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2019年7月30日 (火)

セノハチの機関車運用 その2

セノハチの機関車運用については過去の記事で1988年3月と2014年3月時点のものをご紹介しましたが、その記事のコメントでクモイ103さんから鉄道ファン誌についての情報をいただきました。

早速購入(落札)しましたので(汗)、同じように1974年4月時点の運用表を作成してみました。細かすぎて見えないかもしれませんが。

197404r

・個々の機関車の連結順序(次とか次次とか)は考慮していません。テキトーです。
・言うまでもありませんが、補機はすべてEF59です。ものすごい数のEF59が行ったり来たりを繰り返しています。特に0時頃から11時頃までの間はカオスですね。山陽新幹線はまだ岡山までで、セノハチにとっては最も賑わった時期かもしれません。
・最初に客車列車(旅客列車及び荷物列車)に着目しましょう。運用表の赤線が客車列車です。
補機を連結するのはEF58牽引の列車だけで、EF65またはEF61牽引の客車列車には補機は連結されません。また補機はすべて単機です。
大半の列車は運転停車も含め瀬野駅に停車して補機を連結します。42列車(彗星5号)と48列車(彗星1号)のみは広島駅から補機を連結して瀬野駅は通過します。
開放はすべて八本松駅で走行中に行われます。西条駅まで行く運用はありません。
つまり客車列車の補機の代表的なパターンは単機、瀬野駅連結、八本松駅走行開放、ということになります。
・次に貨物列車ですが、こちらは(おそらく)すべての列車に、しかも重連の補機が連結されます。
連結・開放のパターンはほぼ2つに分けられ、広島駅または東広島駅で連結して八本松駅で走行開放するケースと、瀬野駅で連結して西条駅で停車開放するケースです。前者は100km/h列車で、それ以外の列車が後者です。
唯一の例外は17時頃の1992列車で、瀬野駅連結、八本松駅開放、しかも停車開放です。八本松駅で停車開放するのは客車列車を含めてもこの列車だけです。
このような形態ですので、貨物列車にとってはもはや「セノ」「ハチ」ではありませんね。
・次に単機回送列車ですが、多くの列車は八本松駅または西条駅で複数の機関車がまとめられて瀬野駅に戻ってきます。
目立つものの一つは単367列車で、西条駅で3850列車、2370列車、252列車からの重連補機をまとめて6両で瀬野駅に戻ります。
また単163列車は八本松駅で6202列車、荷42列車、46列車、8028列車、8216列車からの1両づつの補機をまとめて5両で瀬野駅に戻ります。次から次にやってくるEF59がどんどんつなげられていく様子は見ごたえがありそうですね。

ところでここで1976年4月の八本松駅の配線を思い出してみます。時期が少し違いますが、まあそれほど大きくは変わっていないと思います。

197604mr
・前面展望動画を見ますと上り場内信号機とほぼ同じ位置に入換信号機が、そして中線のホーム中ほどに車両停止標識が確認できますのでこれを追記してあります。
・これから考えると、走行中に開放された補機は入換信号機に従って中線に進入して車両停止標識の手前でいったん停止、そこから誘導されて中線の神戸方で待機するものと思われます。次にやってきた補機も同様に誘導されて先着機に連結されるのでしょう。これを繰り返して所定数が溜まったら中線の門司方に移動して出発、といった感じでしょうか。
・先の1992列車の場合は中線に停車して補機を開放、補機はそのまま折り返していくものと思われます。

鉄道ファン誌にはS40-10-1から補機の連結区間が西条駅まで延長されたと書かれています。ということはそれ以前はすべて八本松駅で補機開放を行っていたということになるわけで、この配線でどうやって捌いていたのかが気になります。特に上り本線の門司方の機待線の使い方とか。もっとも配線が変更されているかもしれませんが。

配線図はKASAさんよりご提供いただきました。

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コメント

EF59.。後押しより駆け下りてくる姿の方が印象に残ってます。セオハチを重連で駆け下りてくるその雄姿は子供心に恐怖心さえ感じるほどでした。勝手に「褐色の弾丸」などと呼び名をつけて、遠巻きに見てました。なんせあの大きさとあの色でしたから。三重連までは駆け下りてくる姿を見たことがあるます。今でも広島車両所に一両だけ現存しています。毎年、車両所の公開には、真っ先に会いに行き、その褐色の車体に触れて、「元気にしとったか?」って声を掛けます。時々、車両所内を移動しているらしいのですが・・・。

ホームなしの中線がある、シンプルな配線ですけど、機関車の入換で忙しい駅だったのでしょうね。
気になったのは、上下のそれぞれの貨物側線で上りの側線はよくある行き止まり型の仕訳線タイプですが、下りの側線は通過型というか、貫通型というようなタイプですが本線とは片側でしかつながっていなく、出口はあるけど入口がない着発線みたいですね。結果的に上りの側線と役割は変わらないような気はしますが、入口があれば、直接発着できそうなのに何故だろうと思わせる配線です。駅に隣接している側線ですが、珍しいタイプの側線ではないでしょうか?

f54560zg さん、運用図の労作お疲れ様です。
私はこの鉄道ファンで「セノハチ」の存在を知りましたが、実際に訪れた数年後にはEF59の全盛期を過ぎ、ニモレを押し上げて八本松で走行解放していたのはEF61 200番台でした。
ただEF59とEF61を連結した帰区回送が見られたのは、その時期ならではの風景だったと思います。

ASAMA189 さんが触れられた下り貨物側線のことですが、単純な行き止まりの櫛型配線でなく1本に収束しているのは、「国鉄八本松材修場」の専用線の名残りではないでしょうか?
先日KASAさんから「瀬野~八本松配線図及び信号機配置 その2」へのコメントで紹介頂いた「広島大学自由研究サークル なんでも総合研究所」のページに、詳細が記述されています。
 http://hunir.html.xdomain.jp/contents/festneta/2018_2_2.html

クモイ103さん、貴重な情報をありがとうございます。
何となく読めてきました。神戸方から対向の渡り線がないということは、この側線に入る貨車は基本的に下関方に向けて積車が出発し、下関方から、空車か材料を積んできた貨車が到着したのでしょう。それを踏まえると、上り到着の貨車は瀬野八の補機が直接、この下り側線で入換をしていた可能性が高いですね。
赤線は架線吊架範囲でしょうか?
であればその可能性は極めて高いと思います。

.走行中の補機解放のルート。
 解放箇所は場内手前であり、停止場所はほとんどが内方になります。
 規程上からも鎖錠からもそのまま中線への進入は不可能で、停止後に操車掛の誘導を受けて上り本線に進入し、列車の到着となります。
 あとは上り本線の瀬野方へ引き上げて中線へ入ります。連結もここで行っていました。
 引上線はそのまま東へ延びて材修場へ至っていました。D52が入線しているのを見た記憶が
あります。
 ルートは下り出発方面から入るしかなく、材修場なのでひんぱんな入換は無かったものと思われます。
 線路の赤は仰せのとおり架線を意味します。牽引機が入換をするので側線に全部ありますね。

下り貨物側線に神戸方から対向の渡り線がないのは、別段変わった事ではなく、一般的な貨物側線の配置でしょう。
上り貨物側線についても同じ事が言えますし。
下り貨物列車はおそらく中線に停車し、牽引機が下り本線を引上線として使い、側線との間で貨車を入換えていたのだろうと想像します。

ただし「下り引上線」の存在は気になりますね。
貨物側線の中で複雑な入換が行われていたのでしょうか?
また材修場の専用線は、後補機が電機になってからも数年間存在したのですよね。
まさか専用線は電化されていなかったでしょうね?

それと今さら思ったのですが、1976年の図にはまだ描かれている「火薬庫方」の専用線は“生きて”いたのでしょうか?
“?”ばかりで恐縮です…

皆様
>褐色の弾丸
新型電機に比べるとEF5は武骨な見た目でしたからね。
>下り貨物側線
神戸方で本線につながっていないのはそのような必要がなかったからなんでしょうね。ASAMA189さんのおっしゃるように上りの補機がそのまま入換していたらスッキリしますね。
>補機解放のルート
開放後の補機が上本到着→上本引上げ→中線移動は本当でしょうか?この時期列車の運転間隔が6分程度の場合もあり、とうていそのような作業を行っていたとは思えないのですが・・・。入信・車停の意味もなくなってしまいますし。
>クモイ103さんの“?”
どなたかご存知の方、ご教示くださいませ(汗)。

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