとうに過ぎている筈。北陸トンネル開通前のものだろうか。」
「武生、ホームの壁に90キロポストが画かれていた。これも時刻表の(81.0km)と違う。」

北陸本線の営業キロは、1957年の深坂トンネル開通で木ノ本-敦賀間が2.6km、1962年の北陸トンネル開通で敦賀-今庄間が7.2km短縮しています。さらにそれ以前の時刻表1956年11月号と現在を比べると今庄-王子保間でも0.2km短縮していて、都合10.0kmの短縮となります。1956時点で武生駅の起点営業キロは91.0kmで、これはキロポストよりも逆に1.0km長くなっています。

この1.0kmの乖離は、もしや1909年の敦賀駅移転・スイッチバック解消と関係あるのか?とも思いましたが、この時は線路が短くなった訳なので、元の路線長に従ったキロポストだとすると移転後の営業キロは逆に短くなる筈なのでますます謎が深まります。そもそも当時はまだ哩制だった?のでキロ制移行時の扱いも絡むと思われ、訳が分かりません。
キロポスト表示の乖離はどこから来ているのでしょうか?

本州は太平洋と日本海を隔てておるのは皆さん御承知ですね其の本州で唯一太平洋と日本海が近接しているのが名古屋から敦賀の辺り丁度本州が括れた所です伊勢湾と若狭湾が有り港も古来より有り物流の経由地でもありました嘗て北前船の寄港地である敦賀此処から京都へ琵琶湖を経由して物資を輸送していたそれと本州の他の地域では巨大山脈が行く手を阻むが伊勢湾と若狭湾の辺りは巨大山脈は無く山地としては中央分水嶺の野坂山地だけです其の為此の辺りに初めて本州横断する鐡道を建設するのは当然の事でしょう北側は敦賀から順次線路を敷設南側は知多半島の武豊から名古屋岐阜を経由して関ケ原北側を廻り琵琶湖湖畔の長浜迄線路を敷設した武豊線は東海道線延伸工事の資材搬入も兼ねていた野坂山地を越える区間を隧道開削して長浜迄線路が引かれ日本で初めて本州横断鐡道が初めて開通した他の場所で本州横断鐡道は信越線ですが本州の高山区間を縫う路線です高山線はさらに後の時代ですし上越線に至っては昭和の初めですいずれの本州横断鐡道線は大山脈を貫ぬかねばならなかった 最近のブラタモリでこの区間に運河を開削しようという計画も嘗て存在したようです

此のコメント私が投稿しました

今庄駅にもホーム上に古い木製の74kmポストが現存しています。武生の90kmポストと同じ算出基準です(今庄は停車場中心から0.1km離れていると思われます)。

クモイ103さんの1.0kmの謎ですが、本項に続いてアップされた「敦賀配線図」の1986年以降の配線図には、駅名の下に、「45k820(下り)」「48k960(上り)」「但し、直江津方は上下共47k850」の記載があるので2km近く調整しています。

ここで、なぜ2.6kmではなく、2kmなのかはわかりませんが(敦賀駅移転としか思えないのですが)、敦賀駅を47.9kmを基準として見ると、武生は現在の米原起点81kmに調整2.0+旧線7.2+0.2を加えると90.4kmになり、かなり近くなりましたが、未だ差があります。

今庄-王子保の0.2km短縮は、北陸トンネルと同時期に付け替えられた湯尾トンネルの旧線と思われます。

追記です。
「今庄まちなみ情報館」のエントリに掲載されている今庄駅配線図の画像には、今庄駅が73k860となっているので、ホーム上の74キロポストとの整合は取れてます。
どうも敦賀以東でさらに0.4kmほど調整しているのが濃厚です。

「今庄まちなみ情報館」
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2021/11/post-53dc19.html

北東航21さん、コメントとご教示ありがとうございます。
ご指摘の「2km近く調整」(正確には2k010ですね)がもしも敦賀駅移転によるものなら、深坂トンネルの分2.6kmはどこへ行ったのか謎が残ります。
あと今さら気付きましたが、敦賀駅の起点営業キロは時刻表復刻版1967年10月号では45.8km、現在は45.9kmと0.1km増えています。
ますます泥沼遊泳…

鳩原ループは、金沢からの帰りに雷鳥のグリーンに乗って通ってはいるのですが、全く覚えておらずです。その数年後、鳩原ループの存在を知ったのか、ループ内の橋梁の下の国道8号を走ったのは、良く覚えています。

クモイ103さん、北東航21さん
当方もキロポストと営業距離の乖離が気になり、前面展望で距離標を見つけて戻して、タイミングよく止めたりスロー再生してました。1080p60以上なら何とか数字が読めますし。
そして、新疋田~敦賀は上下線別々の距離標で、敦賀~今庄は、上下線共通だと見当を付けていました。
過去の時刻表の営業キロを加えて、表計算アプリで一覧にして、あれこれ推測したのですが、良く分からずです。
結局のところ、1966年4月の敦賀配線図を作成した際に、下り45.820が、直江津方が上下共「プラス2.03キロ」の47.850になった経緯(いきさつ)が分かればと、思うのですが…、

>敦賀駅の起点営業キロは時刻表復刻版1967年10月号では45.8km、現在は45.9kmと0.1km増えています。

調べてみました

「日本国有鉄道停車場一覧 昭和60年6月1日現在」(1985)では、敦賀駅は45.9km(直江津は353.9km)になっています。


理由は定かではありませんが「停車場変遷大辞典(JTB)}に、1969/10/1改キロと記載され米原~直江津間356.7→353.9キロと変化しています。

1969年10月1日改正の列車ダイヤ(二分目)も敦賀45.9km、直江津353.9kmです。

時刻表は確認していませんが、おそらくこの時点で変わったのでしょう。

ほかに近江塩津・南今庄+0.1と増えた一方、増減のない今庄、減少の湯尾(現南条)や鯖波-0.1,王子保・武生は-0.2km 等もあります。

クモイ103さん
moni5187さん
敦賀47k850が柳ヶ瀬経由時代のキロポストだとすると、2.6km短縮されたのに、2kしか調整されてないので、0.6km行方不明です。

今庄の73k860=74.1kmを基準にここから杉津経由の旧線の26.4kmを引くと、47.7kmになるので、敦賀47k850とは誤差の範囲におさまります。

どうも今庄以北のキロポストは敦賀駅がスイッチバックだった1896年当時のキロで建植され(ただし当時はマイルチェーン制なので、キロメートルに移行した昭和5年にそのまま置き換えた)、その後に敦賀駅が移転した際にキロポストは植え替えずに逆算して47k850にしたのではないかと思います。つまり柳ヶ瀬・杉津経由だった頃からすでに敦賀駅では距離のギャップがあったと考えます。

すいません
今庄は73k860なので、74.0kmとして敦賀駅を逆算すると47.6kmですね。
天テツさんご指摘のキロ改定も絡んでそうで複雑怪奇です。

もう一つ参考資料を

日本鉄道名所 勾配・曲線の旅シリーズ
6 北陸線 関西線 紀勢線 小学館 1987年3月10日 によれば

距離更正として
敦賀駅 のところに 上り 48K960 下り 45K.820 を47K850に

今庄駅のところに 67K091を73K860に

湯尾駅の手前のところに 77K198を 77K400に 

の記載があります

時期的に別掲の敦賀配線図の1986年4月と同時期と思われます 距離更正内容が同じですね

それぞれ、柳ヶ瀬線あるいは鳩原ループ、北陸トンネル、湯尾トンネル による別線化のための距離更正でしょうか。(敦賀のスイッチバック解消も?)

実務的に考えると
キロポストは、営業キロの表示の面もあるでしょうが、鉄道施設(信号機、分岐器、隧道、橋梁や踏切等)の位置を示すための基準点の役目もあると思います

別線を作る都度、基準点が変更になると、現地現物の標記の書き換え、資料の書き換え等膨大な手間を要するとともに、修正漏れなども起きがちでしょう

距離更正ということで、影響を最小限にしていると想像されます

そう考えると、北陸線の直江津駅に旧北越鉄道由来のゼロキロポストが存在していたことも納得できます(私鉄にはマイナスのキロポストも存在するとか)


なお、柳ヶ瀬線と北陸トンネルの別線開業時は営業距離は、都度 改められています(営業キロの改正は総裁名で公示されます)

1969年の改キロは、そのほかの細かい別線化や改良などもろもろを一気に修正したとも想像されます(私見です)

皆さんの参考になれば 

皆さん、いろいろと情報をありがとうございます。
手持ちの時刻表は年代がかなり飛んでいて細かい検証が難しいこともあり、言い出しっぺのくせに頭が追い付かなくなってきました。
moni5187さんご指摘の1966年4月の敦賀配線図を作成した際のいきさつ、そして天テツさんご教示の「1969/10/1改キロ」の詳しい内容と背景が大きなカギになるのでしょうか。
しばらく頭を冷やそうと思います…

クモイ103さんから提起された(?)「北陸本線のキロ程問題」に対して多くのコメントをいただき、皆様のキロ程に関する関心の高さを感じました。私はただコメントを拝読するだけでしたが(汗)。
コメントをいただいたクモイ103さん、そしてこれにお答えいただいた皆様にお礼申し上げます。

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