坂田・田村配線図
坂田駅と田村駅の配線図のご紹介です。
1972年1月です。
・ホームが記載されていませんが、相対式のホームが設けられています。
・田村~敦賀間は1957年に交流電化され、米原~田村間は1962年12月に直流電化されて坂田~田村間にデッドセクションが設置されました。
・機関車の移動ルートは、基本的には
ELの場合
上り本線→1番線→2番線または3番線(待機)→4番線→下り本線
DLの場合
下り本線→5番線→6番線または7番線(待機)→8番線→上り本線
だと思うのですが、若干不思議なところがいくつか・・・。
①一つ目は2番線及び3番線から4番線に向かう入換信号機。進路は一つしかないのに「17L/18L」「17R/18R」とてこが二つあります。17Lと18Lの進路は何が違うのでしょう。
②二つ目は4番線からの入換信号機「7L/7R」。2番線または3番線から4番線に移動したのち、また2番線または3番線に戻ることを想定したものでしょうか。
③三つ目です。ネット上の写真を見ていたら、4番線の車止め側にEF70が1両、間をあけてEF70+ED70が止まっているものを見つけました。
https://shonan1953.sakura.ne.jp/newpage6935.html
EF70が止まっている4番線にどうやってEF70+ED70を進入させたの?という感じで驚いたのですが、「ということは・・・」と思って写真をよく見るとEF70とEF70+ED70の間には車両停止標識らしきものがあります。つまり4番線は途中で閉そく区間が区切られているっぽいです。車止め側のEF70は、例えばこの車両停止標識まで構内運転で移動し、そこから誘導で車止め手前まで移動したのかもしれません。
運用順序の都合等で2番線または3番線から一時的に4番線に逃がす必要があったためこのような状況になったのだとすれば、②の「7L/7R」が存在する理由も理解できます。
そう考えるとひょっとしたら①もこれに関係しているのでは?と思ってふと浮かんだのは、18L/18Rは実は入換信号機ではなく入換標識なのではないか、ということです。てこ番号が入信の続きであることは気になりますし、それ以前に図が入信の記号となっていることは重々承知していますが、そこは誤記ということで(汗)。
とにかく進路が一つしかないのにてこが2つあるという矛盾を覆すのはこれくらいしか考えられないんですよね。先の車止め側のEF70のように4番線の奥にELを進入させたい場合、4番線の車停からではなく2番線もしくは3番線から誘導したほうが都合がよいことがあって、そのために入標を設けたのではないだろうか、ということです。図にするとこんな感じです。
あくまで推測ですが。
1979年4月です。
・上り出発信号機の下に、12Lと並んで19Lが登場しました。新たなナゾですが、同様に19Lは入標で1番線の中ほどで閉そく区間を区切ったのではないかと推測します。
・湖西線の開業により田村駅での機関車交換回数はかなり減少したのではないかと思われますが、それでもこの時点で田村駅を通過する客車列車はローカル6往復、急行1往復、荷物1往復がありました。
・そのうちの1本、富山発米原行き224列車です。1978年3月10日、米原駅での撮影です。
1999年10月です。
・長浜駅はオマケです。
・その後機関車牽引列車の減少とEF81への置き換えによりついに1983年3月には田村駅での機関車交換がなくなり、側線はきれいに撤去されてしまいました。
・その後2006年には敦賀までが直流化され、デッドセクションも遠くに行ってしまいました。
田村駅での交直接続は個性的な機関車(E10やDD50、ED30など)、優等列車の運転停車など興味を惹かれるネタが多くありました。私は田村駅での機関車交換シーンをしげしげと眺めたことがありませんで、それがとても残念です。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
ありがとうございます。
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いつも貴重な配線略図をありがとうございます。
4番線から、または、4番線への構内運転区間なのですが、昭和40年3月現行の中部支社の運転取扱基準規程に掲載されている構内運転区間の一覧表をみますと、
2番線4区→4番線1区車両停止標識間
3番線4区→4番線1区車両停止標識間
4番線1区→下り本線車両停止標識間
の3区間しか掲載されていませんでした。
(上記表に、誘導による入換区間は、存在したとしても、掲載されません。)
配線略図と年代的なズレがありますので、やはり推測しかできませんが、「4番線1区」とありますので、やはり「4番線2区」(直江津寄り?)もあったのではと思われます。
また、附番が50番台とかではなくやや特異ですが、「18L/18R」については入換標識であった可能性はあると思いました。
「7L/7R」については入換信号機だったとして、それらに関する構内区間は上記の表にはありませんでした。
投稿: KASA | 2024年2月29日 (木) 02時01分
田村での交直接続の直前に、米原~長浜が複線化されました。単線ならばどういう配線になったか、と興味津々です。
東北本線の黒磯も電化前に急いで複線化したと記憶しています。混乱を避けるボロ隠しかと勝手に推測しながら・・・。
投稿: C6217 | 2024年2月29日 (木) 21時05分
黒磯駅関係の電化・複線化は、電化が直流側はS34年5月22日で、交流側は同年7月1日です。この時から交直切替駅になりました。複線化は直流側の東那須野ー黒磯間がS37年に完成しています。この時点でまだ氏家~片岡、矢板~野崎が単線で、この区間が複線化されて、黒磯まで直流側が通しで複線化されるのがS39年です。交流側の複線化時期はネット上では見つけられませんでした。
投稿: コスモス | 2024年3月 1日 (金) 10時55分
交流側の複線化の記録がネット上にありました。S39年(1964年)黒磯 - 高久信号場間複線化されたそうです。単線時代の黒磯の構内配線図が載っているページも見つかりました。機回線や留置線の配置は単線時代にほぼ完成しているように見えます。https://henndennkidenntushinnmoromoro.blogspot.com/2017/07/576jrdeep.html
投稿: コスモス | 2024年3月 1日 (金) 11時55分
昭和30年代と言えば東京から各主要都市を結ぶ幹線がどんどん複線化されていた時期ですね。電化されてもされなくても関係なく複線化は推進されていたことでしょう。
ところで長浜までの直流化は2006年よりずっと早かった筈ですが。1992年3月にJR東海から乗り入れた311系臨時快速「ナイスホリデー近江路」に長浜まで乗車しています。1999年の長浜駅配線図にある下1から上り方へ出発する進路は、ここで折り返す直流電車のために設けられたものではないでしょうか?
投稿: クモイ103 | 2024年3月 1日 (金) 22時41分
田村~長浜間の直流化は1991年9月で、敦賀までの直流化が2006年9月でした。
投稿: コスモス | 2024年3月 1日 (金) 23時05分
初コメントです。いつも楽しく拝見しております。
話題の7L/7Rですが、引用ウェブサイトの写真によると入換信号機識別標識がないので入換標識ですね。その証拠に隣の8Lには信号機上に識別標識の灯器が見えます。
更に進路表示機が見えるので振り分けでテコ番が変わっているのだと思います。13L/13Rには進路表示機が書いてあってこちらには表記がないのが不自然ですが、現地の写真から誤記と判断できます。
投稿: あかつき | 2024年3月 2日 (土) 13時17分
そうですか、なるほど、7L/7Rも入換標識ですか。
納得しました。ありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2024年3月 3日 (日) 18時18分
>長浜までの直流化
スミマセン、間違えました(汗)。訂正させていただきます。
投稿: f54560zg | 2024年3月 3日 (日) 18時20分
あかつき様、7L/7Rのことご教示ありがとうございます。入換信号機識別標識が見当たらないこと見逃していました。
投稿: KASA | 2024年3月 4日 (月) 00時06分