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2020年3月15日 (日)

柘植配線図

柘植駅の配線図のご紹介です。

以前の記事も合わせてご覧下さい。
 柘植 1980/3/16

最初は1970年頃(?)。

197000r_20200204222601
・43-10の時刻表を見てみますと、草津線直通、分割、始発・終着などの列車が設定されています。また加太越えの補機の基地でもあったわけで、構内では複雑な入換作業が行われていたのではないでしょうか。

続いて1980年3月。

198003r
・これは以前ご紹介したものです。
・信号機が色灯化されました。関西線は通過信号機付きですが、草津線はCTC化が完了しているためか3現示ですね。
・3番線(上り本線)からの下り出発が可能になっています。

最後に1988年3月。

198803r_20200204222601
・加太駅の記事でも書きましたが、関西線のCTCの関係でしょうか本線である1~4番線のみ名称が入れ替わりました。5~9番線はそのままなので何か変ですね。

オマケで未公開写真を1枚だけ。

19800316d08

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

柘植駅は、関西鉄道が現在の草津線を草津側から延伸した時にできた駅で、線路はさらに東に伸ばし(現在の関西本線)名古屋に向かいました。

柘植から奈良方面へは、その後建設された線路なので、草津〜亀山を結ぶ線路が本線側(直線)で、奈良へ向かう側が支線側(分岐線)という線形です。

このように、建設当時は支線だったのが、今ではこっちが本線というようになってしまっている駅はまとめてありましたでしょうか?

今ぱっと思いついたのは、
・大宮
・音威子府
ですね。他にもありそうですが。そうだ、
・紅葉山(→新夕張)
というのは入るでしょうか?

3番の中線の使用方法が気になるのですが、
これは加太方面から来た前補機を切り離し、
中線に逃すためのものなのでしょうか?

それか柘植止の列車の留置用?

普通の退避用としての中線の配置になっていないし、
70年代までは普通の中線だったのに、
一部撤去し何故こうなったのか気になります。

一番上の1970年頃(?)の配線図についてです。

この頃、柘植には伊賀号を撮りに何度か行ってまして、中線に留置されている、伊賀号のテールマーク付き旧客を撮ってありました。Web上にも「940号機が伊賀号」のHMを付けて、中線から湊町方へ旧客を引き出す様子を撮られた方が、おられました。「」内をキーワードに、画像検索で。

中線は、柘植折り返しの客車の留置に使われたようです。

中線の後に撤去された部分の使用用途ですが、
湊町方の\部分は、上り列車の待避用でしょうか?。
名古屋方の/部分は、下り列車の後補機の切り離し用でしょうか?。詳細は謎のままです。

 柘植での補機の解結はどのくらいあったのでしょう。東の亀山方面も西の奈良方面も25‰が続くので、補機も直通したのではありませんか? 柘植機関車駐泊所は草津線列車用に設けられたと聞いた覚えがあります。

 昨年に訪れたとき、中線はレールがさび付いていました。定期使用が無いのが明瞭です。

1980年代は、中線は柘植駅で滞泊となる気動車が使っていましたね。JR化後もしばらくはそんな感じでした。
1982年初頭の時刻表で、柘植滞泊の気動車は2本ありますが、柘植止まりとなる気動車は最終列車ではないので、本線を開ける必要があります。
(草津線の電車2本客車1本はホーム留置と側線留置)

現在は1988年の配線図で2番線となっている関西線上り本線で滞泊し、翌朝そのまま加茂方へ発車します。

ネット上に昭和45年10月現在の亀山ー奈良間の列車ダイヤがありました。C6217さんがご指摘のように柘植を通過して補機の解放連結の無い貨物列車もありました。また草津線経由の貨物列車は柘植以東で補機マークが付いていますが、草津線では単機なら柘植で連結解放をしていたと思われます。機関支区側線に停車しているD51の写真もありました。貨物列車の運行経路として奈良・竜華操車場行きと草津線経由梅小路・吹田操車場行きがあったのでしょうね。
参考HP:http://tsushima-keibendo.a.la9.jp/JNR-kansai/JNR-kansai-west1.html

柘植機関支区側線のD51の写真があるペ-ジはこちらです。
hp:http://fuzzyphoto.blog120.fc2.com/blog-entry-941.html

本線・支線の立場逆転は常磐線友部駅も該当すると思われます。先に日本鉄道水戸線の駅として開業したあとに常磐線が開通しています。

みなさまありがとうございます。

コスモスさんのリンク先拝見いたしました。

後補機なのか・・・、
前補機じゃないんですね(;^_^A
加太方面から来た場合下本で解放したあと、列車発車後に下引上に突っ込んでからバックし、中線経由し上引上に突っ込み、5番を経由して転車台に向かっていたのでしょうね、加太方面の場合は5番に列車を入れてその後ろ連結するだけですね。

ゆかわあきらさん
蒸気時代の一番上の配線図にある、下本の亀山方にある上本への渡り線は、下り後補機をそのまま上り引上へ逃すための配線に見えます。
無煙化後は不要になったので、剥がしたのでしょうか。

皆様、多数のコメントありがとうございます。

>今ではこっちが本線
利府支線とかも?

>下り後補機
北東航21さんに賛成です(笑)。でも下本じゃなく上下貨待(5番線)に入れた方がよいような。


>下り後補機
他に列車がなければ上下貨で解放するでしょうね。
ただ貨物列車同士の交換でしかも片方が長時間停車してるケースもあると思います。
下り引上げの使用方法は、関西→草津線の機関車交換ですかね。

1980年の配線図
関西線上り場内信号機に誘導信号機がありません。
17時過ぎに上り急行平安と急行かすがの併結を柘植でやっていましたが、急行平安が上本に到着後、上り引上げへ引き上げ、上本にかすが編成が到着後、入換で併結してました。
何度か眺めましたが、作業中に下り普通が到着し、草津本線は下り電車が出発待ちで、多分柘植駅が一番騒がしかった時間帯だと思います。

>上り急行平安と急行かすがの併結
何故、上本のホーム内で、併結作業が行われなかったのでしょうか。詳細のほど、よろしくお願いいたします。

またまた、1970年頃(?)の配線図の頃についてです(^^;)。
以下Web情報からで、ではありますが。

下本から発車する、草津線のSL牽引の客レの様子がありました。おそらく亀山から付いた後補機を外して、と思います。

幼少の頃、柘植でDCからSL牽引の客レに乗換え、津の御殿場海岸に行った記憶があります。伊賀上野発の草津行きDCで、草津発の客レに乗換えたことが分かりました。この客レにも亀山まで後補機が付いたかも、と思います。

一筆書き乗車の時に、関西本線のレールバスと草津線の電車に乗り継ぎ、今は1番線のみ架線がない。
京都~草津をEF58で来て、草津線を蒸気機関車で旧型客車があった。DD51に代わって、京都まで乗り入れ、草津線電化になっても、D51が運行していたことで、EF58が入れないことはなかった。50系客車になって、架線下をDD51で最後まで運行した。
DD51の旧型客車で初めて、草津線に乗った。駅を気にすることなくディーゼルカーに乗って伊賀上野へ乗り継ぎ、蒸気機関車の時はどの様な駅だったのかである。国鉄時代は近鉄大阪線に配慮したことが尾を引いているのか?名阪間は最短距離を活かすことが出来なかった。東海道本線みたいな設備になっていたら、沿線も開けて伊賀上野、亀山から大阪市内へ通勤出来ていたかも知れない。駅は無人化に等しくて、勝手は東京行の夜行列車があって、1~2両のレールバスに対して各駅のホームが長い、交換の島ヶ原の駅に複線電化の看板を見れば、三重県を筆頭に自治体は何もしないのかと言いたい。
草津で中山道と別れ、貴生川から近江鉄道水口、関西本線の関が東海道の宿場があった。

関西鐵道時代 柘植駅には三線の機関庫がターンテーブルの脇本線との間に有り鬼鹿毛 電光 雷 といった関西鐵道のマンモス機関車や池月 磨墨 望月 駒月 小鷹 友鶴 隼 鵯 千早 春日 三笠等の小型機 飛龍 早風 追風とがいった高速機等が出入りしていたのでしょう 
関西鐵道では機関車の形式を名馬の名前や鳥の名前沿線の地名自然現象の名前でよんでました 技術者に洒落た人物がいたのでしょう 同じ様なのが北海道炭鉱鐵道では当初機関車一両ごとに弁慶 義経 静 光圀 比羅夫 等北海道に関係有る人物の名前を付けてましたね

北東航21さん、併結する2本の列車がいずれも上本到着なんですか。線路の空きがなかったんですね。

moni5187さん、北東航21さんのコメントにあるように誘導信号機がなかったからですね。上本に列車が止まっている状態では上本の場内信号機は停止信号以外を現示できませんので。

ニッシーさん
草津駅は天下の東海道線にありながら比較的後年まで蒸機を見ることができたんですね。

yyoshikawaさん
関西鐡道は風流な機関車名の付け方をしていたんですね。

関西本線の補機運用で、柘植で補機開放しない下り列車(奈良方向)は、加茂駅で補機開放していたとの記載が趣味誌にありました。蒸気機関車EX2013年春号(Vol.12)の「特集関西本線昔語り 奮闘加太越え」で、元奈良・亀山機関区乗務員座談会があり、亀山の元乗務員が「補機で行ったときは加茂の支区で機関車を落とし、加茂で泊まって翌日補機で戻ってくる仕業もありました。」と述べておられます。戦後のころ加茂にも機関支区がおかれていたとのことです。
加茂にターンテーブルがあったことは、以前の加茂駅の記事(2008年10月11日)で床屋のシンサン様からコメントがありますね。

すみません。名前が抜けました。コスモスです。

コスモスさん
関西線は柘植以西にも急勾配が存在するんですね。それにしても、奈良まで行っちゃえばよいのに、とつい思ってしまいますが。

基地の機能としては、奈良のほうが充実してるでしょうからそれもありかもしれません。転向と給水だけなら急こう配が終了する加茂での開放が一定の合理性があったのでしょうね。ミニ沼宮内というところでしょうか。

コスモスさんのおっしゃる通りです。
「奈良まで行っちゃえばよいのに」というのは、車両基地を統合することが距離の遠さよりも優先されるようになった現代の感覚ですね。
瀬野機関区に配置されていたセノハチ補機に「広島まで行っちゃえばよいのに」とか、もっと極端な例で、宇部電車区に配置されていた宇部線の電車に「下関まで行っちゃえばよいのに」というのと同じでしょう。

コスモスさん、クモイ103さん
車両性能の向上や何より機関車牽引列車の減少が背景でしょうか。味気なくなってしまいましたね。

スミマセン、私です。

蒸気機関車の場合は、石炭、水の補給の都合上適当な距離で機関区が置かれていましたね。とくに水の補給は機関区が無くても、駅にテンダーへの給水設備が置かれていたところがよくありましたね。

 柘植の写真では給水設備は見えますが給炭設備はありません。折り返し基地に徹していたのでしょうか。

 亀山~柘植は25‰、亀山~伊賀上野は16‰、伊賀上野~笠置は25‰、笠置~加茂は16‰、加茂~奈良は10‰。あなたなら補機の運用基地をどのように配置しますか?
 笠置~加茂は10‰でも建設可能だったので、そうすれば笠置が折り返し基地になったかも。

>あなたなら補機の運用基地をどのように配置しますか?

東向きの上り方向で、加太越えに似た上り勾配のキツイ場所としまして、大河原→島ヶ原があります。今は、キハ120が軽々と登りますが。その昔、キハ35系だけの編成の頃は、加太越え並みに喘ぎながら、ここを登っていました。

大河原を発車すると、すぐに連続25‰の登り勾配で、築堤を右カーブし、大河原大トンネル、大河原小トンネル、月ヶ瀬口停車で一息付いて、サミットの島ヶ原トンネルを越え、島ヶ原に到着します。ですので、島ヶ原に補機の運用基地があったなら、柘植の逆向きバージョンになったかも、と思います。

キハ35でこんな勾配上り下りしたとは…。

他サイトで見てもホント驚き。

東飯能前後の坂で喘ぎながら走行しているのを乗ってた身からするとある意味過酷だったんじゃないかと思います。

そういえば、あそこのローカル用気動車で2エンジン車を見た記憶がありませんね。キハ35が多かったのは関西本線らしいと言えば言えますけど。
昭和54年3月に乗車した奈良発名古屋行きがキハ35×2+キハ20×2の4連で、亀山でキハ20を切り落としてロングシートの35だけになってしまったのには「なんだかなあ」と思いました。

クモイ103さん
亀山には急行運用を外れたキハ55や数両のキハ52・53もいたのですが、大半が紀勢東線と名松線、信楽線に投入されてましたね。とはいえ、片町線長尾以東でキハ52に当たった記憶もあるので皆無ではなかったようですが。

奈良線電化後に急行落ちしたキハ58が1両ぐらい混じるようになっても、キハ58+キハ35系3両に乗ってたら、対向列車がキハ58+キハ45+キハ40×2という格差を見せつけられたことも(笑)

C6217さん

笠置は土地がなくて補機の基地は難しそうです。
加茂に基地があったのは、そもそも関西鉄道として開業した時は、木津へは行かず奈良の大仏駅へ向かっていて、加茂ー大仏間に25‰があったからなんですよね。
終着駅の大仏に基地を設けなかったのは、あくまでも奈良駅乗り入れ=大阪方面接続の暫定だったからだと思われます。

北東航21 さん

記録をひっくり返したら、昭和60(1985)年8月19日に亀山→柘植間で乗車したのが天カメのキハ58 169でした。
ちなみにその直前に立ち寄った名松線は、天イセのキハ58 597+キハ40 2134でした。
柘植からは新製間もないモハ112-2701[大タツ]で貴生川へ。
信楽線は天カメのキハ58 596+キハ58 1025で、冷房用電源がないためクーラーがあっても効きません。
ぐぬぬ…と思ったのもつかの間、貴生川を発車したとたんにもの凄い「登山」が始まって納得。こんな線区に冷房用電源を積んだキハ28を混ぜるわけにはいきませんね。かと言って、キハ65はその頃まだ急行運用で重用されていたでしょうから。
当時は山手線や京浜東北線の103系に、両端のクハだけ冷房車で中間が全て非冷房のため冷房用電源がない“見せかけ冷房車”が多数存在し、日常よく見ていましたが、こんな遠方まで来て同じ現象に出くわすとは思いませんでした。

皆様の柘植駅・関西線に対する熱い思いが十分すぎるほど伝わってきます(笑)。

1970年(昭和45年)発行の鉄道ファン特別号
「蒸気機関車撮影地ガイド」に亀山機関区と
奈良機関区の仕業表が記載されています
・貨物列車の補機は柘植〜亀山間のみ、D51
・朝夜の草津線直通が C58 の単機運用
補機は正位の後部運用のみでした
柘植駅は駅弁も販売されてました

名無しさん
柘植以東でも貨物列車に補機が連結されていたという以前のコスモスさんのコメントのリンク先も鉄道ファン「蒸気機関車撮影地ガイド」が情報源のようです。
はたして真相は?

柘植駅の駅弁は、中村屋さんですね。
駅弁売りスタイルで、ポリ容器のお茶と共に売られていた。のを見た微かな記憶があります。その昔、2,3番ホームに売店(たぶん中村屋さんの)があり、中在家へ向けての待ち時間の間に、牛乳を買いました。瓶代込みか否かでもめて、結局込みでした。発車までに車内で飲んでしまって、キハ35の床に転がるのも何ですから、瓶を返しに行った思い出があります。

柘植以西での補機の様子は、当方のブログ「補機付き貨物列車」で記事にしています。記事検索に「補機」を入れると、他にも出てきます。昭和45年では、どうだったかは謎ですが。
https://ict.easymyweb.jp/member/moni5187/default.asp?c_id=44654

f54569zg さん、moni5187 さんへのお礼を兼ねて
柘植以西での奈良機関区 D51 後部補機運用
始業番号 262 , 268 して△印付きで掲載されてますね
262 奈良 早朝 亀山操 9:40
268 奈良 17:00 亀山操 21:39
と日中ダイヤ P84 , 仕業表 P189 から読み取れます
他、仕業表に “前" 注記がないので重連仕業はなさそう
晩年、汽車ポッポ伊賀号という臨時列車が C11、
8620 を全補機として奈良〜柘植間で運転しました
「関西本線は基礎が古いから重量編成は組めない」と
亡父(近鉄 2200 系の運転手)が話してまぢた

スミマセン、「柘植以東」ではなく「柘植以西」でした。失礼しました

柘植機関支区には給炭台ありましたよ。
シーナリイガイド(機芸出版社)ご参照。

給炭台は比較的早い時期に撤去されたのですね。

管理人様ご無沙汰しております。
クモイ103様亀レス失礼致します。
信楽線の編成ですが、クモイ103様が乗車されたときは2両に減車された直後のようですね。1983年頃の鉄道ジャーナル誌の赤字ローカル線廃止の記事によりますと、信楽線の編成はキハ58+キハ35+キハ58の3両だったようです。
減車された状態で冷房電源つきのキハ28を組み込めなかったのは仰るように貴生川発車直後の勾配のせいと、当時の国鉄の姿勢が支線に冷房等必要無しと判断したからでしょうね。
どうもお邪魔致しました。
また宜しくお願いいたします。

しげぞう@ さま、信楽線の編成についての情報ありがとうございます。私が訪れる少し前までは3連だったのですね。それにしても中間がキハ35ではやっぱり冷房は効きませんね。

> 当時の国鉄の姿勢が支線に冷房等必要無しと判断した
当時の状況は「冷房車を回す余裕がない」だったと私は感じています。草津線こそ大タツの113系電車で冷房化されていた様ですが、柘植周辺の関西本線は非冷房の一般形気動車の天下でした。
スレ本題から外れた話題につきこの辺にさせて頂きます。

当方のブログを見直しますと、昭和48年3月4日撮影の"伝説の柘植機関区"で、D51944の左に給炭台が写っていました。左下は撮影仲間の機材で、白い包みは拓本をとった長半紙かも。同年5月3日撮影の"再訪伝説の柘植機関区"では、D51906の左に写った給水塔の向こうには何も無く、給炭台の撤去は関西本線無煙化の半年ほど前のようです。

 柘植機関車駐泊所の給水塔と炭台を撤去した理由はなんでしょう? 跡地の利用計画が無ければ放置しておくのが普通だったと思います。 市街地なら別ですが。

無煙化を前に早々と炭台は撤去されてしまったのですね。老朽化などといった問題があったのでしょうか。

先日久しぶりに立ち寄りました。
上下貨の向こうのヤードはいい感じに錆びたレールが並んで「昔日の操車場」って風情になってました。

亀山方の右側に微妙に広い空き地があったのですが、それがもしかすると東側信号所の跡だったんですかね・・・西側信号場は今、伊賀市の公営駐車場になってます。

小学生の頃に修学旅行で伊勢へ行きましたが、その時乗ってた団臨は往復とも柘植を通過していき、鉄ヲタの入口にいた僕は「こんな大きな駅を通過するなんて」って思ったのですが、下り1番から2回渡るだけで直接草津線へ入れるし、上りもそれほど転線せずに関西線へ入れるから、通過ダイヤで組めたのかも知れませんね・・・

電話番さん
大量投下ありがとうございます。
かつては関西線、紀勢線、草津線、参宮線でにぎわっていたのでしょうね。

市営柘植駅駐車場は、G.G.mapによりますと、下(西)引き上げ線の西側(配線図では上側)にあり、鉄道OB会柘植支部管理で一時預かりと月極が別々だった様です。それらの間が京都電車区柘植乗務員宿泊所と書かれたWeb地図もあり。過去の空中写真や構内写真をチェックしますと「柘植 1980/3/16」の記事でも右隅にちらっと写っていて、国鉄官舎(宿舎)っぽい平屋の建物群の様に見えます。当方は、付近を背にして構内に向け草津線のDD51を撮ってあるだけでした。全盛期の柘植駅には100名ほど勤務されていたそうで、住み込みの職員さんが大勢おられても不思議では無かったと思いますが。

moni5187さん
>100名
すごいですね。さぞかし賑やかだったのでしょうね。

質問いいですか?
ホームのない線で着発もしない線、例えば柘植駅や亀山駅にある中線への分岐器の配置についてなんですが、本線進行方先頭に分岐がある事が多いと思うのですが、これはどうしてでしゅうか?
・着発線でないので直接進入すること必要ない
・複線の渡り線の様に誤進入防止
・貨車留置利用とかなので、本線上の貨物列車から留置する貨車以降を切り離し、本線へ引き上げ、バックして該当貨車を切り離し、本線へ引き上げて、バックして本線着発線に戻るとかの運用
などが理由になりますか?
他に理由ありますでしょうか?


上り本線と下り本線の他に副本線がある国鉄スタイルの駅の中線が、何故その様な配線になっているか、ですが。

JR伊賀上野駅では、JR難波方の下り本線の隣に伊賀鉄道が発着しています。近鉄伊賀線の電機が貨物の入れ替えをしていた頃は構内に架線が張られ、中線の湊町方に渡り線がありました。中線もその様な分岐器の配置で、その方が電機が中線に出入りしやすかった、からだと思います。

サダヲさん
あくまで推測ですが、もっとも大きい理由はmoni5187さんがおっしゃられているように、入換作業時の利便性を考慮したところではないかと思います。

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