« 山形配線図 追加 | トップページ | 関西線・紀勢線のDC急行(1968年) その2 »

2022年6月29日 (水)

関西線・紀勢線のDC急行(1968年) その1

50年以上も前のことになりますが、1968年10月時点では関西本線・紀勢本線周辺には多くのDC急行列車が運転されていました。
同時期には夜行客車急行「紀伊」が運転されており、これに比べると地味な印象のDC急行ですが、運転経路や多層建てなどバラエティに富んだ活躍をしており、今回はそれらについてご紹介したいと思います。

 

まずは各列車の運転区間・経路の概略図です。あくまで代表的なもののみです。
Dcddsfrt1
・これだけ見ても複雑さが伝わってきますね。
・登場するのは「紀州」「かすが」「平安」「しらはま」「志摩」「はまゆう」「くまの」「きのくに」の8列車です。亀山~柘植間を軸に、関西線名古屋方、関西線奈良方、草津線、紀勢線、参宮線方面へと枝が伸びています。
・変わり種なのは「しらはま」です。名古屋・京都と南紀方面を桜井線・和歌山線経由で結びます。名古屋と京都の二手に分かれますが愛称はどちらも「しらはま」です。

 

これに分割併合が加わって複雑さに拍車がかかります。
そのあたりをもう少し詳しく見るため、時刻表1968年10月号からダイヤを作成してみました。Dcddsfgt1
・「紀州」は紀勢本線名古屋口の代表列車です。紀伊勝浦までが2往復、紀伊田辺までが1往復、天王寺までが1往復で、紀伊勝浦行きの下り1本は夜行です。
・「かすが」の上り1本は湊町始発です。これの送り込みは回送列車でしょうか。
・「平安」は名古屋~亀山間が他列車との併結で、亀山~京都間が単独列車です。
・「しらはま」の上り1本は新宮発和歌山経由の名古屋行きで京都編成の連結はありません。これと対になる下り列車が見当たらないのが不思議です。
・「志摩」は上り1本のみ全区間単独運転です。
・「はまゆう」も下り1本・上り2本と上下で本数が合いませんが、これは後述の「きのくに」との関係と思われます。
・「くまの」は1往復で、上下とも全区間で他列車との併結です。単独で走る区間はありません。
・「きのくに」はほとんどが新宮・白浜発着ですが、下り1本だけが鳥羽始発で、「はまゆう」と通常の「きのくに」を合体させたような列車です。和歌山以南で「しらはま」と併結となる列車の天王寺~和歌山間の列車番号の付け方は特殊です。併結時511D・512Dとなる列車の単独時が2511D・2512Dであるのはなんとなくわかりますが、それでも他の「きのくに」と違って奇偶が逆です。1206Dから分割されたものが2215Dというのも「どうしてそうなる?」という感じです。 
 

次回の記事では分割併合の代表例をご紹介していきたいと思います。

 

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 山形配線図 追加 | トップページ | 関西線・紀勢線のDC急行(1968年) その2 »

コメント

天鉄局管内のDC準急、急行の系統と巧みな分割併合を伴うダイヤは魔境と言いますか、沼と言いますか…
次回以降期待してます。

>・「かすが」の上り1本は湊町始発です。これの送り込みは回送列車でしょうか。

伝説から神話になったグリーン付き編成202Dですね。おそらく前日の夜に、グリーン付き下り かすが3号205Dが、奈良から快速扱いになり列車番号も変えて湊町まで行ったと想像しています。半年後の昭和44年4月改正の天鉄局発行の関西本線(ポケット?)時刻表での、名古屋1641>快349D 奈良2100>2143湊町 に相当するように思います。

阪和線は天王寺から和歌山へ向かうのが下り、紀勢本線は亀山から和歌山市へ向かうのが上りですから、もともと紀勢線直通列車は阪和線内は上下が逆の列車番号だったと記憶しています。
2215Dは確かに変な付番ですね。あと、713D志摩1号の関連列車番号で紀伊勝浦から下り列車の列車番号で走る上り紀州2号・くまのも特殊です、

すみません。349Dは名古屋1641発の普通列車(奈良から快速)の湊町行きと思われます。奈良で205Dが快速に化けたとすると時間的には、快149D 奈良2030>2115湊町 が近いのですが。実際のところ202Dの湊町への送り込みは、どうだったのでしょうか。快速(or普通)化、快速(or普通)に併結(客扱い有or無)、単独回送。識者のフォローをお願いします。

昨年、自分のブログで、昭和40年10月の関西本線のダイヤを検討しました。
その当時は、準急が主力で、気動車ならではの複雑な分割併合だなぁと思いました。昼行急行は数えるくらいでした。特急「あすか」がまだ、運転していた頃です。

43・10では準急から格上げされた急行が地域間輸送の主体になってますね。
どこかで列車が遅れると収拾がつかなくなるのではと思ったものです。

関西本線の加茂ー亀山間の存続問題が取りざたされていますが、続編が楽しみです。

以前、投稿しましたmarineです。
新宮発和歌山線、桜井線経由名古屋行きしらはま1号の件です。当時はぼくも片道1本を不思議に思っていたのですが、その当時の雑誌で読んだことがあったので覚えています。
夜行紀州も片道だけなのは、尾鷲、熊野市近辺の新聞輸送のためだと書いてありました。紀伊勝浦まで運転した後、新宮まで普通列車か回送列車、(どちらか忘れましたが)で戻り、そこからぐるっと紀伊半島を回って名古屋まで戻る運用でした。当時、ぼくが撮った写真を見ると名ナコの3両編成でいつもキハ57が連結されていました。たまたま撮った車番写真はキハ57の1でした。号車番号は増結1,増結2,増結3号車でした。時間帯もあまり良くなくいつもガラガラだったので55.10で廃止されました。
急行かすがの話があったので、うろ覚えなのですが
もしわかれば教えてもらえないでしょうか。
昭和57の春休みに笠置へ遊びに行った時の話です。和歌山線422レで王寺まで行きすぐに奈良行き快速に乗り換えて奈良駅に遅れもなく到着しました。何分まったか覚えてませんが、笠置行きの普通列車にグリーン車付きのキハ58系5両編成がきました。時刻表にはグリーン車マークがなかったので、迷わずグリーン車に。友達5,6人で行ったのでグリーン車内で撮った写真が1枚だけ残ってます。
あの当時、かすがは確か自由席のグリーンだったような気がします。関西線内で他にも間合い運用などがあったんでしょうか?武豊線には入ってるとは聞いたことがあるのですが‥・

marinさん
>関西線内で他にも間合い運用などがあったんでしょうか?

普通列車で急行のグリーン車に乗れる「グリーン開放」ですね。結構走っていたのは知っていました。笠置折返しにもあったとは、情報ありがとうございます。

まとめますと、以下①~⑥。時刻は1980/10月時刻表からで、時期は同じではなく、走っていた頃と列車番号と時刻が微妙に変わっているかもで、他にもあったかもです。

乗られたのは、
①234D 奈良1022>1045笠置 だと思います。折返しの
②237D 笠置1109>1132奈良 も、だと思います。
202D かすが2号 グリーン付 奈良904>1136名古屋。
の奈良への送り込み、
③227D 亀山620>奈良804。が有名だったようです。
他には、
④246D 奈良1606>1701伊賀上野。折返しの
⑤249D 伊賀上野1711>1807奈良 も。
当方が乗ったのは、
⑥250D 奈良1734>1928亀山 だと思います。

当方のブログ"キロ28普通列車"の記事とコメント参照です。
https://ict.easymyweb.jp/member/moni5187/default.asp?c_id=47100

55-10改正の奈良運転所第1仕業(キハ58+キロ28+キハ28(4VK)+キハ58)を書き写しておきます。

①奈良224D亀山223D奈良234D笠置237D奈良246D伊賀上野249D奈良254D亀山
②亀山624D名古屋1901D紀伊勝浦1908D名古屋631D四日市
③四日市621D亀山227D奈良201D名古屋903D紀伊勝浦回903D新宮2345D串本
④串本2326D新宮2329D紀伊勝浦902D名古屋205D奈良

残念ながら43-10の運用は所持しておらず、当時の202Dの湊町送り込みは不明です。

次いで、53-10改正の紀州5号・しらはま1号関連です。

紀州1号の本編成(二26+ハ57or58+ハ65+ロ28+ハ57or58)の5両は単純です。
名古屋第一機関区11仕業
①名古屋905D-
②-新宮925D紀伊勝浦906D名古屋948D武豊953D名古屋

付属3両は名古屋第一機関区31~33仕業で、ハ57+ハ65+ハ57の3両
①名古屋920D武豊925D名古屋201D~711D京都回711D梅小路回716D京都716D~208D名古屋
②名古屋920D武豊925D名古屋201D奈良236D亀山241D奈良4206D~906D名古屋948D武豊953D名古屋905D-
③-新宮925D紀伊勝浦2324D新宮305D~4208D~208D名古屋

確かに905D紀州5号~しらはま1号で紀伊半島一周してますね。ただ亀山と高田でスイッチバックするので、向きが逆転します。幌の運用が気になります。

天鉄局の急行列車を取り上げられるとのこと、これからの展開が大変楽しみです。

さて、夜行紀州・しらはま(名古屋行き)の片道運用についてです。
1972年の時点では、夜行紀州の基本編成は日中の上り紀州でストレートに名古屋に帰着するものの、モノクラスの付属編成は新宮から「しらはま」で大回りして名古屋に帰る運用でした。1968年は新宮発のしらはまにはキロが含まれていたようですから、基本編成が大回りをしていたのでしょう。

もうひとつ、「くまの」と「志摩」です。これも1972年の情報でしかありませんが、京都から紀伊勝浦・串本までの往復を、「くまの」→「はまゆう」→「志摩」という運用と、「志摩」→「はまゆう」→「くまの」という運用が組まれていました。前者が4両編成、後者が5両編成です。ダイヤを見る限りさほど変わっていませんので、1968年でもそのような運用ではないかと考えられます。

>しらはま1号
皆様、情報ありがとうございます。単純に言えば名古屋からやってきて新宮で二手に分かれて一方は元来た道を戻り他方は和歌山を経由して戻るということですね。それにしても何でこのような運用を行ったのでしょう?

>次回以降に期待
スミマセン、元資料は市販の時刻表ぐらいなので大したことは書けません(汗)。北東航21さんのように運用表があれば即解決なのですが・・・。

>それにしても何でこのような運用を行ったのでしょう?

天鉄局の歌 の1番が、紀勢線だったからだと思います😅。
関西線は2番、阪和線は3番ですし。

moni5187さん、北東航21さん ありがとうございます。
結構、かすがの間合い運用があった上にグリーン開放もあったんですね。それにしても、しらはま1号の運用は不思議なものでした。当時は(53.10以降の号数)1号が名ナコ。2号、3号が大ムコというのも結構考えこんだりしました。
もうひとつ永らくわからないことがあります。この話題にはあまり関係ないのですが、わからなかったらスルーしてください。
53.10改正の年の夏ぐらいまで和歌山線、桜井線には郵便荷物気動車にキハユニ16、キハユ15、キユニ17が使われていました。しかし53年夏休みの途中ぐらいからキユニ284(ツートンカラー)とキユニ194が入り少ししてキユニ261とキユニ262が入ってきました。いずれも所属は天ナラですが、このうちキユニ1717だけが名ミオだったのです。美濃太田の車両がなぜここで運用されているのか不思議でした。このキユニ1717が連結されていたのは桜井線537Dです。この列車、電化までにキユニ194、キユニ261と変わっていきました。後ろに連結されている4両はキハ35が多い桜井線のなかでキハ20やキハ10も連結されていました。
余計な質問をして申し訳ありません。


marinさん
キユニ17 17は53年10月に美濃太田区で廃車となっていますが、キハユニ16、キハユ15と共に関西線で竜華、城東貨物線経由で廃車回送されている画像が残されており(「奈良地区 気動車 廃車回送」で検索すると出てきます)、おそらく美濃太田区から奈良区へ貸し出されてそのまま廃車になったと思われます。
昭和53年はキユニ28が登場し、玉突きで10系の郵便荷物車が廃車もしくは四国九州に転配されつつあった過渡期で、検査期限の関係で春先に3両のキユニ28が配置されて余裕のあった美濃太田区から借りた可能性は高いと思われます。

キユニ19 4、キユニ26 1,2は書類上は昭和53年9〜10月に伊勢区から転属になっていますが、これも前倒しで貸出されていたようですね。

北東航21 さん、くわしい解説、ありがとうございます。廃車回送の写真も見ました。なかなかの感動ものでした。
キユニ17、置き換えのための一時貸出だったのですね。40年以上悩んでました。当時、証拠を残そうと名ミオの部分までしっかり撮っています。(笑)
桜井線はキハ35系がメインで入ることが多い中。537Dはキハ45、キハ20、キハ25、キハ10と雑多な編成が多かったので、電化まで何回も撮影に行きました。今、思い出したのですが、キハ25は半分ロングシート、半分クロスの簡易荷物仕様のものも
普通車として最後部につながれていることもありました。
もうひとつ、質問させてください。こちらのサイトでも以前に話題になってましたが、きのくに11号椿行きのことです。この列車、ぼくも天王寺で何回か見かけたのですが、キハユニ16が連結されているのは知っていましたが、これも当時は運用が全くわからず、ネットで検索しても画像は出るけどわかりません。後にはキユニ284になっている画像も出てきます。キハユニ16、キユニ28ともなぜ阪和線を経由しているのか?
もしおわかりになればよろしくお願いします。

43.10改正時の優等列車の運用に関して一般でも入手可能な資料としては、ちょうど15年前にネコ・パブリッシングから出版された「全国版 優等列車編成順序表-昭和43年10月1日 国鉄白紙ダイヤ改正」が挙げられます。実は私も当時購入しているのですが、その後の転居で奥にしまってしまい・・・
で、以下記憶ですが、紀伊半島地区の運用表で「運転順序は隔日で変わる」旨の記載があった列車があり印象に残っていまして、これが件の「しらはま」関係運用ではなかったかと思います。2日続けて同じ運用に入って向きを戻していたのでしょうか。
(所蔵されていて私の記憶の検証を行ってくださる方の登場をお待ちしています。)

>北東航21さん
運用の最初と最後が「両側幌なし」または「両側幌つき」であれば解決しそうな気がします。
幌運用の制約が非常に厳しそうですが、後年までこの列車が存続したということは、あるいは運用体系が完成されすぎていて崩す余地すらなかった・・・ということでしょうか。

>かたぎさん
編成順序表!
運用表ばかりに気を取られて忘れてました。手持ちの資料をあたると、該当する3両には増1〜3という号車が振られてますが、「隔日逆編成となる」の注記がありました。

>marinさん
きのくに11号に連結されるキハユニ16は、編成順序表では和歌山から往復しています。50-3改正だと天王寺13:36着きのくに4号に和歌山から連結され、きのくに11号の先頭で和歌山で解放されています。普通列車の運用はわからないのですが、和歌山線で和歌山まで来て天王寺1往復の運用のようです。
このような運用が存在したのは、「混合列車 その4」のコメントにも書きましたが、阪和線を走る荷物車は夜行の921/924列車しかなく、おそらく急送品輸送のためにもう一本必要だったと思われます。

ヨンサントオより後、の話になってしまい恐縮です。

「時刻表大研究」監修 鉄道友の会 '77(昭和52)年広済堂出版
1章 時刻表・ここが気になる
9 ひっくり返る「しらはま」(P32,33)によりますと。

名古屋を夜行の「紀州5号」で出た前より3両が新宮に着き。「きのくに4号」の前に付いて和歌山で切り離されて。単独の「しらはま1号」になって和歌山線、桜井線、関西線経由で、亀山で「紀州4号」の後に付いて名古屋に戻ると、ひっくり返るため増号車扱いに。と図解付きで紹介されています。

3両は'72/3以降のようで、「紀州5号」が'73/9開業の伊勢線を通っていれば、高田のスイッチバックで、ひっくり返らずに済んだのに思います。記述が伊勢線開業以前のことなのか、「しらはま」が廃止の'80/10まで亀山経由だったのかは、時刻表がないので不明です。

この本は、奈良の3,4番のりばのキヨスクで買った記憶があり、その年に奈良15時前発の上り急行に乗った覚えもあります。「かすが6号」だと思っていたのですが、晩年の「しらはま1号」だったことが、今ごろ判明しました。

車内には、買い物帰りと思しき御婦人がポツンと乗車されていたのと、伊賀号をよく撮りに行った撮影仲間(幼なじみ)との再会もありましたが。ノンストップは確かに早いが、休日の華やかな急行では無かった印象が残っています。平日ゆえに。

>かたぎさん
反応が遅くなりましたが、「全国版 優等列車編成順序表-昭和43年10月1日 国鉄白紙ダイヤ改正」持ってます。

「運転順序は隔日で変わる」のは、907D[紀州4号」(名古屋23:25→紀伊勝浦5:40)です。7両編成のうち亀山方5両の<名15>が1~5号車で、記事欄に「1~5号車の編成順序が隔日にふりかわる.」とあります。4・5号車が指定席なので、編成中での指定席の位置が日によって変わることになります。
この<名15>はそのあと新宮へ行って(普通又は回送?)、1206D[しらはま1号](新宮8:25→名古屋17:30)に運用されます。1206Dの編成図には、編成順序が隔日に~という記載はありません。ハが全車自由席で、中央3号車のロを挟んで前後対象の編成になっているためでしょうか。

ちなみに先の907D[紀州4号]の残り2両は<名16>で、<名15>と同じく紀伊勝浦から新宮へ移動します(そこまでは一緒か?)。新宮で、鳥羽からやって来る1307D[はまゆう1号]の前部に増結されて紀伊勝浦着12:06、慌ただしく折り返して12:24発の2713D(前4両[くまの]+後4両[紀州2号])の最後部2両となります。多気では鳥羽から来た713D[志摩1号]の後部に付いて11両の長編成になりますが、京都行きの[志摩1号+くまの]は亀山で別れて行きます。この時点の[紀州2号]は亀山到着時の前2両が<亀1>、後2両が<名16>の4両です。ここで方向転換して<名16>が前になるのですが、この時、今朝がたまで一緒だった<名15>の1206D[しらはま1号]がやって来て再会します。とは言っても間に<亀1>が挟まっていますし、<名15>は高田で方転しているので、同じ編成が再現されるわけではありません。ここから9両編成の先頭となって名古屋へ向かい、運用が終ると思われます。

たった2つの運用をご紹介するのにこれだけの長文、失礼しました。

北東航21さん。またまたくわしい解説ありがとうございます。確かに、あの当時、阪和線の荷物車は夜行南紀しかありませんでしたね。該当のきのくにで定期的に運ぶ何かがあったんですね。のんびりと走る普通列車でキハユニ16には何回か乗りましたが、阪和線内をノンストップで突っ走るキハユニに乗ってみたかったです。(たぶん、荷物車代用で乗れなかっただろうけど)
それにしても、車と高速道路の整備で紀伊半島のDC急行列車、もし全部復活したとしても誰も利用してくれないでしょうね。

>1号が名ナコ。2号、3号が大ムコ
このあたりに関係する車両基地は名古屋機、和歌山機、向日町転所でしょうか。1969/3の時点で奈良転所にもキハ58系がハのみ21両配置されているのですが、これもかすが等に運用されていたのでしょうか。

>編成順序表
買います。

しらはま2号、3号は向日町運転所(大ムコ)のハザ、ロザを含む5両編成でした。確か、急行志摩と共通運用だったと思います。55,10で紀勢線区間がくろしおに格上げされ、紀ノ川となり59、10で廃止でした。最後まで大ムコで、キロ28はたまにユニット窓に改造されたものも連結されていました。
この列車は奈良県内から白浜の行き帰りに結構利用されていて団体客も乗っていたのに、和歌山で打ち切りとなり、利用客が激減しました。
当時、京都から和歌山、奈良から和歌山は乗換はあるものの、大阪市内を経由するほうが安くて早いですからね。
急行志摩は近鉄特急の便利さと速さに太刀打ちできず撤退でしたね。さかのぼれば鳥羽から姫路行きの客車列車も走っていたのに、参宮線自体が時代にとり残された感じです。


>近鉄特急の便利さと速さに太刀打ちできず
参宮線もそうですが、関西本線の凋落が著しいですね。

キハユニ16は新聞輸送を行う為に天王寺へ空で行き,和歌山へ戻ると,急行の次に紀勢本線の上り普通列車(キハ35系主体)に付け替えて,新宮方面へ行きました.急行併結の阪和線内は,建前上回送でしたが,ドアが開くので地元民は,お構い無しに乗って居ました.職員に見られても注意を受けた事はありません.写真も残っていました.小学生の時に東京から乗りに行きました.此に乗る為だけ,1往復を撮影するだけに,2回だけ小学生の時に日帰りで往復をしました.運賃は小遣いを貯めて父親が国鉄職員でしたから,割り引き証を使ったので,約半額の為,1往復分の運賃で撮影と乗車とに出掛けました.

小学生で東京~大阪日帰り往復ですか、なかなかの冒険家ですね(笑)。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 山形配線図 追加 | トップページ | 関西線・紀勢線のDC急行(1968年) その2 »

過去の記事

2024年10月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ