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2019年5月10日 (金)

長野原配線図

最初に長野原駅関連の歴史を停車場変遷大辞典とWikipediaから整理してみます。

・1945年1月 貨物駅として開業(渋川~長野原間42.4kmは駅間距離最長記録)
・1946年4月 旅客営業を開始
・1952年10月 長野原~太子間の専用線が本線(貨物線)に昇格
・1954年6月 長野原~太子間の旅客営業開始
・1966年10月 長野原~太子間の貨物営業廃止
・1967年6月 電化
・1970年11月 長野原~太子間休止
・1971年3月 長野原~大前間延長、吾妻線に改称。貨物営業廃止。
・1971年5月 長野原~太子間廃止
・1991年12月 長野原草津口に改称
・2011年6月 1番線行き止まり化
・2014年10月 八ッ場ダムに伴う線路切り替え

思いのほか歴史が詰まった駅です。

では最初に1967年4月。

196704_1
・電化直前の頃です。すでに電留線が整備されています。
・長野原~太子間ではまだ旅客営業が行われていたはずです。下りの出発信号機は描かれているのですが上りの場内信号機は描かれていませんね。

続いて1978年3月。

197803r_2
・1967年も1978年も略図では長野原駅の右側に単線の線路が伸びているという点では同じですが、太子支線が廃止されて大前方に延長がなされていますので実際には全く別の線路ですね。
・その後八ッ場ダムによる付け替えがなされていますので、駅の左側の線路も全く別のものになりました。何とも奇妙な駅です。

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以下、2019年6月26日追加です。
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1958年3月。

195803r_20190626194001
・のちに電留線となるところに転車台が描かれています。ピットらしきものも見受けられます。
・下りに対しては場内、出発の信号機が設けられていますが、上りに対しては場内信号機のみで出発信号機は設けられていません。

配線図はT.Mさん及びKASAさんよりご提供いただきました。

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コメント

長野原の貴重な配線図ありがとうございます。
おかげ様で長野原に転車台がなかったことを確認できました。
これに関連する疑問があって、ご存知の方がおられましたら、ご教示ください。

昭和35年ころ、80系電車の準急草津が渋川~長野原間だけ蒸機が牽引したことは有名ですが、機関車の次位にカプラー変換兼バッテリー車としてオハユニ71なる車がつながれています。
このオハユニ71が下りでは「長野原側:自連、渋川側:密着」ですが、上り時はこれを反転させなければならない筈です。しかしながら、転車台がない以上、毎回「連結器を前後で付け替えた」としか思えないのでずが、実際はどうだったのでしょう。

長野原に転車台は有ったようです。
戦時中の設置で、18m級 上路手動式が電化前の駐泊所に有り、位置は判らないのですが、通例では電留線が取って変わったのかもしれません。
航空写真で判別出来れば良いのですが。

ねこまるさん、E10さん
SLけん引の準急草津は知っていましたが、控車のことは気にもしていませんでした。
空中写真を見ても確認できなかったのですが、転車台はあったのですね。電化前にすでに撤去されたんでしょうね。
準急草津はSLも転向したのでしょうか。

E10様、ブログ主様ありがとうございます。
そうですか、転車台があれば何も問題ないですよね。
私も国土地理院のHP見てみましたが、モワっとしていてあるともないとも言えず・・・。でした。
蒸機について言えば、昭和36年の渋川支区配置はC11ばかりなので、まあ「ドッチでもいい」感じ。ただ、準急草津はC58だったらしいので、できれば転向した方がラクチンですよね。
おかげ様でさっぱりしました。ありがとうございました。

長野原線が吾妻線になる過程での長野原〜太子の休止ですが、大前への路線が開通する時には分岐器を設けていたのか?それとも廃止前提なので分岐器など使わずに太子への路線は切り離されていたのか?どちらなんでしょうか

長野原の転車台、昭和33年3月の線路図に記載があります。
当時は「上1」が「機廻」で、渋川方が分岐し、更に2線に分岐し機関車留置線(2線ともアッシュピットあり)になり、その2線が収束し転車台(18m)になっていました。
「電留1,2」は、それを電車留置用に改良したものと思われます。

吾妻線の貨物輸送廃止(小野上から羽根尾間)は昭和57年3月31日です。因みに上信電鉄下仁田駅から発送される中和用石灰の定型定量輸送が主体でした。
それ以外にも酒田港や小国までの定量輸送も存在した。特殊事情による
蛇足ですが葛生から大分県の豊後森までの酸性水中和の消石灰定型輸送も存在していたこれも特殊事情による

大前と太子の分岐、興味深いですね。どっちだったんでしょう。

2325レさん、情報ありがとうございます。

貨物輸送は意外なところとつながっていたんですね4。

2325ㇾ様、過日のE10様の情報を、更に補強される詳細な情報のご提供、ありがとうございました。
場違いを承知でお尋ねしてしまいましたが、皆様ご親切にご対応くださり、感謝申し上げます。

2325ㇾ様、E10様のご説明で疑問は氷解しておりましたが、今回でダメ押のし理解ができました。
更には貨物ホームまで。素晴らしいです。
KASA様、そしてブログ主様にも感謝申しあげます。

で、「調子にノルナ」と叱られそうですが・・・。
渋川って転車台あったんでしょうか。
すみません。ずうずうしくて。

ねこまるさん
1958年の渋川駅がありますので近々ご紹介します。さて転車台は・・・・?

うわっ!それは期待しちゃいます。

ナルホドナルホド。転車台なくて残念でしたが、おかげ様で長年の疑問が氷解しました。

配線図のキ1キ2は機関支区ではないでしょうか。渋川支区は機関車基地としてはあまりに地味なため、情報が極めて少なく推測するしかありませんが、
①高崎からの距離もないことから、上越線用としては僅か2~3年だった終端駅時代も含めて、機関車基地の必要性は殆ど考えられず、長野原線の為の基地だったと思われます。
②配置機関車がC11だけ(昭和32年、36年の配置表)であることも、長野原線用基地に思えます。

長野原線は戦争さなかに、微かな鉄鋼石を求めてドタバタ建設された経緯から、関連設備にも投資は限られていたと思われ、分岐駅の渋川にも転車台は不要、とされたのではないでしょうか。
例の準急草津などもC58運用だったようですが、控車とともに高崎→渋川の回送、長野原で転向、渋川→高崎の回送とすれば、それほどムダ脚にも思えません。

今回、再三のワガママを聞いてくださったブログ主様とKASA様、本当にありがとうございました。

ねこまるさん
>キ1キ2
おっしゃる通りと思います。ですのでこの辺りに転車台が・・・と期待したのですが、ちょっとアテが外れました(汗)。
ただ長野原には転車台があるのが少し引っかかります。

f54560zgさん、ねこまるさん、みなさん、こんばんは。

>ねこまるさん、

私の手許にある配線図が少しでもお役に立ったのであれば光栄に思います。

渋川機関支区に関するご教示ありがとうございます。

>f54560zgさん、

配線図の方、掲載していただきましてありがとうございます。

長野原の転車台は、「準急草津」の場合、牽引機のC58と電源車の客車(控車)が方向転換したそうです。

一方、C11は、長野原線で「ドンネル内で運転台が煙にまかれないため」に、下り列車は逆向きで牽引したそうです。そして、上りは、前向きで長野原からおりてきたようです。

これらのことは、国鉄末期に高崎鉄道管理局が企画編集した「轣轆114 高鉄運転史」(最初の2文字は「れきろく」と読むようです。)という本に書かれていました。私の掲示板で3RT生さんからご教示いただいた書籍です。

同書には、渋川支区の構内図も掲載されていました。昭和29年当時の図面ですが、やはり、転車台はありません。

ねこまるさんのコメントから皆さんの情報に、今回も今まで視点の向かなかった場所の考察へと大変勉強になりました。
渋川の項目へコメントするべきかもですが、敢えてこちらに。
渋川の転車台はトンネルの要因絡みとは、なるほどなるほどなのですが、渋川機関支区の位置が、どうやら本屋側のようですので、敷地の制約か地下水脈などの地盤の関係なのかとも思いました。
また、長野原の転車台は開業時からのもので、もし高崎操車場までの貨物列車ならテンダー車が有利だからでしょうか。
さらにそこから小国行きなら長野原線を9600型牽引だったのかとか、ロマンと妄想が膨らむところです。
余談ですが、機関区規模で転車台未設置なのは、以前の疑問だった、真岡機関支区に、こちらの渋川機関支区と瀬野機関区の三ヶ所くらいでしょうか。
ただやはり、ラッセル車とかの要因があったにせよ、好摩駅や豊野駅、余目駅などにも転車台が有ったのに、なんでだろ感は残ってしまいますが、長野原線は豊野駅を目指していたらしく、もしも全通していたら、渋川機関支区にも転車台は必要だったかも知れませんね。

私の素朴すぎる疑問が皆様の興味をいただけて、光栄です。
豊野延伸については、正直、沿線の需要も期待できず「第2の小海線」になった可能性が高いように思えます。
その場合、中込や飯山的に「長野原機関区」ができたのではないでしょうか。
ちなみに、吾妻線は架線氷結は珍しくありませんが、積雪障害は稀です。ラッセル車は長野原~豊野間が中心だったでしょう。

鉄道興味としては、ワクワクしてしまう路線ですね。

皆様
長野原に転車台があるのに渋川にはないのは高崎操までの直通を前提としていたということでしょうか。しかしながら実際にはC11による線内折り返しが主体で、結局長野原の転車台も活躍する機会はそう多くはなかったのかもしれませんね。

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