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2020年4月 4日 (土)

1968年10月の急行「陸中」号

今回は山田線を走る個性的な急行「陸中」号について、1968年10月時点での状況を少し詳しく見ていきたいと思います。

ます列車ダイヤです。下り列車のみで、連結順序はテキトーです(汗)。
196810r
「陸中」のスジ(赤線部)に沿って順に追いかけてみます。
1)仙台を7時40分に出発します。この時点では青森行き「くりこま1号」、盛行き「むろね1号」とともに3列車が併結された状態です。
2)一ノ関で「むろね1号」を分離し、逆に盛からの青森行き「さかり」を連結します。このため3列車が併結された状態であることには変わりがありません。
3)花巻で「陸中」が分離され、単独の列車となって釜石線に進みます。
4)釜石線~山田線を経由して16時20分に盛岡に到着します。東北線経由なら30分程度の花巻~盛岡間を「陸中」は6時間以上かけて走行します。
5)盛岡からは再び併結となりますが、今度のお相手は上野から常磐線経由でやってきた「みちのく」です。
6)東北線に戻ったのもつかの間、好摩から花輪線に入ります。
7)大館で「みちのく」と別れ、今度は青森からやってきた「むつ」に併結されて21時12分、 終点の秋田に到着します。
8)「むつ」には川部まで深浦行きの「深浦」が併結されています。
仙台から秋田までの間に、実に解放を3回、連結を4回繰り返します。特に同じ駅で解放と連結の両方を行うケースもあり、なんともスゴイですね。

次に「陸中」と別れた後の「くりこま1号」についても見てみます。
1)花巻で「陸中」を解放した代わりに釜石発盛岡行きの「はやちね1号」を連結します。ですので相変わらず3列車が併結された状態です。
2)盛岡で「はやちね1号」を解放するとあとは終点青森まで解結はありません。前述の通り青森まで行くのは「くりこま1号」と「さかり」なのですが、盛発青森行きというのもレアな運転区間ですね。

もう一つ、「みちのく」についても。
1)上野を7時45分に出発します。この時点では鳴子行きと弘前行きと宮古行きの併結です。3方向への列車の併結なのですが列車名は全て「みちのく」です。
2)小牛田で鳴子編成を解放します。
3)花巻で宮古編成を解放します。宮古編成には盛岡から東北線を上ってきた釜石行きの「はやちね2号」が併結されます。
4)単独となった弘前編成は盛岡で前述の通り「陸中」を併結し、花輪線を通って大館へ向かいます。
5)大館で「陸中」を解放し、再度単独列車となって終点弘前に20時9分に到着します。

これだけ解放・連結を繰り返すということはすなわち直接的・間接的に関係する列車も多くなるわけで、トラブルによる遅延発生時の対処を考えると、個人的にはゾッとします(汗)。

ところで「くりこま」「陸中」「むろね」の方は行き先ごとに列車名を変えているのですが、「みちのく」の方は行き先が違っても列車名は同じ「みちのく」です。この違いは何でしょう? 列車名称の付け方の規定とかがあるのでしょうか。
最近の例でも「踊り子」と「きのさき+まいづる」とかがありますし。

次に運転経路を地図で表すと下図のようになります。
R_20200401191801
列車番号は4回変わります(103D~2603D~201D~616D)。進行方向も4回変わります(釜石、盛岡、十和田南、大館)。
もちろん通しでの乗客は想定していないと思いますが、それにしてもこれを1つの列車にするとは・・・。
仙台~秋田の最短ルートは陸羽東線経由と北上線経由がほぼ同じ所要時間で、5時間30分程度です。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

北近畿地方の場合、
京都発は
おなじ「きのさき」にしてしまうと、
城崎温泉、福知山、天橋立、東舞鶴、
そして豊岡行きに関しては本線経由と天橋立回り、
全て同じだと混乱します。
分割駅が綾部か福知山のいずれかだけです。
(みちのくのように三段ロケットではありません。)
つまり、
単独のきのさき、
きのさき+はしだて、
きのさき+まいづる、
単独のはしだて、
はしだて+まいづる

はしだて、まいずるは電車以外にも京都丹後鉄道の車両による運行もあります。


陸中1号のような直通需要の全くない列車を設定するのは以下の理由です(必ずしも全てではない)

・線路容量
別々に走らせるより1本にした方が他のスジを入れれます。ホーム容量も同様。
・要員の問題
陸中1号として走る花巻〜盛岡間以外は、独自の要員を必要としません。編成は長いと車掌が増えますが、少なくとも気動車運転士は釜石・山田線以外は不要です。
・営業上のメリット
営業上で使用する列車キロは、全区間を計上しますから、水増しできます。

遅延なくてもダイヤ改正のたびに大騒ぎになります。というのも気動車は片幌なので、幌があっち行ったりこっち来たりします。連結したのにどっちも幌が付いて無かったという訳には行きませんし、最終的に戻す必要もあるので、いわば幌の運用も存在します。
どうしようもなくて、確か千秋だったと思うのですが、両幌で連結してたこともありました。
車両も素直に単純往復ではなく別の列車で戻ってきたりするときは、行先サボの両面をどう書くか、とか、この頃の東北気動車急行は高難度のパズルをしてたはずですが、ほとんど資料が残ってないんです。

確かに、使命の違う列車をできるだけ少ない車両で運用しようとすると、こうなりますね。
中公新書の「列車ダイヤの話」の中で、東北本線を中心に、磐越、奥羽、水郡、常磐の各線に関連のある急行設定で悩んでいた本社のスジやさんがスクープに現れた支社の担当を追い返すエピソードがありますが、その時頭を痛めていたのは、こんな急行だったのでしょうか。

皆様
複雑な運用は幌やサボにまで影響してくるわけですね。
「陸中」のような運転経路の列車が設定されたのは1965年のようですが(Wikipediaではその後1966年10月に分割、と記されていますがこれは間違いと思われます)、1972年3月の改正で宮古を境に分割(「陸中」と「よねしろ」)されたようです。新幹線開業で「陸中」は北上発となり、「よねしろ」は盛岡発になってしまいました。

1975年当時の下り陸中2号(4601D)は、釜石で併結相手のはやちね2号を切り離した後に、普通列車用の編成を連結していたと記憶しています。
この編成は宮古で切り離されたのでしょうか?
それとも併結したまま641Dとして盛岡に向かったのでしょうか?
翌朝の盛岡発632Dが上り陸中1号の送り込みでしたが、普通列車用の編成も併結していましたので、
前夜の陸中2号+普通用編成が641Dとして盛岡まで行き、翌朝に632Dとして宮古に折り返したと考えるのが自然な気がします。
実際にそうであったのか、あるいは違うのか、どなたか確認が可能でしたら教えていただけますと幸いです。

陸中3号さん
申しわけありませんが私は情報を持ち合わせておりません。どなたかご存知でしたらコメントお願いします。

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