« 花輪線配線図 その8(沢尻~東大館) | トップページ | 年末荷電の運用 »

2020年11月 3日 (火)

荷物拠点駅 その2

荷物拠点駅の盛衰のお話のその2です。
(その1はこちら。)

 

最初は上沼垂駅です。
1965年10月。
05196510r
・国土地理院空中写真MCB653X-C11-6を加工しています。
・この時点では上沼垂は信号場で、あたりは一面の農地です。

1975年11月。
05197511r1
・国土地理院空中写真CCB7510-C9-14を加工しています。
・大きく変貌しました。赤丸部に荷物基地及び貨物基地が設けられたほか、新潟運転所上沼垂支所もでき、新幹線の高架橋も建設途上です。
・1965年の写真に戻ってみると、基地の建設用地がおぼろげにわかりますね。

1994年9月。
05199409r
・国土地理院空中写真CB941-C4-10を加工しています。
・荷物基地は貨物基地ともどもきれいさっぱり更地と化してしまいました。反対にその周辺では、ここまで変わるか、というくらい民家が密集しています。

配線図も見てみます。
1978年9月です。
05197809r1
・赤丸部の高床ホームが荷物扱所ではないかと思うのですが・・・。

 

続いて百済駅。
1964年6月。
08196406r
・国土地理院空中写真MKK643X-C8-8を加工しています。
・百済駅が開業してまだ間もない頃です。まだまだ整備途上のような雰囲気が感じられます。

1975年3月。
08197503r1
・国土地理院空中写真CKK748-C19A-21を加工しています。
・赤丸部に荷物扱所が設けられました。百済駅全体のほんの片隅ですね。

1994年5月。
08199405r
・国土地理院空中写真CKK941X-C7-9を加工しています。
・例によって用地は更地になってしまいました。

配線図も見てみます。
1988年3月です。 (※1)
08198803r1
・赤丸部が荷物扱所です。

19780314d01t
・1978年3月14日、平野駅から湊町駅方向を撮影しています。右側が荷物扱所です。

 

続いて北長野駅。
1973年5月。
06197305r
・国土地理院空中写真MCB733X-C7-14を加工しています。
・まだ荷物基地が整備されていない頃です。

1976年4月。
06197604r1
・国土地理院空中写真CCB7513-C2B-21を加工しています。
・赤丸部に荷物基地が整備された頃なのですが、規模が小さいためかほとんどわかりません(汗)。

2020年6月。
06202006r
・国土地理院空中写真CCB20105-C11-23を加工しています。
・荷物基地付近は新幹線の高架になりました。

配線図も見てみます。
1978年12月です。
06197812r1
・赤丸部が荷物の基地と思われます。

6619781227b04
・1978年12月27日撮影です。
・右端(下り2番線)にちょっとだけ荷物客車が写っている一方で、折り返しの荷物電車は堂々と下り本線で荷扱いを行っています。

 

続いて熱田駅。
1969年5月。
07196905r
・国土地理院空中写真MCB699-C6-2を加工しています。
・駅の右側は日車です。駅の跨線橋のすぐ右側には転車台も見えます。

1980年5月。
07198005r1
・国土地理院空中写真CB808-C4-16を加工しています。
・赤丸部に荷物基地が設けられました。

1990年5月。
07199005r
・国土地理院空中写真CB902-C8-12を加工しています。
・荷物基地は更地になりましたが、日車の工場も様変わりしました。

配線図も見てみます。
1979年1月です。
07197901r1
・赤丸部が荷物基地と思われます。

 

続いて横浜羽沢駅。
1988年11月。
198811r
・国土地理院空中写真CKT882-C2B-4を加工しています。
・既存駅に荷物基地を後付けした他の駅とは違って、開業時から荷物の拠点としての使命を与えられた駅ですね。

2019年6月。
201906r
・国土地理院空中写真CKT220194-C15-22を加工しています。
・荷物営業は廃止されてしまいましたが、ぱっと見にはそう大きくは変わっていません。

配線図も見てみます。
1986年3月です。(※1)
198603r1
・新しい駅のせいか、着発線荷役方式(?)ということになるのでしょうか。まあ、もともと荷物の積み下ろしは着発線で行われていたわけですが・・・。

 

最後に苗穂駅。
1976年9月。
197609r
・国土地理院空中写真CHO766-C10-17を加工しています。

1981年6月。
198106r1
・国土地理院空中写真HO811-C9-16を加工しています。
・赤丸部に荷物基地が設けられました。

最近のGoogleマップ。
200000gr
・例によって跡形もなく消え去ってしまいました。

 

荷物の拠点駅の整備が始められた時点では今後の荷物営業の拡大が期待されていたのでしょうが、その後間もなくあっけなく廃止されてしまいました。操車場を始めとした貨物施設も集結輸送の廃止により一気に不要になってしまいましたが、それに比べると荷物拠点設備の寿命は余りに短かったように思います。

 

※1印・・・T.Mさん
よりご提供いただきました。
ありがとうございます。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 花輪線配線図 その8(沢尻~東大館) | トップページ | 年末荷電の運用 »

コメント

荷物拠点駅の話題とは少し違いますが1969年撮影の熱田駅空中写真に熱田駅駅舎裏のターンテーブル確か日車100年史にも掲載されていました完成車輛の納車の折方向を揃えるのに利用していたのでしょう此の時代にはさすがに朝鮮戦争用ミカイ型蒸気機関車仕掛品は廃棄されたのでしょう工場内には仕掛車輛が処狭しと並んでるのが見て取れます
不思議なんですが国鉄熱田駅と名鉄神宮前駅は随分離れており間に名鉄の小規模な操車場が存在していました国鉄名鉄間貨車授受線も存在してました

>続いて百済駅。
>1964年6月。
関西線が非電化で高架化されておらず、左隅上部の杭全交差点の北側に、開かずの杭全町踏切があった頃ですね。

>1975年3月。
湊町、奈良間が電化され、奈良以東にもDL牽引の荷物列車が走った頃ですね。無煙化以前にも、百済行き下り荷45レがDD51+D51になり、よく撮っていました。

>1994年5月。
元杭全踏切の天王寺方に東部市場前駅が写っています。新駅建設が発表された時、あの高架にどのようにして駅を作るのかと思いましたが。短冊状のホームを高架の縁に乗せて、という感じで、うまく駅を作っていました。駅が出来てからは、杭全のボウリング場へ行くのに何度か利用しました。

百済駅につきましても、初代の旅客駅が存在していました。こちらも(初代)加美駅と同じく、全景を捉えた写真は、Web上には無さそうですが。くまたボウル(現在は建て替えられ家電量販店)の北向かいの国道25号のガードと、平野川の間の新在家第一高架橋の下に、枕木を立てた遺構が残っていたようです。

旧汐留駅の東海道本線等を挟んで山側に手荷物扱い施設が有り汐留発の下り荷物列車に手荷物を積み込む為の仕分け業務を執り行われてました手荷物輸送が廃止となり跡地は都内各地同様其の後再開発でJRAのビル等ビル群へと変わった此処の再開発ではビル群は統一感のあるデザインで建設されており美しい街並みになっています

yyoshikawaさん
日本車輛、すごいですよね。
汐留の荷物は東海道線の下を運搬されていた、ということでしょうか。

moni5187さん
>下り荷45レがDD51+D51
百済駅に蒸機が乗り入れていたのでしょうか。

>百済駅に蒸機が乗り入れていたのでしょうか。
空中写真と配線図にターンテーブルが無いので、なかったかと思われます。湊町のは、1972年で使用停止か撤去のようで、龍華までバックで戻るのも何ですし。

moni5187さん
ですよね。ありがとうございます。

横から失礼します。
昭和43年に製作された記録映画「貨物列車日本縦断」のワンシーンで、百済駅にD51がク5000を連ねた自動車輸送列車を牽いて到着します。百済~竜華程度の短区間なら、D51の逆行回送も別段珍しくなかったことでしょう。
ちなみに百済駅では積荷の自動車が自走で降りてゆき、見上げる背景の上り本線を、DF50牽引でオロネ10を含む急行「大和」と思われる列車が通過していきます。

自己レスです。上り「大和」の湊町発はすっかり暗くなってからの筈ですから、映画で写っているのは、下り列車湊町到着後の竜華入庫回送でしょうね。

クモイ103さん
ありがとうございます。ちょっと意外でした。

百済への蒸気の乗入れの有無に付きましては、
1973年6月以降に、荷45レがDD51+D51になった頃に、
ついてのコメントでしたので。
Web上には、加美付近をバック(重連もあり)で走行する写真がありまして、1972年頃までは、SLの百済乗り入れは、あったと想像しています。

クモイ103さん。貴重な映像情報ありがとうございます。
周囲が明るく、DF50が左方向(上り方向)に、進んでいますから、同感です。急行大和編成+αの回送もあったようです。
車運車ク5000ですが、設計寸法図を見ますと、最近流行りのミニバンやハイトワゴンは、一階には入らず、二階では車両限界を超えて、屋根を"こすり"そうですね。

苗穂駅の航空写真がでていたので、以前から気になっていたことを思い出しました。 
荷物列車末期に近い昭和59年前後、道内の夜行急行には本州からの荷物、郵便車が連結されていました。
苗穂駅に荷物積みおろしができるまでは、札幌駅発車時点で編成はできていましたが、この頃は札幌駅は旅客車だけで苗穂駅でかなりの停車時間を使い連結作業をしていました。利尻、大雪のどちらか忘れましたが札幌ー岩見沢間で後続の普通列車に抜かれるダイヤ設定でした。
この当時、道内夜行急行は周遊券でよく乗っていたのですが、この苗穂駅の荷物車連結の為に下りのまりも、利尻、大雪はかなり複雑な転線をしていたと思います。乗ってると、渡り線をたくさん通ってるのはわかるけど夜なのであまり分からなかった記憶があります。
もし出来ることなら、どういう経路を通ったか図示して頂けたらうれしいのですが……。

Marinさん
苗穂駅での荷物車入換は私も気になっているのですが、申し訳ありません、情報を持ち合わせておりません(汗)。

Marinさん
管理人さん

苗穂の荷物列車の発着は、ホームと本屋の間にあった2線を使用しており、荷物ホームへは入換によって転線していました。
この2線は、運転用時刻表(スタフ)では3番線4番線になっています。
下り急行の苗穂での荷物郵便車の増解結もスタフを見る限り3・4番線でやっており、札幌発の場合は、少なくとも本線2本(函館本線・千歳線)を横断して入線、増結後は再び本線2本横断して出発していきます。

北東航21さん、いつも詳しい解説ありがとうございます。
本線、2本だけでしたか。何年か前に苗穂駅の様子がかなり変わってきたことを知って、色々調べていたら配線が気になりだしたんです。当時は暗くてよく見えず、最近は記憶もあやふやになってきたので、たくさんの渡り線を通過してたような気がしたんですね。それでも、荷物車連結前に2本、連結後に2本またいでたんですね。昼間に体験したかったです。

北東航21さん、情報ありがとうございます。
入換の経路まではわかりませんが、時刻等については一度整理してみたいと思います。

1972年4月1日で阪和線の小駅の荷物営業が打ち切られ主要駅のみの営業に集約されたので、このあたりで百済駅からのトラック代行に切り替えたのかもしれません。なお三国ヶ丘駅だけは1973年10月に荷物営業をやめたのは南海の架線電圧変更による荷物列車廃止の影響と思っています。
 もう完全に余談ですが泉北ニュータウンは国鉄小荷物から完全に取り残されており沿線とも言えない鳳駅まで受取りにいって大変だったということが地元のタウン紙に載っていました。
 鉄道敷設法との関係かニュータウンと呼ばれているところは私鉄が乗り入れているところが多く荷物の受取りは悩まされていたのではないでしょうか。

たぬきぽんぽんさん
今のように宅配便が普及する前は、地域によっては大変だったのでしょうね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

« 花輪線配線図 その8(沢尻~東大館) | トップページ | 年末荷電の運用 »

過去の記事

2025年2月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28  
無料ブログはココログ