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2019年12月 5日 (木)

中央東線配線図(1971年3月) その1(東京~千駄ヶ谷)

このブログをご覧いただいているNZさんより1971年3月の中央東線東京駅~小淵沢駅間の配線図をご提供いただきましたので、何回かに分けてご紹介したいと思います。(NZさん、ありがとうございます。)

その1回目の今回は東京駅~千駄ヶ谷駅間です。

 

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・誘導信号機に入換信号機と、解結・入換作業を想像させる信号設備です。もっともこの時点で使用されていたのかどうかはわかりませんが。

 

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・東京方に渡り線があったんですね。

 

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・細かいので2つに分けます。

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・東京方の側線は、この頃の私の記憶では3線だったのですが、図では2線だけですね。
・上り本線の東京方には車停がありますので本線引上げを想定しているのでしょうか。中央快速のお茶の水折り返し?

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・総武線の折り返し用の入換信号機25Lはちょっと中途半端な位置にあるような気がします。

 

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・ここも2つに分けます。

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KASAさんの情報によりますと、飯田町客貨車区は山1番線~3番線らしいです(図では山3が2つありますが、有効長が134の方は山1の間違いのようです)。昔の空中写真を見ると確かに1線の検修庫らしき建屋も確認できます。ところで「山」って何?

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KASAさんのサイトでも飯田町駅がご紹介されていますので、合わせてご覧ください。

 

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・ここにも渡り線があったのですね。

 

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・臨時ホームが描かれています。

 

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・ここにも渡り線が。
・千駄ヶ谷駅にも臨時ホームがあったはずですが、図には描かれていませんね。

 

配線図はNZさんからご提供いただきました。

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コメント

飯田町駅本線沿いの側線下1番2番によく客車が留置されていました 相鉄の側線は砂利ホッパー上に敷設されてました飯田町駅が閉鎖後も暫く現存いしており調査に出掛けた事が有りました東武業平橋の砂利ホッパーは地面に砂利を落としてましたが飯田町の砂利ホッパーは底がロート状になっており中心に開閉式の蓋がありダンプトラックが来た時開いて砂利を積む構造でした 飯田橋の市谷側の折り返し中線の辺りが昔の牛込駅の跡です 信濃町に臨時ホームが記載されておりますが記憶がないです千駄ヶ谷の臨時ホームの記載が抜けてますね・・

山手線の内側の中央本線は数回しか利用した事がなく、ドラマとかに出てくる釣り堀が見えていたかなぁ…程度でした。
飯田町の車両基地が目を引くのですが、いにしえの頃の甲武鉄道とか私の中では漠然としすぎて飯田町の機関区の存在感すら薄く感じていたものでした。
件の「山」ですが、機関区好きの発想は、河岸に対しての山で、機関区からだと首都高型に河岸で地下鉄側に山のような存在があったのかと想像してしまいます。
因みに飯田町機関区の転車台は、大正末期の設置。18.3mタイプの電動上路式で施錠装置は板式。無煙化前は C50型が塒の主でしたね。
おそらくですが、扇形車庫は元は9番線程でのちに半減されたようです。
確か近年の趣味誌にも、飯田町機関区の資料が網羅してあったと思います。

E10様飯田町駅の河岸線と山線は貨物扱いホームが神田川へ繋がっておる掘りに面しており艀取りの為河岸線と命名した山線は台地に面しておる側であるので山線と命名したのだと思います 飯田町駅から中央急行線(本線快速線)への合流部は本線がカーブの所へ到着側は本線分岐線共々カーブクロスで国内でも珍しいクロスでした通常分岐もカーブポイントでした 中央線は都心部を貫通してる関係でカーブ区間が多く御茶ノ水駅西側構内にも以前はカーブ状のダブルクロスが存在しており何方も珍しい分岐でした 配線図では用紙の関係から本線を直線で描く為セオリーですので実配線と違う事がままあります

yyoshikawaさん、E10さん
>下1番2番の客車留置
同感なんです。洗滌台のようなものもあったようない記憶が。でもここは本線なんですね。

>「山」線
お堀りに対する台地ですか。このあたり、起伏があるんですね。

yyoshikawaさん、遅くなり申し訳ございません。命名のお話、ありがとうございます。
私が現場でお聞きしたのは柳ヶ浦機関区でした。2線の矩形庫の山側を山線、海側を海線と呼んでいたと教えて頂き、飯田町機関区のコメントは当てずっぽうだったのですが、yyoshikawaさんのお話に成る程成る程でした。いつも奥深いお話をされ、大変勉強になっております。

f54560zg さん、今年も多々お世話になり感謝申し上げます。
今年は、いつものようにT.Mさんやコメンテーターの皆さんのご協力に加え、t_yosi さんの四国シリーズに今回のNZさんの中央本線シリーズや、さらに精力的にリポートをされているyyoshikawaさんの首都圏シリーズ、そして広範囲での地面取材を発表されているf54560zg さん。
毎年のように興味深い記事を続けて頂きありがとうございます。
ワクワクドキドキのブログの今後の更なる発展を願っております。

E10さん
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
E10さんのブログ、なかなかコメントさせていただけていないのですが(汗)、いつも楽しく拝見しています。今年も期待しています。

飯田町にあったターンテーブルを写した貴重な写真がツイッターの方に投稿されていますね。

https://twitter.com/gobanyak/status/1234057348647276544

1980年代頃の東京都内全体を航空写真で撮影し大判のソフトカバー本が有りました 未だ都内各貨物駅に貨車がウヨウヨしていた時代 上空からも其れが良くわかる本でした 当然ですが飯田町のターンテーブルもはっきりわかるものでした・・多分家のどこかにあるはずです

KASAさん
ご紹介ありがとうございます。大変貴重ですね。

yyoshikawaさん
お待ちしております(笑)。

東京の地形は大きく分けて東側が海に面した平地西側が台地という構造です飯田橋付近は此の両者の節点の場所であり其の為飯田町の構内の東と西を河岸と山とした 
徳川家康が豊臣秀吉から小田原の北条氏を滅ぼした後三河遠江から関八州へ国替えになり江戸の地に来た時日比谷付近は入江があり一面葦の原であった家康は先ず日比谷の入り江を埋め立て江戸城を築いたそして城の周りに武家の屋敷と町民の家を建設其れから比較的遠浅の江戸湾を埋め立てて江戸の町を広げていきました西側の武蔵野台地にはやはり武家屋敷等を建設してゆきました其れが現在の東京の市街の原型となった其れが官鐵新橋と日本鐡道上野間に連絡線を建設するのが人口密集地の為断念し武蔵野大地の西に連絡用の路線建設し日鐵山手線として赤羽品川間を結びました其の為山手線は台地と河川の谷筋を何回も越える沿線となりました 山手線の新宿から西へ甲武鐡道が八王子迄開通した後都心へ向かう為新宿より飯田町迄建設の折は江戸城の巨大な堀に線路を引いて都心部を縦貫した江戸時代の遺構が鐡道建設に各所でいかされたのは偶然でかたずけられませんね・・

嘗て信濃町に臨時ホームが存在していたのは神宮球場の客の対策であったのでしょうか同じく千駄ヶ谷の臨時ホームは東京競技場対応であったのでしょう なぜか子供の頃一度千駄ヶ谷の臨時ホームに降りた記憶が有ります 千駄ヶ谷は新国立競技場最寄り駅ですので殆ど使用されてなかった臨時ホームを東京オリンピック対策で臨時ホームを総武中央緩行線西行線の専用ホームとして再度利用されました当然ですがホーム扉も設置されました 

yyoshikawaさん
今は何も気にすることなく通過してしまう山手線ですが、起伏の激しい地帯を走っているんですね。

ネット検索で見つけた古地図画像に戦前青山練兵場へ千駄ヶ谷駅より側線が伸びていた明治天皇が崩御した時青山練兵場より桃山御料へ霊柩列車が運行されたのも此の側線から発車したのでしょう

yyoshikawaさん
そんなところにも側線があったのですね。

偶然ネットニュースに飯田町の1963年頃と複々線化前の航空写真が掲載されてましたまだ貨物施設やターンテーブル等が完全な状態の時代の画像です
唯直ぐに消えてしまいました

コロナのせいでは有りませんが 今日所要で秋葉原へ出掛けた帰路久々に中央緩行線で新宿迄乗車しました 飯田橋駅が市ヶ谷寄りに移転してました水道橋寄りのカーブホーム部分はまだ残ってますが飯田橋口下り階段の処で柵が設けられて入る事は出来なくなってます 飯田橋と市ヶ谷間に有った牛込駅跡を利用した旧中線跡を利用してホームを建設したので駅西側は線路移設等の工事は有ませんでした旧中線市ヶ谷側末端部は緩行線より少し低かったので車止めの跡が今も残ってます 市ヶ谷駅は何時の間にかホームドアーが設置されてましたが他の駅と違うタイプでした固定部分もドアー部分も何方もパイプになっておりホームで車輛撮影の折には良さそうです今日は電車の車内から見ただけですので近々再度撮影に行こうと思ってます 

飯田橋駅は子供の頃よく利用しました。ホームに通じる通路が階段ではなく長いスロープだった記憶があります。

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