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2019年12月 8日 (日)

中央東線配線図(1971年3月) その3(吉祥寺~国立ほか)

NZさんよりご提供いただいた1971年3月の中央東線東京駅~小淵沢駅間の配線図のご紹介のその3です。(NZさん、ありがとうございます。)

今回は吉祥寺駅~国立駅間及び下河原線です。

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・三鷹電車区が設けられています。中央線の電車基地としては2番目の開設ですね。
・列車線から大胆に緩行線を横切る入出区線が目を引きます。
・3番線は緩行線用?列車線用?
・細かいので2つに分けます。

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・電車区の2、5、9.13番線だけ途中に車両停止標識が設けられてその先と区切られています。これはどういう意味でしょう。

 

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・先日yyoshikawaさんのコメントにあった浄水場側線があります。

 

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・比較的新しい貨物営業駅でした。貨物列車の出入り方法に特徴があります。
・武蔵境駅とともに、高架化されて一変してしまったようです。

 

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・武蔵小金井電車区が設けられています。中央線の電車基地としては3番目の開設ですね。
・細かいので2つに分けます。

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・ここも電留線の途中に設けられた車両停止標識が目につきます。

 

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・国分寺駅についてはKASAさんのサイトで詳しくご紹介されていますのでそちらもご覧ください。

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・下河原線についてもKASAさんのサイトが詳しいです。
・2Lと4Rを見ると、あたかも右側通行のようです。もっとも5Lと5R、4Lと4Rがそれぞれ対向する進路になっていないので、このあたり、誤記の可能性が高そうです。

 

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・若干距離感がつかみにくいですが、列車として運転されるのは東京競馬場駅まで、そこから下河原駅までは入換のようですね。
・41L、41R、42L、42Rは何のためのものでしょう。電車用ではなさそうな気が。貨物を引いてきた機関車を2番線で休ませるため? そもそもここって第1種連動?

配線図はNZさんからご提供いただきました。

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コメント

代々木西荻窪のコーナーでコメントしましたが武蔵境の東京寄りから北上する浄水場への引き込み線多摩川水系の川砂利を浄水の為に運ぶ目的で敷設されましたが戦時中沿線に中島飛行機等の軍需工場等が建設され其貨物輸送の為浄水場線から更に分岐して行きました此の辺りの事はネコパブリシングのトワイライトゾーンマニュアルに述べられております戦後進駐軍製作地図にも記載されておりますね
国分寺から分岐しておる下河原線から更に分かれておる中央鉄道学園への引き込み線も此の時代には現役ですね国立の鉄道技研で1960年開催されたエカフェ鉄道展開催の頃は未だ貨物扱い用側線が駅舎側立川よりに有りました国立からの鉄道技研引き込み線も此の配線図当時は現役ですね此の後引き込み線は廃止され鉄道技研構内のみ健在です(標準軌と狭軌の三線四線等有ります)下河原線の北府中の府中街道側の刑務所への引き込み線は既に廃止されてます西武是政線の是政と国鉄下河原は何方も本来多摩川水系の川砂利採取目的で開業した路線でした

吉祥寺は高架化以前は貨物扱いもされていた帝都電鉄建設時工事用連絡線を敷設し工事資材車輛搬入に使用後撤去され帝都線は孤立鉄道となりました唯建設計画の段階では貨物輸送も検討されており吉祥寺駅井の頭公園側に回り込んで駅を開設し貨物授受線も設ける計画でした RMライブラリー235帝都電鉄上(関田克孝著)に計画配線図が掲載されてます

 三鷹と武蔵小金井の東京寄りの収容線は何の目的でしょう? 初めは増結作業のためと思っていましたが、10両が入る有効長があります。
 使用実例をご存じの方はご教示ください。ずっと昔に、全列車が7+3編成で三鷹で3両を増結していたというかすかな記憶があります(記憶違いかも)。 
 三鷹電車区の車両停止標識は10両を収容する残りを留置などに使用する魂胆が見えますが、それなら全部に設置すれば便利なのに。残りが170mなら何に使ったのでしょう。
 0番線だけは1区と2区に分けて2編成の留置を可能としています。
 でも、この配線では引上線が1本で入出区と構内転線がすべて競合しますね。函館運転所は引上線を3本持っていたと記憶しています。
 武蔵小金井電車区の車両停止標識は留置線の中ほどではなく始端にあるようです。あとは操車係の誘導によるので、融通のきいた作業が出来ます。岡山電車区もこの形式でした。
出区のとき入換信号機を集約して表示灯によっているのもこの時代の合理化として覚えています。

戦前の吉祥寺駅配線図では北側に駅舎と貨物扱いホームと其の側線が一本其処から分岐した突込み線旅客用一番線とおぼしきホームが有り上り列車の退避用であるのか 通常使用のホームは上下線間に島式ホーム一面二線と其の両外に貨物列車待機の副本線と云う東海道本線東方標準配線の駅です井の頭公園側の稿内は貨車留置線が二本という構内配線 東京寄りと浅川(高尾)寄りに折り返し中線が存在していました

yyoshikawaさん、C6217さん
詳しい解説ありがとうございます。

三鷹・武蔵小金井・立川の東京方の引き上げ線は、3+7の3両編成の引き上げ用でした。私は昭和31年生まれですが、昭和43年頃まで武蔵小金井と立川で増結解放が頻繁に行われていました。7両で東京まで行く運用もありました。日野駅が昭和41年まで7両ホームで、10両の高尾行きは立川でドア締め切り操作(3両ドアカット)をして発車していきました。昭和30年代の終わり頃まで、立川で運用が分断されていて、立川~高尾間は3両編成の折り返し運用でした。多客期には3+3の運用が入りました。車両の運用と乗務員の運用が一緒だったようで、武蔵小金井と立川の間に頻繁に3両の回送電車が運用されていました。日野のドアカットは昭和42年には1両になり、昭和43年頃解消されました。

細井和雄さん
貴重な情報ありがとうございます。昔はこまめな解結が行われていたのですね。立川~高尾間は3両編成の折り返しというのにもちょっと驚きました。

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