紀勢本線の客車列車
今回は、紀勢本線亀山~和歌山市間と和歌山線の普通客車列車についてのお話です。
まずは1975年3月以降の、時刻表をもとに作成した普通客車列車ダイヤを見ていきます。
時刻表1975年3月号
・いろいろな運転区間の列車が設定されていますが、区間ごとの列車本数で見れば津~和歌山市のどの区間でも3往復の普通客車列車が運転されていることになります。
・921~924の4本の列車は名古屋始発/終着です。これに加えて名古屋~亀山間の関西線には221~227の下り4本上り3本の客車普通列車が運転されていましたので、922・923列車は列車番号的には紀勢線直通列車ですが実態としては関西線の列車グループの一員といった感じです。
・特徴的なのは、今までも幾度となくご紹介していますが、和歌山で924列車に併結される和歌山市発の4924列車ですね。おそらく126列車の一部が紀和で切り離され、その後和歌山市に回送されるものと思われます。当然和歌山では旅客を乗せたままの入換となるはずです(1972年までは南海客車による難波直通も行われていました)。
・921・924列車には「南紀」の愛称が付けられ、天王寺~新宮間で寝台車が連結されます。
・和歌山線では下りは和歌山市行きですが上りは和歌山始発です。和歌山駅を始発または終着とする普通客車列車はこれが唯一です。下りは和歌山でスイッチバックですね。
時刻表1978年10月号
・1978年10月に新宮までの電化が完成して、これによるダイヤ改正が行われました。122列車の紀伊田辺~新宮間と126列車が電車化されましたが、逆に気動車列車から変更される形で128列車が新たに設定されたため、津~和歌山市での区間ごとの列車本数は3往復のままで変わっていません。
・921・924列車は「南紀」の名を特急に譲り、「はやたま」に愛称を変更しました。
・4924列車となる車両は121列車からの切り離しに変更されたようです。
・新宮~和歌山間では昼行列車のスピードアップ(?)が著しいです。121列車で約30分、124列車で約60分、123列車に至っては何と約2時間もの短縮です。実際には電化によるスピードアップと言うよりは停車時間の短縮によるもののようで、123列車で見ますと主要駅の停車時分は改正前後で以下のように変更されています。
周参見 34分→5分 △29分
紀伊田辺 27分→11分 △16分
南部 22分→1分 △21分
御坊 36分→5分 △31分
箕島 14分→3分 △11分
これらの停車時分の変更だけで合計108分の短縮になっています。1975年3月時点の123列車はいったいどれだけ停車していたのか・・・。
時刻表1982年8月号
・1982年5月に関西線八田~亀山間が電化され、これに伴いダイヤ改正が行われています。
・この改正で関西線名古屋口の普通客車列車がすべて廃止され、921~924列車も亀山発着に短縮されました(922列車は2122列車、923列車は2131列車に変更されています)。
・ところがなぜか亀山~津間に1往復、2127・2128列車という列車が新たに設定されました。時間帯としては既存の列車に近く(2127列車は125列車の、2128列車は124列車のいずれも約15分後の運転)、しかも客車列車として設定されたところがちょっと不思議です。
・これに伴い紀勢線の普通客車列車の列車番号が全体的に整理されています。
時刻表1984年6月号
・1984年2月の改正で921・924列車の運転区間がさらに短縮され、新宮~天王寺間となりました。同時に12系化されて寝台車の連結も廃止され、「はやたま」の愛称も外されました。他の普通客車列車でも同時期に12系化されたものがあるのではないかと思います。
・4924列車は廃止されました。
・亀山~津間の2往復も廃止されています。
時刻表1984年10月号
・1984年10月に和歌山~和歌山市間と五条~和歌山間が電化されました。
・これによる改正で、和歌山市発着の客車列車は121・128列車が和歌山打ち切りとなりましたが123・124列車は残りました。ということは、EF58が和歌山市駅に乗り入れたのでしょうか?
・和歌山線の客車列車は廃止(電車化)されました。
時刻表1985年4月号
・この時点では旧123列車と旧124列車が電車化されています。1985年3月改正での変更でしょうか。
・これにより和歌山市駅で客車列車の機回し作業が行われることはなくなりました。
そして時刻表1986年11月号ではとうとう紀勢本線から普通客車列車はすべて消え去りました。
と、ここまで紀勢線の普通客車列車の変遷をご紹介してきましたが、本題はここからです。それは、「竜華客貨車区の客車の運用はどうなっていたのか」ということですね。
竜華客貨車区の所在地は紀勢線や和歌山線の沿線ではありませんので、当然回送列車が運転されているハズです。921・924列車の回送列車に関しては以前記事を書きましたが、これ以外にも回送列車が設定されているのではないかと思います。
天王寺駅の客車回送
天王寺駅の客車回送 その2
天王寺駅での客車入換
阪和線配線図 1983/12 その1の記事でくまぷーさんからいただいた以下のコメント、
「夕方暗くなったころに天王寺方面に向けて機関車に牽引された客車列車がゆっくりと走っていたように記憶しています。」
の通り、これが竜華区に戻る回送客車列車かもしれないのですが、竜華区の客車の回送経路については情報が少なく実態がよくわかりません(汗)。
それ以前に、どの列車が竜華区持ちなのかもよくわかっていません。
紀和配線図 補足の記事でとらやんさんからいただいたコメントのリンク先の情報では、1980年8月~1981年2月頃の記録として、
・121列車・・・亀山客貨車区
・4924列車・・・亀山客貨車区
・128列車・・・亀山客貨車区
・124列車・・・竜華客貨車区
・921列車・・・(座席車)竜華客貨車区+(寝台車)新宮客貨車区
となっています(荷物車は省略)。
大雑把にはこんな雰囲気になるのでしょうか。
新宮以西はすべて竜華区の受け持ちかと思っていたのですが、亀山区の勢力は思ったより強大なようです。
鉄道図書刊行会の車両配置表によれば竜華、新宮、亀山の各客貨車区の1975年3月以降の客車(12系、50系、一般形寝台車・座席車のみ)の配置両数の推移は以下のようになっています。
・紀勢線の客車列車は竜華区と新宮区と亀山区で受け持ち、そのうち新宮区はほぼ寝台車のみの担当のようですが竜華区と亀山区の分担の詳細はわかりません。また亀山区は草津線も受け持っていたようです。
・1985年以降は竜華区には一般客車の配置がなくなっていますので、1984年2月の改正で夜行列車を含めて竜華区受け持ち分はすべて12系が充当されていたのではないかと思われます。
・新宮区の寝台車は1981年度に竜華区に移管されていますが、その竜華区でも1984年2月の寝台車廃止で配置がほぼなくなったことがわかります。
・亀山区の配置両数に大きな変化がないのも不思議です。1982年5月に廃止された関西線名古屋口の客車列車は名古屋客貨車区持ちっぽいのですが、紀勢線関係でも運用は減っていると思うのですが。
いろいろと不明な点が多いのですが、これ以外にも
・和歌山に到着した客車列車は和歌山操に回送されていた?
・竜華の荷物客車は阪和線の貨物列車に連結されていた?
・和歌山線の客車列車は竜華持ち? だとすれば和歌山から入るのか、それとも王寺から入るのか(竜華~王寺間回送)?
・和歌山~和歌山市間をけん引したDD13(多分竜華所属)は和歌山までどうやって来ていた?
など、疑問が尽きません。
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バックナンバーはこちらからどうぞ。
1982年5月の亀山電化で登場した亀山ー津間の2127/2128列車ですが、2128列車のは乗車したことがあります。
確か天リウの客車4両のみで津駅が5番線(上下待線)発、亀山駅6番線着。
6番線着後、奈良方にマニ(スユニだったかも)、名古屋方にハフ(天カメ)を連結して、天王寺行き921列車になります。先頭の天カメ1両は新宮までの連結でした。
ところで1968年10月時刻表を見ると草津0610発、和歌山市2130着という客車列車(亀山まで722レ、亀山から135レ)という列車がありますね。逆向きの紀勢線から草津線への直通はないので、いかなる運用か気になります。
投稿: 北東航21 | 2021年10月14日 (木) 10時19分
追記です。
1984年2月以降の運用が鉄道ジャーナル別冊No.12「客車列車1984」に掲載されています。
それによると、12系化(4両)された竜華区の運用は、回235で竜華出区後、924で新宮。そこから、121〜128で和歌山市往復して新宮滞泊。123で和歌山市に行って、回123で紀和滞泊。回124で和歌山市に回送され、124〜921〜回230で竜華入区。
一方、和歌山線は50系5両で、回421で竜華から王寺に回送され、421で和歌山市まで行ったあと回421で紀和滞泊。翌朝は回422で和歌山に回送されて、和歌山から422〜回422で竜華です。
なお和歌山市駅は1984年10月に電化されますが、機回し線は非電化のままでしたのでEF58の入線はなく、当時はDE10の牽引でした。
投稿: 北東航21 | 2021年10月14日 (木) 10時54分
和歌山線の客レについてです。
1980年ごろ夕方に113系快速奈良行きに乗っていると、王寺到着前に「畠田通過」の和歌山行きの車内アナウンスがあり、和歌山線のりば(おそらく7番線)を見ると、赤い客車が止まっていたのを覚えています。これが421レだと思います。
1990年代初頭の草の根BBSで、なぜ「畠田通過」だったのかを尋ねたところ、明確な回答は得られずでした。ネット時代になって自分なりに調べたのですが、ホーム長や前後の踏切の関係で止まらなかった。と思うことにしました。
現在のネットで「王寺 50系客車」で検索すると、当時の王寺側の和歌山線の客レに関する情報が結構出てきます。
①DE10+50系5両が朝の王寺の6番線に停車中の写真。
②1983年に天リウに50系7両が配置されていたとの投稿。
③DE10+スユニ+50系5両が王寺の2番線に停車中の写真。
④ ③同様の編成が第6大和川橋梁上り線を走行中の写真。
https://ameblo.jp/ak7193907/entry-12451168352.html
以上それぞれ別サイト様で、総合すると竜華に50系が配置されていて、王寺~竜華間は回送だった説が有力と思われます。
②のサイト様には、朝の422レ畠田→王寺の車内補充券も掲載されていました。改めて1961年の空中写真を見ると、畠田のホームは現在と同じ長さで6両対応のようです。なぜ夕方の421レが「畠田通過」だったのか謎が深まるばかりです。
投稿: moni5187 | 2021年10月14日 (木) 17時31分
訂正ならびに補足です。
和歌山線の50系は、1982年5月頃からとのこと。1980年ごろだとしますと王寺で見たのは旧客のようです。「畠田通過」の車内アナウンスを聞いたのは間違いなく、50系になってからどうだったのか、時刻表でフォローしていただくと幸いです。
投稿: moni5187 | 2021年10月14日 (木) 18時49分
さきに「きのくに10号」ネタで採り上げたピクトリアル誌
昭和54年1月号の「トピックフォト」のコーナーに
紀和駅を出発するDD13牽引の121列車の
写真と記事とがありました。
牽引機のDD13187は確かに竜華の所属でしたね。
投稿: ヤドリギ | 2021年10月14日 (木) 21時15分
紀勢本線の客車列車には以前より大変興味を持っておりまして、取り上げていただき、ありがとうございます。
1978年10月改正前はよく知りませんが、この改正から1982年5月までは、924→921と、421→124→126→125→123→422が竜華区、127→121→128→122が亀山区でした。西線電化の前後に関わらず、竜華と亀山でお互いに紀勢本線を縦走する運用が組まれていたようです。いずれも基本4両(オハフ・オハ・オハ・オハフ)ですが、421→422には竜華区の付属2両、121→4924→924→127には新宮区の付属1両がつながっていました。ただし、新宮区の付属はいつからか天カメに変わっていました。竜華の基本4両の運用は鉄道ファン1981年11月号に掲載されています。
1982年5月以降は、924→921の基本編成およびオハネ(フ)が竜華区の受け持ちになり、その他の昼行列車の基本編成および付属編成はすべて亀山区の受け持ちです。基本編成は運用順序は、129→121→132→124→2131→2122→125→123→126→130です。一方付属編成は、129→121→4924→924と、921(新宮まで)→130があります。
これらは何年か前に復刻されたジェー・アール・アールの「国鉄客車ガイド」に掲載されています。
1982年5月以降の2127・2128列車は924・921列車の昼寝の際に、亀山で収容できず津に留置するためなのかなと思っています。
なお、スユニは924で送り込まれて921で回収される運用(その間熱田に行きます)と、関西本線の荷物列車を経由して亀山から紀勢本線に入る運用があります。マニの多くは阪和線の貨物列車にくっついて竜華と和歌山操の間を改装されていました。
大々的に気動車化が進んだ1973年よりも前は大変多くの客車列車が運転されていたようで、北東航21さんが書かれている草津発和歌山市行きのような名物列車が運転されていたり、準急列車も巻き込んだ複雑な運用でスロハやスロなども運転されていました。さすがにその頃のことは私もよくわかりません。
投稿: ナノメーター | 2021年10月14日 (木) 22時03分
亀山区の運用を紐解くと、80/3時点で新たに12両配置された50系は草津線用で4両の運用を2本繋いで8両で京都まで出てきます。それ以外の草津線運用は向日町持ち。
84夏に50系が亀山に追加で転入してきたのですが、紀勢本線運用を全て置き換えるには足らず、翌85/3まで、50系2本と旧客2本で共通運用が組まれます(実際は50系は予備車が草津線との共用だったので、旧客の運用が僅かに多かったです)。
85/3で50系が必要両数揃って紀勢本線も50系化が完了します。なので86/3時点の旧型客車は全て保留車と思われます。
亀山配置でオハフ33 333というゾロ目を記憶していますが、確か廃車は87/2だったと思います(それまで休車指定で延命させてました)。
投稿: 北東航21 | 2021年10月16日 (土) 00時41分
皆様、多くのコメントありがとうございます。
いただいた情報をもとに改めて整理してみたいと思います。
投稿: f54560zg | 2021年10月16日 (土) 14時56分
moni5187様 北東航21様
手元にある昭和55年の関西本線列車ダイヤを見ると、王寺駅9:38発の回422列車が竜華まで運転されています。竜華発は15:56頃発の回421列車で王寺駅まで運転されています。
この列車ダイヤは、「天王寺駅の客車回送 その2」の記事にあります。
手元にある時刻表を見ますと、昭和53年10月号では、畠田駅は通過になっていますが、昭和55年10月号では畠田駅は停車になっています。
ですので、昭和54年の時刻表が手元にありませんので、はっきりとしたことはいえませんが、 「畠田駅通過」の放送があったのは、昭和55年10月以前だということになります。
昭和52年に和歌山線・阪和線の乗り潰しの際に和歌山駅~和歌山市駅間を旧客車で往復した覚えがあります。新宮駅からやってきたEF58牽引の列車が和歌山駅でDDに機関車交換、紀和駅で一番後ろの車両を切り離し、和歌山市駅で機回しを行い、和歌山駅まで戻ると再度EF58に機関車交換という大変楽しい列車でした。
投稿: 480042 | 2021年10月16日 (土) 23時00分
初めてまして。
和歌山線の客車列車のことが話題になっていたので投稿させていただきます。
421レは通学でよく利用しました。422レは通学の時間から外れていたのでたまに利用する程度でしたが休日は結構乗りました。
写真もよく撮りに行きました。422レは午前中のいい時間帯で撮影しやすかったけど、和歌山線内での421レは夏場しか撮影できませんでした。それで竜華からの回送を撮影しようと思いましたが何時頃、王寺に着くか、あの当時は情報もなく、なかなかわかりませんでした。
だいぶしてから、王寺には16時過ぎぐらいに、1番線の隣の留置線に入って来るのがわかりました。そして和歌山線の5番線に入って来るのは17時45分ぐらいだったと思います。
それから、何回か河内堅上の駅から歩いて王寺寄りの鉄橋やトンネル付近で撮影できました。今、当時の写真を見てみると、今だとどれも立ち入り禁止区域です。
畠田通過のことですが、当方、昭和55年7月25日に王寺発車から高田到着まで録音しています。王寺駅の放送はいつも「畠田通過和歌山市行です」と放送していました。畠田に停車するようになったのは昭和55年10月改正です。畠田に停車するようになったのは、駅近くのベッドタウン化が進んで乗降客数が急に増えてきたからです。このあと畠田停車になってからの昭和56年4月にも王寺ー高田を録音しています。ちなみに422レは昭和54年4月17日に志都美-畠田の踏切でダンプカーとぶつかってDE10と客車が脱線事故を起こしています。田んぼにオハフ33が横たわってました。
編成はいつも10系客車と35系客車が半々ずつで、421レは前よりにナハフ10、ナハ10が3両か4両と後ろ寄りにオハ47、オハ35、オハフ33が2両か3両連結されていつも6両編成でした。422レはこの逆です。よく見たのはナハフ1014とナハフ1033、オハフ33333、オハフ3315、オハフ331526をよく覚えています。421レにはよく検査上がりのキハ58やキロ28、キハ35も最後部に連結されることがありました。もう少し古くなるとキハ81もあってさすがにこれはびっくりしました。
50系になったのは、昭和57年5月の関西線亀山名古屋間の電化の時です。ダイヤ改正前日の422レが旧型客車最終運行でした。そしてその日の夕方の421レから50系になり50系初乗りも兼ねて王寺から乗りました。ピカピカの新車でした。王寺駅には何人かの職員さんが見送ってました。
その50系も昭和59年10月の和歌山線全線電化完成の前日422レが最終でした。旧型客車の時は夏場を中心にしょっちゅう撮影していましたが、50系になってからはほとんど撮っておらず、たまたま重連で走った時に撮った1枚と最終日の422レを撮った1枚だけです。今思えば、50系客車が関西線を走っているところも撮っておけばよかったなぁって思ってます。
確か旧型客車時代の421レは紀勢線への送り込み回送も兼ねていたのですね。50系になってからはスユニ以外は和歌山線専用だったので、わざわざそのために新車の50系を投入したと思えば、当時の国鉄はもったいないことをしていたんだなって思いました。それにしても、もう40年近くたつのですね。ながながと失礼しました。
投稿: marin | 2021年10月17日 (日) 07時50分
480042さん、marinさん、フォローありがとうございます。
421レは、各停ではなく通過駅もある快速運転で、畠田もその一つで、単にベッドタウン化が進んでなかった為に通過だったこと分かり、40年越しの謎が解けた思いです(^^;)。
畠田が停車になったのは、旧客時代の'80/10からとのことで、後の50系の記憶とごっちゃになっていました。
乗降経験はありませんが、駅東に教習所が広がっていて、駅前のヤオヒコ1号店に行った覚えがあります。
投稿: moni5187 | 2021年10月17日 (日) 18時34分
marinさん
詳しい情報ありがとうございます。421レは何度か王寺駅ホーム停車中を見てましたが結局乗らず仕舞いでした。
和歌山線運用に50系が投入されたのは、いずれ紀勢線も50系置き換えを見据えた計画がありました。そのため竜華区のEF58はP形改造(客車に圧縮空気を送り込む元空気溜め管設置)が行われたのですが、50系増備計画が変更されて増備が中止になりました。
ちなみにEF58の方は紀勢線が12系化された時にカーブの多い紀勢線での空気バネと停車駅でのドアエンジンへの空気供給のために活かされました。
投稿: 北東航21 | 2021年10月17日 (日) 19時00分
>昭和55年の関西本線列車ダイヤ
おお~、そうでした。失礼しました、忘れてました。改めて見直して、しっかり確認しました(汗)。
>畠田駅通過
480042さんとmarinさんのコメントとカブりますが、時刻表1980年3月号では通過になっていますので、停車するようになったのは1980-10ではないかと思います。
竜華区の50系は小世帯で、1982年3月に新製車6両(ハ2両、ハフ4両)、1982年度に姫路からハフが1両転入しましたが結局この7両だけで和歌山線専用にしていたようですね。ですので旧型車時代に畠田駅に停車するようになっています。
marinさん、初めまして。
貴重な情報と楽しい思い出をありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2021年10月17日 (日) 19時12分