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2023年3月12日 (日)

鹿児島・宮崎周辺の路線の変遷

今回は鹿児島・宮崎周辺の路線の変遷についてのお話です。
参考資料は停車場変遷大事典、Wikipediaほかのネット情報です。
一部の支線は省略しています。また、駅名は原則現在のものを使用しています。

1896年11月
Mkrz189611
・1891年に熊本まで開通した九州鉄道はさらに延伸を続け、1896年11月には八代まで到達しました。

 

1907年7月
Mkrz190707
・一方鹿児島側からも鉄道建設が行われ、こちらは官設の鉄道として1901年6月の鹿児島~隼人(当時は国分)間の開業を皮切りに1903年9月には吉松まで到達しました。
・1907年7月に九州鉄道は国有化されました。

 

1909年10月
Mkrz190910
・1908年6月に八代~人吉間が開業しました。
・1909年10月の線路名称の制定により、門司~人吉間が人吉本線、吉松~鹿児島間が鹿児島線となりました。

 

1909年11月
Mkrz190911
・1909年11月に人吉~吉松間が開業し、門司から鹿児島までが鉄道でつながりました。
・同時に門司~鹿児島間は鹿児島本線に変更されました。鹿児島線、人吉本線という名称はわずか1か月だけだったことになります。

 

1913年12月
Mkrz191312z
・ここからは2つの路線が伸びていきます。
・一つは吉松から宮崎を目指す宮崎線です。1912年10月の小林町までの開業を皮切りに1913年10月には都城まで到達しました。
・もう一つは鹿児島から海岸沿いに八代を目指す川内線です。1913年12月には串木野まで達しました。
・一方、宮崎付近では1913年12月に宮崎県営鉄道が宮崎~福島町を開業しています。

 

1915年3月
Mkrz191503z
・宮崎線は延伸を続け、1914年8月には山之口まで到達しました。
・一方宮崎側からも鉄路は伸び、1915年3月に宮崎~清武間が官設の鉄道として開業しました。但しこの区間は他の官設鉄道と接続しない孤立路線のため、宮崎県に貸与されて実質は県営鉄道の延長だったようです。
・川内線も延伸され、1914年6月川内まで開通しました。

 

1917年9月
Mkrz191709z
・宮崎線は1916年10月までに清武~山之口間が開通して全通しました。
・また宮崎県営鉄道は1917年9月国有化され、宮崎~吉松が宮崎本線、宮崎~妻間が妻軽便線となりました。
・なお、1916年10月、小倉からの豊州本線が佐伯まで到達しています。



1922年5月
Mkrz192205
・宮崎本線が北上を続けます。1920年9月に妻軽便線の途中から分岐する形で高鍋までが開業しました。もともと分岐点には駅はなかったのですが、既設の駅を移転する形で広瀬駅(後の佐土原駅)が設けらています。
・宮崎本線はその後も延伸を続け、1922年5月には延岡まで達しました。
・豊州本線側も延伸され、1922年3月には重岡まで開通しています。

 

1926年7月
Mkrz192607
・宮崎本線は1923年12月に重岡まで到達し、豊州本線とつながりました。これにより小倉~吉松が日豊本線となりました。
・妻軽便線は1922年9月に妻線に変更されました。
・また都城から分岐して南に進む志布志線都城~西都城~末吉間が1923年1月に開業しています。
・川内線は小刻みに延伸を繰り返し、1924年10月に川内本線と改められた後の1926年7月に水俣まで到達しています。
・一方八代側からも肥薩線として1925年4月には佐敷までが開業しています。

 

1930年7月
Mkrz193007
・肥薩線は1927年10月水俣まで到達し川内本線とつながりました。これにより八代~川内~鹿児島が鹿児島本線となり、逆に今までの八代~吉松~鹿児島は肥薩線となり、名称が入れ替わるという珍しいことになっています。
・一方で、都城と隼人を結ぶ路線建設が進みます。1929年4月に志布志線の西都城から分岐して財部までが国都東線として開業し、また西側からは国都西線として1930年7月には霧島神宮までが開業しています。

 

1932年12月
Mkrz193212
・国都東線が延伸されて1932年12月に霧島神宮まで到達して都城~隼人間が全通しました。これにより小倉~霧島神宮~鹿児島が日豊本線とされ、都城~吉松は吉都線、肥薩線は隼人が終点に、志布志線は西都城が起点にそれぞれ変更されました。
・現在の路線網はこの時完成したことになります。

 

当初の鹿児島本線が軍事的な理由か何かで人吉・吉松経由とされたことは知っていたのですが、現在の吉都線が昔は日豊本線であったことは恥ずかしながら知りませんでした(汗)。
ということは、わずか4年ほどの間ではありましたが、吉松駅は鹿児島本線と日豊本線の合流地点という、大変重要な駅だったわけですね。
ただ、なぜ日豊本線を当初から現在のルート(霧島神宮経由)としなかったのかはよくわかりませんが。

 

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コメント

> なぜ日豊本線を当初から現在のルート(霧島神宮経由)としなかったのか

これは、宮崎と博多・小倉・本州方面をなるべく早い時期に、短い距離・時間で結ぼうとしたからだと思います。

宮崎-鹿児島の日豊本線は、現在だと宮崎と鹿児島を結ぶ、鹿児島と小倉・本州方面を大分回りで結ぶ、といった目的を持っていそうですが、現吉都線ルートの建設当時は大分経由の路線はできるのにまだ時間がかかりそうで宮崎は鉄道網がつながっていないという状況なので、手っ取り早く宮崎に鉄道を到達させるのにあのルートを選んだのだと思います。霧島神宮経由の方が建設する距離は短くなりますが本州方面・小倉・博多からのことを考えると吉松-隼人(国分)-都城は遠回りで隼人-都城の山越えもあるので避けたのでしょう。

なお、高速道路も宮崎・鹿児島につながった時点で1917年当時の鉄道と似たような路線網になっていました。こちらは鉄道と違って勾配をそれほど苦にしないのでメインルートはそのままですね。

旅の途中のとおりすがりさん
コメントありがとうございます。よくわかりました。

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