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2020年5月10日 (日)

貨物と荷物

私がまだ若かった頃は、駅の側線に止められた雑多な貨車(ワムやトラなど)をごく普通に見かけることができました。また、数が少なくなりつつあったローカル客車列車の多くにはその一端に荷物車(マニなど)が連結されていました。このような風景を日常的に見ていた中では、貨車は貨物を運ぶもの、荷物車は荷物を運ぶもの、という漠然とした納得をしていましたが、それ以上について掘り下げることはありませんでした。

しかしながら、年をとるにつれ(汗)、「じゃあ、貨物と荷物って何が違うの?」という根本的な疑問に対する答えを持ち合わせていないというモヤモヤが次第に膨らんできました。具体的な表現をすれば、
【その昔、田舎から送られてきたリンゴや米は貨物だったのか荷物だったのか?】

また、先日の磯鶏駅の記事に対してNZさん、クモイ103さんから以下のような主旨のコメントをいただきました。
【駅に停車中の貨物列車や混合列車の貨車の扉を開けて貨物を積み降ろしすることはあるのか?】

このコメントでモヤモヤがより一層強まってしまいましたので、古い資料をあさってちょっと調べてみることにしました。

 

●まず鉄道ジャーナル誌1983年9月号35ページ「貨物列車への誘い-国鉄では物品はどのように運ばれるか」からの要約。
・国鉄での物品輸送が荷物輸送と貨物輸送の2本立てになっていたのにはいろいろと複雑な歴史があるが、最終的には1974年10月に1本化され、原則として荷物輸送は1個単位、貨物輸送は1車またはコンテナ1個単位の輸送となった
・貨物輸送には①車扱貨物②コンテナ貨物③混載貨物の3種類がある。
・車扱貨物は1車単位。荷主が積み込み封印し、取り降ろしも荷主が行う。実際には通運業者に委託するのがほとんど。
・混載貨物は通運業者が複数の荷主の貨物を取りまとめて輸送するもので、取り扱い上は車扱貨物もしくはコンテナ貨物と同じ。輸送量はきわめて少ない。
・荷物輸送には①手荷物②小荷物があり、さらに小荷物には㉑普通扱小荷物㉒特別扱小荷物㉓貸切扱小荷物がある。
・旅客の手荷物は従来その旅客と同じ列車で運ばれていたが、配達付きの普及などにより同時輸送性は薄れ、小荷物との違いがなくなってきた。
・特別扱小荷物は新聞雑誌等。
・貸切扱小荷物は金銀塊、紙幣等といった特殊なもの。
・昭和56年度の手荷物、普通扱小荷物、特別扱小荷物の輸送個数の合計を100%とすると、手荷物は2%、普通扱小荷物は48%、特別扱小荷物は50%となっている。
・手荷物と小荷物は原則として荷物専用列車や旅客列車の一部利用により輸送されるが、貨物輸送力を利用するため荷物締切貨車、荷物コンテナが利用されることもある

●次に鉄道ピクトリアル誌1967年2月号35ページ「貨物の受託から配達まで」からの要約。
・貨物の扱種別には、①小口扱②小口混載扱③コンテナ扱④車扱の4つがある。
小口扱は1個単位の貨物。積み込み、取り降ろしは駅の係員または列車乗務員が行う。輸送量はごく限られたもの
・車扱は1車単位の貨物。荷主が積み込み封印し、取り降ろしも荷主が行う。
・小口混載扱は、荷主から見れば1個単位だが通運業者が複数の荷主からの貨物を取りまとめて1車単位としたもの。鉄道側から見れば車扱と変わらない。
・コンテナ扱はコンテナ1個単位。

●続いて鉄道ピクトリアル1965年1月号7ページ「国鉄の荷物輸送について」から。
・手荷物の80%はふとん、衣類。
・小荷物輸送はもともと手荷物輸送の輸送力の活用として発生した。
・1964年10月1日より荷物輸送に対する貨車の投入に踏み切ることとなり、現在237両のワムが荷物輸送に使用されている。但し急行貨物列車またはこれに準ずる貨物列車による輸送を原則とし、キワムまたは一般ワムを使用する。

●同28ページ「貨物輸送のはなし」から。
・小口貨物には積合車輸送と代用車輸送がある。
・積合車輸送は1駅ないし3駅行き貨物をとりまとめて1車積とし、一般車扱と同様に着駅で列車から解放して取り降ろす。
代用車輸送は乗務員を乗車させて列車停車中に荷役作業を行う
小口貨物の輸送にあたっては、特定駅では本線中継を行っている

●鉄道ピクトリアル1966年1月号36ページ「貨物輸送の近代化について」から。
小口輸送には1つ1つの駅に停車させてそこで積み降ろす方法と、同一方面を1車にまとめる方法とがある。
・国鉄が1車にまとめるものを積合、通運業者がまとめるものを小口混載という。

 

これらでも少々理解が難しい部分があるのですが、一つ目の疑問、
【その昔、田舎から送られてきたリンゴや米は貨物だったのか荷物だったのか?】
については、1974年10月以降であれば、貨物ではなく荷物であった、と考えられます。
小口混載貨物であることも考えられますが、輸送量がきわめて少ないことを考えれば可能性は低そうです。
1974年10月以前であれば小口貨物、小口混載貨物、小荷物のいずれかになろうかと思いますが、同様に輸送量を考えるとやはり荷物であったのではないかと推測します。
ただ、一般の個人が駅に物品を持ち込んだ時、これを小口扱貨物として送るのか、小荷物として送るのかの選択が可能であったかのかどうかという点は疑問として残ります。

 

続いて二つ目の疑問、
【駅に停車中の貨物列車や混合列車の貨車の扉を開けて貨物を積み降ろしすることはあるのか?】
について。
具体的な事例としては1977年の磯鶏駅と1981年の追良瀬駅のことですので、時期を考えれば貨物の積み降ろしをすることはないと思われます。積み降ろしをしていたのであればそれは貨物ではなく荷物ということになると考えられます。前述の資料には貨車を荷物輸送に使用することがある旨の文言も見受けられますので、貨車を使用しての小荷物輸送ということになるのではないでしょうか。
もし1974年10月以前のことであれば小口扱貨物という可能性もあったとは思いますが。

ここでクモイ103さんからご提供いただいた写真をご紹介します。(ありがとうございます。)
1981年3月24日、五能線追良瀬駅に停車中の弘前発東能代行きの1730列車です。DE10の次位に連結されたワム60000の扉が開けられて物品の積み込みが行われています。
81031314a

81031315a
1枚目の写真では白い荷物がリヤカーに満載されています。ようやく最後の1個になったのが2枚目の写真でしょうね。オハユニから職員さんが積み込みの様子を見ています。多分、「まだかぁ?」と思っているのではないでしょうか(笑)。

追良瀬駅の営業範囲を停車場変遷大事典で確認してみると、
・1971年10月1日 貨物取り扱い廃止
・1984年2月1日 荷物取り扱い廃止
となっていますので、やはりこれは貨物ではなく荷物であろうと思われます。

 

ついでに私が以前東能代駅の記事でご紹介した写真も改めてご紹介します。
1978年10月4日、上記と同じ1730列車が東能代駅に到着したところです。
19781004d01
東能代到着は14時10分です。ワムのホームとは反対側の扉が開けられて荷物が降ろされています。
左側のホーム上の上屋は荷物のためのものかもしれません。

19781004dh01
オハユニの荷物扉からも荷物が運び出されています。

19781004dh04
荷物の取り降ろしが終わって車両が引き上げると、ホーム上は荷物の山です。ワムから降ろしたものとオハユニから降ろしたものとを特に区別していないように見えますので、その点でも「ワムに荷物が積まれていた」ということになろうかと思います。

19781004dh06
これらのホーム上の荷物は、おそらくこれからやってくるローカル客車列車に併結された荷物車に積み込まれるものと思われます。青森方面は16時4分発の833列車、秋田方面は15時51分発の444列車です。貨物と違って、荷物の場合は人間と同じように「乗り換え」をするんですね。もちろん人間の手を借りなければなりませんが。(1730列車がホームのかなり福島寄りに停車していたのも奥羽線のローカル客車列車の荷物車の連結位置を考慮したためと思われます。)

但し前述の資料の中にありましたように、昔は小口貨物においては本線中継という「乗り換え」が行われていたようです。
それの名残が多分コレでは?
Photo_20200510085401 
「下り貨物中継ホーム」「上り貨物中継ホーム」では列車編成中の貨車の扉が開けられて貨物の積み降ろしが行われていたのではないかと思うのですが。

 

なお、もともとの話の発端である磯鶏駅について言えば、
1981年3月24日 車扱貨物取り扱い廃止
1984年2月1日 荷物取り扱い廃止
となっており、1977年時点での貨物取り扱いがどのような形で行われていたのかが気になります。
貨車の解結のための入換が必要なハズですが、NZさんのコメントのダイヤ通りとすればちょっと停車時間が厳しいような・・・。

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コメント

 荷物と貨物、自分でもモヤモヤしていましたのでテーマへの採り上げありがとうございます。
 根本で旅客付随輸送と貨物輸送の別がありますので、現場の実状に合わせて融合が図られたものかと・・・・・。
 本屋前ホームへ直接降ろすため、3・4枚目の写真の場合、線路2線分の渡り板を渡して荷物を担いだ人が歩いていました。山陽本線での所見です。
 映画「ある機関助士」のラスト近く、上野駅で荷物を降ろす中継風景が描かれています。

私の祖母が戦前の事福島の実家から取れ立てのサクランボを送ったと連絡が有り(当時ですので手紙かハガキ)サクランボが到着したのが東横浜でした(当時祖母は荏原区の下神明に住んでました)わざわざ大井町から最寄り駅の桜木町迄行サクランボの手荷物を受け取りに行きました 住まいが東京なのですから本来なら近い最寄りの貨物扱い駅である汐留とか品川とか大崎に送るはずなのに何故か東横浜へ貨物が送られてしまったかは今となっては謎ですが小口混載貨物で送られたので東横浜へ送られたのでしょう 後日談ですが帰路に横浜から横須賀線に乗車して戻ろうとして来た列車に乗車したら立派な身なりの紳士淑女が大きなトランク等を網棚に乗せており東京駅迄連れて行かれた多分特急列車のつばめ号か富士号に間違えて乗車してしまった様です

荷物と貨物、似ているようで違いますよね。国鉄時代は局も違ったかと。荷物は旅客局ではなかったかな。
ご存知の方がいるかとは思いますが、元名鉄局の乗客専務車掌さんが書いている「昭和の鉄道員」HPに荷物列車の乗務掛から貨物列車の列車掛時代の乗務記事が結構アップされています。
コメントもいいみたいですので、聞かれてみたらいかがでしょうか。名鉄局ですので関西本線、東海道本線にはなりますが。

拙作の採用ありがとうございます。
貨物営業していないはずの駅で貨車が荷扱い、とは意外でした。

またもや他線区の話ですが、実は昔から疑問に思っていたことがあります。日中線です。
昭和32(1957)年6月29日の鉄道公報に掲載された「日本国有鉄道公示第262号」によると、同年7月1日、日中線の各駅(起点の喜多方を除く全4駅)の営業範囲が次のように改正されました。

・会津村松(現行)一般運輸営業
     (改正)旅客
・上三宮 (現行)一般運輸営業
     (改正)旅客
・会津加納(現行)一般運輸営業
     (改正)旅客、到着手荷物及び車扱い貨物
          但し、配達はしない。
・熱塩  (現行)一般運輸営業
     (改正)旅客及び車扱い貨物
          但し、配達はしない。

つまりこの時から、会津村松・上三宮の両駅では貨物扱いが無くなった筈です。
ところが昭和50年代になっても、貨物扱いの要員が配置されていた会津加納だけでなく、駅員が全くいない上記2駅にも貨物側線があって、上り列車で貨車の入れ換えが行われていました。
昭和53年に実見した会津村松駅では、貨車は側線の先端にある貨物ホームの所でなくずっと手前に停車しており、傍らに日通の事務所があったので何らかの関係があるのかもしれません。

日中線はもともと飯豊・吾妻山系の大峠を越えて米沢へ至る計画で、現在の野岩鉄道のルートから続く「野岩羽線」の一部をなすものでしたが、未成に終わりました。
これに関連して、ソース未確認ながら興味深い情報があります。
「客車列車の旅」というサイト(https://www.jnrpc.com/index.html)の掲示板「客車倶楽部」に、平成18(2006)年9月12日(火)に投稿された文章の一部です。
(投稿者:「岩崎安房守義将」氏)
*****(引用)*****
 ちなみに日中線が最後まで客車列車を貫いた理由は、この「米沢延長頓挫」が大きく影響している様子で、地域への感情配慮として原則全線貨物運転路線とされ、「影」筋でしか無いものの貨物専用便や営業種別も1983年10月23日まで喜多方~会津加納間で貨物営業を存置、この貨物便の機関車は旅客便と兼用し「名目上営業」とした為です。
 またこの貨物廃止まで「貨物ダイヤ」があり、この場合644列車が入換をして貨車を拾う「客載入換」としていたとか・・・
*****(引用終わり)*****
文中の列車番号「644列車」は「624列車」の誤りと思われ、私が乗車したのがこれです。
確かに会津村松で、それまで機次位に連結してきたワム1両を側線に押し込んで行きました。
というわけで、日中線の貨物営業(?)も大いなる謎です。
五能線のケースとは性質が異なるかもしれませんが、何かヒントがないでしょうか?

>クモイ103 さん

さっそく、巻物を取り出して(笑)
「水郡線・日中線・磐越西線・磐越東線・奥羽本線 列車ダイヤ」(昭和53年10月2日改正 昭和54年10月1日訂補 仙台鉄道管理局)によると、

日中線は、喜多方駅以外、貨物扱いのKが書かれていません。
しかしながら、3往復全ての列車が、混合列車です。

途中駅の停車時間を見ると、
(会津若松〜喜多方間621列車(旅客列車))
混621列車 全駅30秒停車
熱塩折り返し 641:30秒着 702発
混622列車 会津加納 8分停車
       他駅 1分停車

混623列車 全駅30秒停車
熱塩折り返し 1632:30秒着 1651発
混624列車 会津加納 8分停車
       上三宮  1分停車
       会津村松 6分停車

混625列車 全駅30秒停車
熱塩折り返し 1853:30秒着 1908発
混626列車 全駅30秒停車
喜多方 1936:30秒着(上本)
    1952発(下1) 
回626列車で会津若松まで回送。

会津村松と会津加納の停車時間がなんとも微妙ですね。
対向列車がない線区なので、仮に貨車の入換をして列車が数分遅延しても問題は無かった??

喜多方駅の配線図がこちらのブログに掲載されてないので、混626〜回626で着発線が異なる理由がわかりませんね。発表を期待します(笑)

皆様
コメントありがとうございます。その中でとりあえず、
>会津村松駅と上三宮駅
確かに1957(昭和32)年7月に貨物営業が廃止されているようですが、なぜか直後の1957年9月1日に車扱貨物の取り扱いを再開し(公示第332号)、1980(昭和55)年2月10日に再度廃止されているようです(公示第153号、いずれも停車場変遷大事典によります)。
ですので貨物営業が行われていないにもかからわらず貨車の入換が行われていた、というわけではなさそうです。
ただそれはそれとしても、なぜいったん廃止されたものが再開されたのか、そもそもそれほどの需要があったのか、といったところは不思議です。

ワフ、ヨなどの緩急車は運用区間が決まっていたそうですので、途中駅で解放したり、運用区間外への貨物は積みにくいとおもわれます。ワフの貨物室はどのように使っていたのか、国鉄時代に列車掛をされていた方にネットで聞いたことがあります。以下のように教えていただきました。

「私がS49年の国鉄入社前に廃止された制度に小口扱貨物があり、貨物を貨車1両の単位でなく1個単位で輸送する制度でした。従って、緩急車の荷室から駅員?貨物車掌?が各駅で取り卸しをして輸送しました。私自身の業務経験はないですが、高校生の時に小海線でワフの荷室から荷物出し入れしているのを見ました。」
ということでした。

NZさん

フォロー情報をありがとうございます。
624列車の会津村松停車時間は6分ですか。私が見た日にはワム1両を側線に置いてくるだけの作業でしたが、それにしても厳しそうですね。

> 混626〜回626で着発線が異なる理由
これはわかりません。もしかして19:36から19:52までの間に磐越西線の上り列車が来るので逃げなければならなかったのか?と思いましたが、1979年10月の時刻表を見る限りその時間帯に少なくとも上りの旅客列車はありません。貨物列車があったかもしれませんけど。
一方下りを見ると、19:08に郡山発野沢行き237列車が到着し、19:11に発車していきます。ところがこの列車には「喜多方-野沢間休日運休」との注記があります。ひょっとしてですが、その少し後に到着する626列車の編成が、これと絡んで何かゴソゴソやってませんか?

f54560zgさん

会津村松・上三宮の貨物営業が一旦廃止後すぐに再開されたことは初めて知りました。重要な情報を有難うございます。
再開の理由は分かりませんが、もしかして、前投稿でご紹介した「地域への感情配慮として原則全線貨物運転路線とされ」という件が関係しているのかもしれませんね。

ちょっと気になるのは、NZさんからご教示頂いた昭和54(1979)年10月1日訂補の列車ダイヤで貨物扱いのKが書かれていないという事と、f54560zgさんご紹介の停車場変遷大事典で車扱い貨物の再度廃止が1980(昭和55)年2月10日という事とが、一見矛盾している点です。
やはり日中線には何か“特殊な事情”があって“特別な扱い”が行われていたのかなあ…? 

貨物と荷物の違い、荷物は旅客駅で取り扱いであった。旅客列車の電車化で、2軸貨車が電気機関車のスピードに付いて行けなくて昭和40年代後半に競合脱線が問題になった。北陸トンネルの上り勾配を、重量貨物の後に特急電車では、15分ぐらい開けなければならなかった。
コンテナ特急の運行が始まり、一般の貨物もコンテナによって客車と同じボギー車化を進めて、途中の操車場で、編成の組み換えがロスになっていた。
ローカル客車の長距離鈍行は、荷物車と郵便車が主になって、主要駅では停車時間が長くて、中津川から長野行のローカル客車では、5両の荷物車に、客車3両で、松本で1時間停車で好きで乗っている者はトモカク他は、新宿からの普通電車に乗り換えていた。旧型客車は荷物車を併結するために運行していた。電車やディーゼルカーにも、荷物車はあったが、客車みたいな長距離運行には適さなかった。
新幹線が並行して、第3セクター化するならJR貨物が管理して、アメリカの鉄道みたいに進めて行けたらではあるが、財政上はである。JR貨物が所有する機関車は、貨物用に設計されて牽引定数に対して客車は、ブルートレインみたいな高速運行でもしない限り、軽量のローカル客車には不経済である。運行が終わった、EF200では100㎞/hに対して15~6両のブルートレインでも、半分ぐらい重量不足であった。
重量貨物を高速で運行するには、線路規格にもかかわってくる。トラック輸送は過重労働が問題になり在来線は、貨物列車を有効に使用出来ないかである。

国鉄の組織では、貨物は貨物局、荷物は旅客局でした。いずれも国鉄は駅から駅の輸送しかしませんが、貨物の場合は駅から配達、駅までの集荷を通運業者に委託する事が可能でした。

荷主が駅に持ち込む場合は、その駅が一般駅の場合は、駅止めの場合は有利な方で運べば良いのですが、配達を希望する場合は貨物となります。
ただ小口貨物はヤード式輸送なので到着日が読めないので、個人で送る場合は荷物が主流だったと思います。
荷物は駅渡しというのは最後まで残ったブルートレイン便やレールゴーサービスまで原則で変わりませんでした。

うさおさんが上げているブログに、名古屋発笹島行きの貨物列車が出てきます。貨車に積まれてるのは新聞なので本来は荷物列車で運ぶべきモノです。
https://shinano7gou.at.webry.info/201211/article_7.html
列車番号は貨物列車の番号で、名古屋駅は笹島駅に貨物を分離後、旅客駅になった(書類上は国鉄最後の日に一般駅に戻ったようですが)ので、ブログで紹介されている1980年は貨物の取り扱いはしていなかったはずですが、荷物列車の代用をする貨物列車の発車があったようです。

実際は臨機応変に対応してたのですかね。

五能線の混客はワム1輌連結というのはよく見ます。コレはもしかしてオハユニのニでは不足するため常に連結していたのでは無いでしょうか?
末期は貨物輸送激減でワムのみ連結になってしまいましたが、オハユニをハとスユニに分けると延長換算を使ってしまって貨車の連結両数が減ってしまいます。

設計者(西尾源太郎氏)自ら、オモチャ・イタズラと回顧するキワ90などは、そもそもが車扱いではなく、荷物扱い前提の貨車に思えます。

荷物輸送は国鉄時代の物である。JRになってからは12系、50系でローカル客車の運行はあった。未電化線と、交流電化された所で荷物車は繋いでいなくて、重量貨物や高速のブルートレインを単機で運行出来る電気機関車で、2~3両の50系客車では不経済であった。DD51でも感じて、今でもタマに12系5両では,電気機関車では出力が高くて̠架線下でもDD51を使用している。
荷物は、宅配業者が運送会社同様に私有コンテナを持ち、郵便物はJR貨物のコンテナで、JR貨物が管理して、時間帯によって電車に一部に新聞を運ぶぐらいである。
国鉄時代のローカル客車は、そんなに必要かと思うぐらい客車を繋いでいて、今思うと機関車の出力に対する錘がわりだったのか。日豊本線の延岡~佐伯までの、普通列車では2両の客車の次に貨物列車を繋いでいて、ED76の出力に対する錘がわりだったのかである。
直流電化されたところは、電車化が進み荷物列車が増えた。が、地方路線ではそう言う訳にはいかなかった。国鉄と言う公共企業は民間企業への配慮が負担になっていた。

小荷物が社線に継送の場合、運賃はどうなっていましたっけ?
私が幼少の頃、信越線上田駅留で送られてきた荷物が何故か上田丸子電鉄の上田原駅までやってくることがありました。確かに自宅からは近くなりますが、荷物は上田に職場があった父が受け取って帰るのが常でしたので、わざわざ上田原でバスを下りて受け取らねばならず「二度手間だ」とぼやいておりました。住所で判断した駅員の親切心だったのかもしれませんが、電鉄が無料で運んでくれたのでしょうか。
その後就職の際、布団袋と段ボール箱二つを上田駅に持ち込んだ時は「箱二つは一個口にしといてやるよ」と言われました。荷物運賃は旅客より融通が利いたのでしょうかね。
いずれにしろ、古き良き時代のお話です。

北東航21さん
名古屋発笹島行き、しかも荷物を運ぶ貨物列車、面白いですね。ますます混乱します。
五能線も列車の種別としては混合列車っぽいですね。荷物を運んでいても貨車を連結していれば混合列車ということなんでしょうか。

刻苦七十年さん
さすがに駅員さんの親切心ということはないと思うのですが・・・。
私の祖父母が東京にいた私のところに荷物を送るとき、大屋駅に荷物を持ち込んだのかどうかが気になっています。

こんばんは。
大変興味深く拝見させて頂きました。
貨物はコンテナが殆ど、荷物を運ぶ列車や車両はほぼ見たことのない自分にとっては、写真では触れるもののなかなかそのシステムを理解することのできない、手の届かないような世界でした。
今の拠点間を直行する貨物列車しか知らず、各地の駅で貨物・荷物をどのようにして扱っていたのかも実に興味深いです。詰まるところは人の手で処理されていたのだと思いますが、貨車の場合にはどのようにして入れ替えをしていたのか、荷物はどのようにして個々の着駅を管理していたのか、興味は尽きません。
現代の宅配便のシステムは実に便利ですが、駅までという制約がありながらもそれに近いシステムが鉄道に載って実現されていたことを思えば、すっかりとその機能が失われてしまったことを惜しく感じます。今の客貨混載の取組みが充実してくることを楽しみにするしかありません。
貨物は、ローカル線の鄙びた駅前に残る通運会社の事務所跡を見て、往時を偲ぶばかりでしょうか。
風旅記: https://kazetabiki.blog.fc2.com

風旅記さん
貨物・荷物については旅客営業に比べると情報が少ないですよね。コンテナ輸送についてもよく考えると理解できていないところがいろいろあります(汗)。

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