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2020年9月10日 (木)

王寺配線図

思い出したかのように関西線の続きです。王寺駅です。

1970年頃(※1)
197000_20200908191301
・側線がかなり省略されている感じです。ホームも描かれていません。線路の描き方もちょっとアヤシイですね。

 

1975年頃(※2)
197500_20200908191301
・これなら全貌がわかりますね。
・ホームは3面、本線は6線です。7番線は和歌山線専用です。
・機関区が設けられており、1975年の国土地理院の空中写真を見ると機関区に転車台が確認できます。但し線路がつながっていたかどうかはわかりません。
・貨物の積み下ろし線は図の最上部あたりのようです(それらしい線路は描かれていませんが)。1番線側(本屋側)に設けられるのが一般的ですが、駅本屋が近鉄生駒線・田原本線に挟まれている関係でこのような配置になったのでしょうか。

 

1988年3月(※1)
198803_20200908191301
・1982年、構内の浸水により多くの電車が水没する事故が発生しています。

 

2001年1月(※1)
200101_20200908191301
・信号機が増設され、下り場内は第一/第二/第三、上り場内は第一/第二、下り出発は第一/第二となりました。下り第二出発にちょっと不思議な感じを受けます。
・昔の貨物側線や機関区線は電留線として活用されているようで、現在でも広い構内を有しています。

 

写真を1枚だけ。
19760328d01
・1976年3月28日です。湊町方で入換中のキハ35系です。

 

配線図は
※1印・・・T.Mさん
※2印・・・KASAさん
よりご提供いただきました。
ありがとうございます。

 

以下は2020年9月16日追加です。

1958年6月です。NZさんからのご提供です。
94195806
・1975年頃の配線図のところで『貨物の積み下ろし線は図の最上部あたりのようです(それらしい線路は描かれていませんが)。1番線側(本屋側)に設けられるのが一般的ですが、駅本屋が近鉄生駒線・田原本線に挟まれている関係でこのような配置になったのでしょうか。』と書きましたが、普通に本屋側に貨物積み下ろし線が描かれていますね(汗)。失礼しました。

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コメント

2001年1月
>下り第二出発にちょっと不思議な感じを受けます

建植位置が、この場所? ということでしょうか。
確かに線路図を見ると、この位置では運転士から見づらいのではないかと思います。で、ストリートビューで見てみると、やはりこの位置に建っている信号機が確認できます。が、線路が下り列車に対して左にかなり急なカーブなので、実際には、この位置で運転士の正面に見えるのではないかと思われます。
かぶりつきのできる方、実地に確かめてくださるとありがたいです。

私は、1988年3月の線路図に載っている、和歌山引上線の21L入換信号機が目をひきました。進路表示機をみるとどの線路にも進路が取れ、逆に、他の入換信号機の進路表示機をみると、どの線路からもこの引上線への進路が取れるようです。オールマイティーな引上線ですね。

関西に国電の写真を撮りに行っていた方が、王寺は中2線あいているから、ホームから形式写真が撮りやすいんだよと言っていたことが、この線路図でよくわかりました。

管理人様 皆様 こんばんは。
NZ様
https://youtu.be/dHHdZ_Akn9k
動画を漁っていたら、丁度こんな前面展望の動画を見つけました。
第2出発信号機の様子が分かるかと思います。仰られているように、線路が左にカーブしていて、この位置に建てないと見辛くなりそうです。ご参考までにご覧下さい。
この第2出発は、列車の進出速度が遅いから設けられたものでしょうか?
この駅から列車本数も増えますし。
また宜しくお願いいたします。

王寺駅の配線図、お待ちしていました。

2001年1月の配線図の、線番号(1~14)が書かれているあたりに、南北を貫く自由通路(久度大橋)があります。

この通路が建設されたのは、湊町~奈良電化後の1974年で、南側(配線図では上)は、新たな玄関口になりました。当初は、北側の駅本屋への無蓋歩道橋でしたが、1978年に構内の跨線橋と一体化され、橋上駅舎になりました。近年は屋根付きに。

明治23年の開業時に北側に駅本屋が出来たのは、既存の街並みに最大の便宜を図った為かと思われます。南側は水田地帯だったので、貨物側線や機関区が出来たのかと。

近鉄生駒線・田原本線に関しましては、北側にうまく入り込んでいますが、元々は別会社で開業は大正になってから。接続されないのは、関西線の駅前を通す必要があったり、乗り通す方が少ない等。が理由の様です。

現在、王寺駅の隣町に住んでおります。

本文中にあるとおり、1982年の水害が発生しました。奈良盆地に降った雨は、すべて大和川を大阪湾に向けて流れていきます。大阪との府県境にある「亀の瀬」といわれる渓谷部分を流れる能力以上の雨が降ると、奈良県内で川が溢れてしまいます。その対策として、奈良県内の彼方此方で「遊水池」を作ろうとしています。
数年前、斑鳩町内の三代川と大和川の合流点付近にも大きな遊水池を作ろうという話がありました。
http://www.pref.nara.jp/secure/101458/data_vol28_1.pdf
遊水池の効率的利用を検討したときに、王寺駅の電留線をその上に建設移設しよう。さらに王寺駅電留線の跡地を再開発しようという計画がありました。しかしどうしたことか、遊水池の建設計画の続報は流れてきていません。

皆様、こんにちは。コメントありがとうございます。
>下り第二出発
建植位置の問題ではありませんで、第二出発信号機が設けられていること自体にちょっと違和感を感じました。具体的な事例を示すことはできないのですが、直感的には王寺駅のような駅で第二出発信号機が設けられているケースが思い当たらなかったもので・・・。
>水害
私のような人間からするとついつい鉄道被害についてのみ注目してしまうのですが、沿線住民の方々の受けた被害は甚大でした。

>下り第二出発

ここは、やはり線形が関連しているのでないでしょうか。
下り列車が王寺駅を出発後、左にかなり急な曲線にかかるので、曲線を抜けるまでスピードを上げることができません。
最初の閉塞信号機は、踏切の先、大和川に架かる橋梁との間にありますが、ここまでを1閉塞区間とすると、列車のケツが閉塞信号機の内方に入って、場内信号機に進行を現示できるまでの時間がかかりすぎる。
そこで、出発信号機とこの閉塞信号機との間に信号機を建てて閉塞区間を分割すると、新たな信号機の内方にはまだ分岐器があるから、閉塞信号機にはできないので、第二出発信号機とした。

と推測しましたが、いかがでしょうか?

管理人様
初めて貴ページを拝見しました。各地の国鉄時代の配線略図を集めておられ、技術的にも貴重な資料だと思います。ここまでまとめられている事に心から敬意を表します。

王寺駅の配線、私にはなじみが深いものです。2001年の配線略図が示されていますが、2008年の法隆寺駅橋上化、中線撤去に合わせて、P126イロの撤去を行っています。これは曲線中の内方分岐器が保守困難か所であったためで、連動変更工事に合わせて実施したものです。それに伴い上り第一場内信号機に進路表示機を設置しております。

3番機回し線については、ちょうど奈良駅の高架化工事で仮駅に切り替えた時期であり、天理臨への対応等で存置させた記憶があります。

停車場配線はその時期、その時期の列車運行形態、経営方針、周辺のプロジェクトなど、様々な要素を考慮して決定されており、こうした記録は本当に貴重だと思います。

NZさん
確かに王寺駅の湊町方には急曲線がありますものね。この関係なのでしょうか。

一技術者さん
コメントありがとうございます。
私個人がご提供させていただいているものは全体のごくわずかであり、大部分はブログをご覧いただいている皆様のお力によるものです。皆様には本当に感謝しております。

 退避後の発車を早くするために、出発の次の信号機は間隔を詰めるのは常識となっています。
 私の実見ではJR岡山駅で瀬戸大橋線の快速が発車したあと、後続各停の出発信号機がYになるまで40秒ほど、直ちに発車して45秒間隔の発車を実現していました。次の閉塞信号機を見るときは快速が高速で逃げていますのでG現示となっていて、速度制限を受けることはありません。
 王寺駅の下り第2出発を見てこのことを思い出しました。近郊民鉄ではもっと厳しいところが有るかと思います。

王寺駅の上り出発時刻表を見てみたのですが、快速の1分後に各停が出発するんですね。これを実現するためにはこの位置に第2出発が必要なんですね。ただ瀬戸大橋線は出発の次の信号機(第1閉そく)通過まで約600m、1分程度かかるようで、実際各停は快速の3分後ですね。

6番線の下り方に、130番分岐から127番分岐へ短絡する線路がありますが、この線路の目的は何でしょうか?

6番第一出発11Lの進路は20Lの進路も含めて書けば、
130-129イ-128ロイ-125-121ロ-122イ-◯M …*
だと思います。
そうすると、この進路は5番線への第一場内8RA5の進路と対向になるので、同時には反位にできません。
そこで、11Lの進路を件の短絡ルートを通って
130-127-124-122ロイ-◯M
とすると、6番「第一」出発ではなく、6番出発のはずです。なので、11Lの進路は*の進路のはずです。

80Lには2進路あって、おそらく80LNと、80LMだと思います。80LNの進路は、
130-127-124-122ロ-◯N
だと思います。この進路が
130-129イ-128ロ-127-124-122ロ-◯N
ではマズい理由は、5番第一出発10Lか、第一場内8RA5の進路と競合するからだと考えられますが、件の短絡ルートを置かなければならないほどの入換作業があったのでしょうか?

6番線から電車を留置線に転線させるには、和歌山引上線を使うこともできるわけですが。

ご教示いただければ幸いです。

 f54560zgさま。瀬戸大橋線の出発時隔のこと。記憶のみで記して申し訳ありません。
 出発の次は後から増設された第2閉塞です。手許に線路図がなく、もう一度確認します。


 f54560zgさま。瀬戸大橋線の岡山では1990年の時刻表では快速の1分後に各停が発車しています。
 出発~第1閉塞が約600mですから、中間に第2閉塞を増設すれば300m未満かと思います。
 こまかい揚げ足とりの妄言多謝。 

NZさん。
>ご教示いただければ幸いです。

現在の畠田駅の時刻表によりますと、王寺駅経由の快速JR難波行きは、朝の時間帯に平日7本設定されています。

王寺駅では和歌山線からは、4番線(2番のりば)には入れず。おそらく、5番線(3番のりば)が、普通JR難波行きに使われる為、6番線(4番のりば)の着発になり、YouTubeを見る限りでは、130→129イ→128ロ→128イ→125→121ロ→122イ→M。のルートと思われます。

5番線(3番のりば)に、終日頻繁に運転されている王寺折り返しの普通の到着の際、同時発車で、6番線(4番のりば)から、130→127→124→122ロ→122イ→M。のルートもあり得そうですが、130と127の間を通を通るのは、下り引き上げ線に行く時のみと思われます。

管理人さんの撮影のキハ35(行先表示が王寺-和歌山)は、この下り引き上げ線と思われます。

列車番号T-TAKE(てぃーていく) さんのHP
ttps://t-take.com/
JR-West JR西日本運用表 > 奈良車平日 によりますと、
JR難波10:18発の1758Kが王寺6番に10:59着→11:02下引
JR難波20:37発の1858Kが王寺6番に21:29着→21:32下引
の記載があります。和引の使用が圧倒的に多いようです。

おそらく、和歌山線側の引き上げ線が詰まってる場合や、和歌山線の発車と重なる場合に、130と127の間の錆取り列車を兼ねて、下り引き上げ線が使われるのだと思われます。

Web情報からの推測で、"おそらく、"と"思われます。"に、なってしまい、申し訳ございません。王寺駅に終日張り付けば、正解が得られるのですが。

C6217さん
快速の1分後の各停発車、私も確認しました。失礼しました。ただ第2閉そくの存在が確認できないのです(汗)。最近の前面展望動画を見ても見当たらないので、撤去されたのでしょうか。これがないと1分は無理だと思いますので。

>130番分岐から127番分岐へ短絡線
私もmoni5187さんと同意見です。少なくとも本線ではないと思うのですが。

貨物輸送華やかなりし当時、無蓋車に掛けるシートを修理する職場(しょくじょう)が各管理局に1つずつ設けられることになり、天鉄局は王寺に設けたと本で読んだことがあるのですが、貨物輸送量が多くなく廃止も比較的早かった天鉄局で一体どれくらいの業務量だったんだろうかと不思議に思います。

シートを修理する職場というものが存在したのですね。情報ありがとうございます。

柏原駅から乗車!しております。やっと王寺に到着しました。(笑)
さて、2020年9月16日付けで追加掲載された
昭和33年(1958)6月の配線図は、先の大戦に於いて関西本線がたどった歴史の一端が窺われ、大変貴重な資料と思われましたので、皆様にもお知らせ致したくコメントさせて頂きました。
配線図の左側、名古屋方の上り本線をご覧頂きますと、線路上に車止めがあり、本線路が使用停止となっております。
これは、戦時中の昭和19年(1944)に物資不足に伴う資材転用のため、複線であった奈良〜王寺間の片側を取り外し、単線化した際の名残りです。
(同様の事例は阪急嵐山線が該当致します。また、不要不急路線として路線自体が廃止となった例もあり、身近には国鉄有馬線、愛宕山鉄道、信貴山急行電鉄山上平坦線、大和鉄道(西田原本〜桜井間)があります。)
この後、再び複線に戻るのは当配線図の3年後、昭和36年(1961)3月であり、昭和20年(1945)8月の敗戦より約15年7ヶ月の間、関係者は列車運行に不便を強いられた状態で推移したことと思われます。
なお、余談ですが複線に復旧した年の12月のダイヤ改正では、関西本線の旅客列車無煙化の第一陣として、
通勤型キハ35系気動車の運行が開始されました。
あと、配線図右下の点線部に信貴電車(信貴生駒電鉄→現近鉄生駒線)王寺駅がありますが、なぜか国鉄線との連絡線が
描かれております。御承知の通り国鉄の1067㎜軌間と生駒線の1435㎜標準軌の違いがあり、誤記入と考えます。
長文、大変失礼致しました。

Oldman阪急さん。王寺、奈良間の単線時代に、まつわる情報ありがとうございます。

>通勤型キハ35系気動車の運行が開始されました。

運行開始当時の時刻表が載っているサイトがあり、快速は奈良発、天王寺着で33分。普通列車は、志紀、久宝寺、加美が通過となっています。久宝寺通過は想像できますが、志紀、加美の通過の理由が解らず、いろいろ探しますと、加美駅が現在の場所に移転したのが昭和38年4月で、それまでは、府道5号線のアンダーパス上の城東貨物線との合流付近に、(初代)加美駅があったことが解りました。

国土地理院地図・空中写真閲覧サービスで、なんとか確認はできるのですが、(初代)加美駅に、まつわる逸話や写真等を長年追い掛ています。情報をお持ちでしたら、よろしくお願いいたします。お手数をお掛けしますが、加美~百済 1978/3/14、にコメントいただくと幸いです。

以下サイトの「急行<大和>ほか」→GO「大和」の時刻表
下り関西本線 昭和37年8月1日改正 [気]の列車がキハ35系。
http://okazu1945.moo.jp/

moni5187さま

貴重な情報ありがとうございます。(サイトも覗かせて頂きました。後ほどゆっくり散策させて頂きたいと思います。)

当時の奈良〜天王寺間のDC快速列車が33分で運転していたとは少し驚いております。
現在の電車快速上りの所要時分も昼間33分で同じなのですが、停車駅の違いがあり単純比較は出来ません。
気動車快速途中停車駅⇒王寺、郡山
電車快速途中停車駅⇒久宝寺、王寺、法隆寺、大和小泉、
郡山
現在の快速は、王寺から先は奈良まで実質、各駅停車であり、気動車時代と比べ停車駅が3駅増加しておりますが、電車の持ち前の高加減速、最高速度の向上(110Km/h、回復運転時120Km/h)で、大きく駅間運転時分の短縮に貢献しております。
なお、普通列車が加美、久宝寺、志紀の3駅に停車しないのは、気動車駅であることが原因と思われます。
(ここで言う普通列車は、蒸気機関車牽引の客車列車を指すと考えます。)
どうかよろしくお願い申し上げます。

mini5187さま

先日のメールでは、加美、久宝寺、志紀の3駅に普通列車が停車しない理由について、北海道の臨時乗降場を念頭に「蒸気機関車牽引の客車列車」ではないか?と申し上げましたが、ご提示頂きました時刻表を再確認させて頂き、
当初の見解が間違っておりましたので、訂正の上、改めて以下の仮説を述べさせて頂きたいと思います。
加美駅の項でも触れておりますが、志紀駅と共に蒸汽動車の停車駅として開設された経緯もあり、湊町(現JR難波)〜
柏原間の区間運転DC列車のみが停車する駅ではありませんでしょうか?
根拠は、次の2点です。
1、資料の時刻表は、王寺駅を基準として8:30〜11:00発の
  間に限られており全体像は残念ながら不明ですが、
  その時間帯にどの列車も3駅に停車しないのは、さすが
  に公共交通機関として理解に苦しみます。
  個人的な記憶になりますが、昭和40年代始め柏原に
  居住していた祖父母を訪ねる為、天王寺駅からキハ35
  系普通列車に乗車した際も、柏原止まり(折り返し)列車
  であった事を思い出します。勿論、上記の3駅には停車
  しておりました。
2、平成16年(2004)2月発行の『鉄道ピクトリアルNo.742
キハ35・45系特集』の50〜52ページに掛けて「関西
  本線 奈良〜湊町間 オールDC化計画」昭和37年(1967)
  2月号No.127の再掲記事があり、国鉄運転局機関車課
  の鎌谷敏一氏が寄稿されております。
  その中の表に、実施計画として第1次 DC26両案(昭和
  36年12月10日実施)と、第2次 DC63両案の2案があ
  り、列車計画の項に列車種別(快速or各駅停車) 、運転
  区間(奈良ー天王寺、奈良ー王寺、王寺ー柏原、柏原ー
  天王寺)、混雑時or平常時別の運転間隔が詳細に記載さ
  れております。
  これによると、快速列車(奈良ー天王寺)は、30分/本、
  各駅停車(奈良ー王寺)30分/本、(王寺ー柏原)混雑時10
  分/本、平常時30分/本、(柏原ー天王寺)第1次では10
  分/本、第2次では混雑時7〜10分/本、平常時10分/本
 (注)本数に変化の無いものは混雑時、平常時の記載を省略
  しております。
  この資料から、1時間当たりの運転本数は、
  奈良ー天王寺間の快速と各停は、それぞれ2本
  王寺ー柏原間の各停は2本
  柏原ー天王寺間の各停は、混雑時6本(第1次)
              混雑時8本(第2次)
              平常時6本
  となり、奈良ー柏原間の各駅停車本数1時間2本に対し
  、柏原ー天王寺間の区間各停列車は1時間4本(平常時)
  同6本(混雑時)あったと考えます。
  なお、元資料の第2次 DC63両案の実施期日はありませ
  んが、御提示頂いた時刻表の昭和37年(1962)8月であ
  った可能性もあり得ると思います。
  
最後に時刻表に区間運転列車の記載が無い理由は不明です
が、大阪近郊の電車区間の時刻表が別ページになっていたのと同様に別ページに記載されていたのでは無いでしょうか。
当時の時刻表を見れば明確になりますが、その方面に詳しい方の御見解をお聞かせ願えればと思います。
大変、長文失礼致しました。


2、

Oldman阪急さん。詳細な解説ありがとうございます。

>  なお、元資料の第2次 DC63両案の実施期日はありませ
>  んが、御提示頂いた時刻表の昭和37年(1962)8月であ
>  った可能性もあり得ると思います。

1962年8月までに「天ナラ」に配置されたキハ35系(※)は、
キハ35は、1(61.11.9製造)~32(62.7.18製造)の32両。
キハ36は、1(62.5.28製造)~31(62.7.5製造)の31両。
の計63両。ご提示の「第2次 DC63両案」と両数が一致し、実施期日が昭和37年8月の可能性が高いと思われます。

よって、昭和37年8月1日の時刻表につきましては、
湊町~柏原間の普通列車の区間運転の開始に合わせて改正されて、別欄に区間運転の時刻があって、加美、久宝寺、志紀、に停車していたかと思われます。増発に必要な編成数から計算しますと、計63両は妥当な両数ですし。

Web上で、ではありますが、2両編成の区間運転のキハ35系の写真が何枚かありました。加美駅は移転前ですから、ホーム長の関係で、2両編成のみ停車だった可能性が高くて、志紀駅は復活後ですから、何とも言えないのですが。

久宝寺に関しましては、竜操に勤務する職員さん専用に近い駅で、ごく一部の列車のみ停車だったと想像しています。上下の駅の間に長い地下道があり、何度か通ったことがあります。

(※)奈良気動車区へのキハ35系の配置につきましては、
以下URL「きはゆに資料室」>気動車館>通勤近郊型>
を参照させていただきました。ありがとうございます。
http://kihayuni.jp/index.htm

Oldman阪急さん、moni5187さん
若干時期はずれますが、手元にある昭和38年8月の時刻表を見ますと、奈良~湊町間が区間運転として別のワクに記載されています。おっしゃる通り、昭和37年8月の時刻表もこのような掲載方法だったのではないかと思います。

moni5187さま

DC車輌の落成配置数から見た列車運行のご考察結果について、ありがとうございます。
確かに前出の鉄道ピクトリアル誌にもDC車両数の項があり、第1次26両(使用22両、予備4両)、第2次63両(使用54両、予備9両)が奈良(気)区配置。
列車編成についても、基本編成はキハ35系2両1組とし、
付属編成として快速、各駅停車とも基本編成を組み合わせせ、4〜6両とする。と記載されており、2両編成の区間運転列車の写真から、(旧)加美駅ホーム長が駅移転までの一時期、制約となっていた可能性も、全く同意申し上げます。
久宝寺についても、昭和45年(1970)頃から自転車で龍華にお邪魔をしていた時期があり、加美のアンダーパスを潜り、操車場下のトンネルを抜けてから下り線の線路沿いに
機関区への踏切を渡っておりました。職員さん向けの駅と
言っても過言では無いと思います。
色々とご教示頂きましてありがとうございました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
f54560 zgさま

時刻表の近郊区間(奈良〜湊町間)別枠記載について、ご検証のお手間を取らせ、適切にフォロー頂きまして誠にありがとうございました。
今回、moni5187さまの過去時刻表掲載に関する疑問(普通列車3駅通過⁈)の考察についても、原資料を読み解く事の重要性を改めて認識させて頂きました。配線図とは全く関連性の無いトピックではございましたが、皆様方のご知見を元に結論を得る事が出来ましたことは何よりです。今後ともどうか宜しくお願い申し上げます。

Oldman阪急さん
地元の方ならではの貴重なコメントは大変ありがたく、そしてまたうれしく思います。今後ともよろしくお願いします。

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