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2020年9月18日 (金)

荷物列車 その4

荷物列車に関する記事の4回目です。
今回は荷物の積み下ろしをする「場所」にまつわるお話です。

最初に荷物拠点駅の整備に至る経過を、例によって鉄道ピクトリアル誌1977年12月号を元に(赤字部、内容を若干要約しています)、大雑把に整理してみました。

1)荷物輸送の発生
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荷物営業は旅客営業に伴う手荷物取扱に端を発し、その輸送余力を活用して、一般小量物品営業を行う形態で発展してきたものである。すなわち、明治5年(1872年)、鉄道の新橋-横浜間開通と共に、旅客列車と同時運送で手荷物営業が始まり、ついで明治6年(1873年)大政官布告で「客車ニテ貨物運送ノコト」として、小荷物制度が発足した。
したがって、本来荷物輸送は、沿革的にも規則的にも、旅客列車によって運送されてしかるべきもので、事実明治以来近年に至るまで、原則的には、旅客列車に連結された荷物車によって輸送されてきたものである。

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今さら改めて言うことでもありませんが、旅客列車に連結された荷物車での輸送ですので、荷物の積み下ろしは旅客が乗り降りするのと同じホームで、しかも列車の停車中に行われるもの、ということですね。但し始発駅/終着駅や取り扱い量の大きい駅では荷物専用のホームが設けられたり、ホーム先端に切り欠きホームが設けられて編成から切り離された荷物車の荷役が行われたりしました。

2)荷物専用列車の誕生
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旅客列車併結の荷物車輸送というシステムに転換を迫る起因となったものは、主として旅客輸送の質的改善と量的拡大に対処するためであった。その要因は
1)動力近代化により、旅客列車の電車化・気動車化が逐次推進されたが、このため、動力方式の異なる線区相互間の荷物車運用ができなくなった。
2)特急増発等のスピードアップ施策の推進を荷扱いが阻害している。
3)旅客列車の設定で荷物列車のため歪められ、適正な計画ができない(例えば効率の悪い長距離ローカル列車の整理)。
4)旅客輸送自体が行き詰まり、客荷相互に輸送の弾力性が失われている。
5)乗降人員の増加に伴い、時に大都会の拠点駅で同一ホームで荷役と客扱の交錯を回避の必要が生じた
荷物列車の先駆は、荷物電車である。記録によれば、昭和2年(1927年)東京国電区間で初めて運転されたという。戦前の荷物列車は、大半がこうした特定の区間で、客荷扱の交錯を避けるために設定された、俗にいう単独荷電が多かった。
荷物列車が幹線区に大々的に登場したのは、昭和27年(1952年)9月からで・・・(以下略)
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旅客列車に併結されているがゆえのデメリットが目立つようになってきたということなのですが、どちらかと言えば荷物輸送側の事情というよりは旅客輸送側から荷物輸送が文字通り「お荷物」扱いされるようになってきてしまったということのようです。
荷物専用列車であれば荷物の積み下ろし場所は必ずしも旅客ホームでなくともよくなったはずですが、そのあたりはこの時点では変わらず、従来通り旅客と同一ホームで積み下ろしが行われたものと思われます。

3)荷物拠点駅の整備
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荷物列車方式は次の各点で、荷物輸送近代化の有効な施策として、この間一貫して拡大の方針が推進された。
(中略)
(4)大拠点駅の客荷分離が可能となり、地上荷役の改善がはかれた(客荷交錯のホームでは搬送・仕訳等の機械化ができない)。
(以下略)
客荷分離については、例えば昭和35年(1960年)から40年(1965年)にかけては、隅田川(上野の代替)、汐留(東京の代替)、東小倉(門司・小倉等北九州市内各駅の代替)といった荷物大拠点駅の開設があり、その後も上沼垂(新潟)、熱田(名古屋)、百済(天王寺・湊町)等の大拠点駅が、客荷分離の目的で整備され、このあと札幌・横浜・千葉・長野・大阪等でも、荷物別基地構想が検討されている。

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荷物拠点駅の整備により荷物専用列車については荷物専用のホームで効率的な積み下ろしが可能になったのではないかと思うのですが、旅客列車に併結された荷物車も数多くあり、これらについては直接荷物拠点駅に入ることはできません。例えば隅田川駅に荷物拠点が開設されたとしても上野駅での荷物の積み下ろしがなくなったわけではないので、この辺りは複雑です。

Wikipediaから各荷物拠点駅の荷物営業開始時期を調べてみますと以下のようです。
R_20200918195001

ここでNZさんよりご提供いただいた資料をご紹介します。
昭和52年(1977年)10月現在の「荷物輸送略図」です。
Photo_20200913170801
・若干?な部分もありますが、図中の赤線の線区に荷物専用列車が運転されていたようです。拠点となる駅名も記載されており、鉄道ピクトリアル誌の通り隅田川、汐留、東小倉、上沼垂、熱田、百済、羽沢(線路はつながっていませんが)、北長野といった駅名が確認できます。千葉中央港(?)というのがナゾですが。
・梅田、宮城野などは大都市近傍にもかかわらず結局荷物拠点駅とはなりませんでした。停車場変遷大事典を見ると荷物営業を行っていた時期もあるようなのですが、実際に荷物列車が発着したことはあるのでしょうか?

 

次に具体的な荷物列車の運転状況を見てみます。
最初に交通公社の時刻表1963年(昭和38年)12月号の東海道線のページ。
01196312t8
・荷物専用列車は設定されていたものの荷物拠点駅は未整備だった時代です。
・東海道線には荷物列車は4本掲載されており、東京発大阪行きとか熊本行きとか、旅客列車と変わりない運転区間です。
・出発線路は9番線または10番線です。時刻表をよく見てみますと、この当時9番線または10番線から出発する旅客列車はかなり少なく、逆に到着する列車はそれなりの数が確認できますので、このホームは到着ホーム的な使われ方だったのかもしれません。ちなみに上り荷物列車の到着番線も9番線または10番線です。
・それにしてもこれらの荷物列車は入線から出発までどれくらいの時間が設定されていたのでしょう。さぞかしあわただしかったのではないかと思うのですが。
・品川から東京までは旅客列車と同じように回送されていた?

次は東北線のページ。
03196312t8
・荷物列車は1本のみ、上野発青森行きです。17番線からの出発です。
・尾久から推進で回送されていたのでしょうか。

もう一つ、常磐線のページ。
04196312t8
同じく1本のみ、上野発青森行きです。7番線からの出発です。

 

それから3年半経って荷物拠点駅の整備が進み、これらがどうなったかというと、交通公社の時刻表1967年(昭和42年)7月号から。
05196707t8
・東海道線の荷物列車はすべて汐留始発に変わりました。

07196707t8
・東北線も隅田川始発に変わりました。

08196707t8
・常磐線も同じです。

 

次に客荷分離がされる前の主要駅の線路配線を見てみます。
まず1961年(昭和36年)3月の東京駅です。
196103r_20200907215201
・先の時刻表の通り、荷物列車の出発・到着は9・10番線なのですが、その雰囲気はちょっとわかりずらい気がします。
・「南部荷物線」、「西部荷物線」という文字が見えるのですが、この時代クモユニ81はすでに活躍していたハズですので客車用なのか電車用なのかがよくわかりません。

続いて上野駅。同じく1961年(昭和36年)3月です。
196103r_20200907215202
・現在の13番線あたりに「荷物到着」「荷物出発」「荷物1番」「荷物2番」といった文字が見えます。この辺りが荷物の拠点だったのでしょうね。
・場内信号機9RB2、出発信号機1Lが設けられていますので「荷物到着」「荷物出発」は本線と思われます。ただ有効長がちょっと短いような気がします。前述の通り東北線の荷物列車の出発が17番線なのもその関係でしょうか。
・ちなみに新前橋にクモユニ74が初めて配置されたのは1964年(昭和39年)8月です。仮に荷物電車列車が設定されていたとしてもギリギリ上野駅には顔を出していないようです。
・この当時常磐線は高架ホームにしか発着できませんので、もし地平の荷物線と連絡する場合は高架←→地平の連絡線が活躍したのかもしれません。

続いて大阪駅。 1972年(昭和47年)1月です。
197201r
・大阪駅の場合は前述の通り客荷分離の検討は行われたようですが結局実現しませんでしたので、最後まで大阪駅が荷物の拠点だったことになります。
・環状線を除くすべてのホームの神戸方が切り欠かれて荷物積み下ろし線が設けられているあたりがその証でしょうか。5419920509a7r
・1992年(平成4年)5月9日撮影です。
・左は荷3番線です。右の荷4番線は線路が剥がされてしまっています。

もう一つ、下関駅です。
6320150621
・2015年(平成27年)6月21日撮影です。錆びた線路が寂しげですが、かつては荷物の積み下ろしで賑わったのではないでしょうか。
・配線図はKASAさんのサイトが詳しいです。ご覧下さいませ。  http://railwaytrackdiagrams.web.fc2.com/hiroshima/sanyou/shimonoseki.html

 

話は変わりますが、前述の通り荷物は旅客ホームでの積み下ろしが基本ですので、例えば島式ホームでの積み降ろしとなりますとテルファー、渡線車、あるいは人手を用いての線路を越える運搬が必要になります。こういった構内運搬作業の合理化のためと思われるのですが、後年貨物扱い設備の跡地など自動車などとの連絡が容易な場所に荷物積み下ろし用の側線を新たに設けた例も見られました。

1976年(昭和51年)10月、仙台駅です。
197610r_20200913180701
・中央下部の南2、3番線がそれです。かつては客車区だったあたりではないでしょうか。
5119781007ch02
・1978年(昭和53年)10月7日撮影です。半部以上隠れてしまっていますが、スニかワキが止まっているのが南2番線です。

もうひとつ。1987年(昭和62年)3月の盛岡駅です。
198703r_20200913180701 
・やはり中央下部、本屋に近いところに小荷物線が設けられています。かつては貨物仕訳線だったところだと思うのですが。
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・1985年(昭和60年)11月8日撮影です。小荷物線にマニ44が止まっています。

 

この次は上記の荷物拠点駅の盛衰について。いつになるかはわかりませんが(汗)。

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コメント

「手荷物」「小荷物」という言葉がありますが、鉄道による荷物輸送は、手荷物(いわゆるチッキ)が発祥で、旅客の携行する荷物を運ぶことから始まりました。
チッキには事前預かりがあり、乗車数日前に駅で荷物を預けて、到着時に先着した荷物を受け取ることができました。この場合は旅客の乗車する列車と同時輸送にはなりません。

手荷物輸送が何時ごろ廃れたかを検証すると、昭和26年に新製した「つばめ・はと」専用のスハ44系は、手荷物輸送用にスハニ35という合造車を製造しています。

昭和33年製造の「あさかぜ」用20系寝台車もマニ20という電源車兼荷物車を用意していますが、これは手荷物というより、旧型客車時代に搭載していた新聞輸送用の荷物用でした。同じく昭和33年製造の「こだま」用20系電車(翌年称号改正で151系)には、荷物車は製造されず、昭和35年に「つばめ・はと」を電車化する際には、展望車の代替となるパーラーカー(クロ151)は製造されましたが、スハニ35の代替となる電車は製造されていません。

つまり昭和30年前後で、手荷物輸送が廃れたことで、主要駅から荷物列車を出す必要性はなくなりました。
とは言っても、多くの客車急行には荷物車が郵便車とともに連結されており、荷物拠点だけを移すと手間が増えることになるのですが、東海道新幹線開業で東海道の客車急行が一気に無くなった際に、これらの急行列車に連結していた荷物車の集約輸送と合わせて、主要駅から荷物拠点を移すことになり、汐留・隅田川に荷物列車発着設備を整備しました。
ただ新聞だけは新聞社の反対でどうしても移せず、特に都内の印刷場からみて僻地のような隅田川は新聞の締切が30分以上繰り上がることから合意が得られず、上野発が残りました。

新聞輸送は小荷物輸送にとっては「お得意様」ということになるのでしょうが、配達の関係で時間的な制約が大きく、併結列車の場合は旅客需要よりも新聞優先の時間帯設定になってしまったりするのでしょうね。

 上野駅13番線の公園側にあった空間は、多客時は団体集合場所や長距離列車待機場所として使用されましたが、通常は荷物の集積場所になっていましたね。地上ホームは専用列車こそ無かったものの急行列車の東京方に連結された荷物車へ積み込むためのターレットが常にホームを行きかっていました。よくお客と接触しないものだと感心して見ていました。

f54560zgさん
それがちっとも「お得意様」じゃありませんです。

普通扱小荷物運賃は10kgまで第一地帯300円〜第五地帯680円(1974年)だった時に、特別扱小荷物のうち新聞は新聞社が荷主の場合、どこまで運んでも6円/1kgでした。
列車指定料は普通扱いが荷物運賃の10割(つまり2倍)、新聞は20割(3倍)になりますが、それでもキロ18円です。

新聞という公共性の高いものを、公社である国鉄がコスト度外視で安く請け負わされていたというのが実情です。

> 新聞という公共性の高いものを、公社である国鉄がコスト度外視で安く請け負わされていた

日本国有鉄道百年史によれば、鉄道開業から2年後の明治7(1874)年、横浜の外国新聞社から、日刊新聞について通常の小荷物より運賃を割り引く特約が出願されました。鉄道寮はこれを許可すると共に、以後国内の新聞社からも同様の出願があれば許可することにしたそうです。その後明治30(1897)年、新聞・雑誌について「どこまで運んでも」変わらない運賃制度が設けられました。
インターネットはおろかテレビもラジオもない時代です。西欧的な近代国家への脱皮を目指す国是のもと、社会の最新情報を国民全体に普及させることを、国家がコストを負担しても推進すべき重要な課題と捉えていたんですね。
「情報」に関する社会の事情は、今では全く様変わりしています。しかし国鉄末期ではまだインターネットもなく、新聞や雑誌がかなりの重みを持っていましたから、明治以来の考え方がまだ辛うじて意義を保っていたのかもしれません。
そう考えると、今のJRは新聞輸送の運賃をどのような考え方で決めているのでしょうね。

現在でも雑誌の表紙の上の方に「第3種郵便物認可」とあるのを見ることができますが、かつてはそれに続いて「国鉄首都特別扱承認第〇〇号」などという表示がありました。
ローカル線の廃止の時に「当地の発展、文化の向上に果たした役割はまことに大きく…」などという惜別の辞が聞かれましたが、人や貨物の往来だけでなくこういう役割を担っていたからなのでしょうね。

皆様、コメントありがとうございます。
>ターレット
特徴的な音でホームを走り回っていましたね。長編成の台車を引き連れて。

>新聞
そうなんですね、輸送量は多くても儲けにはならなかったんですね。ちょっと悲しい・・・。

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