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2019年3月 9日 (土)

下関配線図

以前SYさんからご提供いただいた下関駅の図面です。
年代がわからないのですが、まだ関門トンネルが開通する前のかなり古い時期のものです。

R

ちょっとわかりづらいので拡大図を。

1r
・3本の頭端ホーム、貨物着発線、扇形庫・転車台を含む機関区設備、客車区と転車台(展望車用?)、さらには航送設備が確認できます。貨車はここから船に積まれて九州へ渡っていたのでしょうか。
・左側には西部臨港(竹崎貨)という貨物扱所があります。2r
・右側へ進むと小さな橋を渡って下関港駅に至ります。
・旅客は本屋の下の地下道を通って桟橋へ向かっていたのでしょうか。

その後関門トンネルの開通に伴い駅は移転し、下関港駅は下関駅に統合されました。

恒例となったような気がしますが(汗)、空中写真と見比べてみましょう。

●1947年
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1187234&isDetail=true
・関門トンネルが開通してまだ5年しか経っていませんのでまだ旧駅が現役だったころの姿をよくとどめているように思います。とりあえず旧駅部分を細江エリア、旧下関港駅部分を唐戸エリアと呼ぶことにします。
・もともとの本線とは切り離されてしまいましたので、代わって新駅東側の地平の線路で接続するようになっています。
・機関区にはまだ扇形庫らしきものが確認できます。航送設備もそれらしい感じです。
・客車区あたりはだいぶ変わってしまったようですね。
・唐戸エリアへの橋梁あたりも上の図面とよく一致しています。
・西部臨港もまだ現役のようで、新駅西側の地平の線路でつながっているように見えます。

●1959年
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=724494&isDetail=true
・唐戸エリアへの通路の橋梁部はほとんど埋め立てられてしまいました。
・西部臨港は廃止されてしまった?

●1961年
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=29&isDetail=true
・そう大きくは変わっていないようです。
・扇形庫はまだ残っているように見えます。

●1969年
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=367555&isDetail=true
・どんどん埋め立てが進んでいます。
・27年が経過していますが、未だに扇形庫が残っているような・・・。

●1975年
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1055953&isDetail=true
・一気に埋め立てが進み、下関駅へのルートが少し変りました。
・驚いたことにKASAさんの配線図では細江エリアに電留線が設けられています。確かに架線が張られて電車が止まっているように見えますね。本所に収容しきれなくなったのでしょうか。
・旧西部臨港への線路が復活したように見えるのは気のせい?
・扇形庫は更地になっているように見えますが、痕跡がうかがい知れます。

●1981年
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=600134&isDetail=true
・更地状態だった埋立地に建物がいっぱい建ちました。

●1989年
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=250864&isDetail=true
・細江エリアの線路はきれいになくなってしまいました。埋立地に建物が建ったのと引き換えにこんどはこちらが更地になっています。

ところで、下関駅の線路配線を考えると下関駅で貨物の積卸を行う貨車は下関駅を始発もしくは終着とする貨物列車で運ばざる得ず、実際ほとんどの貨物列車はそうなっています。しかしながら貨物時刻表をよくよく見てみますと、下関駅で連結・開放が行われる貨物列車が確認できるんです。

・1980年10月 791列車 幡生発門司行き
・1982年11月 791列車 幡生発門司行き
・1985年3月 3491列車 東広島発門司行き

これらはいったい何なんでしょう。単なる誤植でしょうか。

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コメント

関門トンネル開通前の山陽鐡道以来の東向き駅然も頭端駅であった海峡を挟んだ門司港駅も頭端駅でしたね 航送貨車は引き上げ線から推進で航送船に送り込む状態の配線ですな他には関釜連絡貨物用埠頭の位置関係客車ヤードの端に客車用ターンテーブルの存在は国際列車格の特急富士号展望車等の方向転換に常時使用されていたのですね
対九州向け連絡設備と対大陸向け連絡設備が整っていた時代の貴重な配線図ですね

仕事の関係で山口県へ移住して
鉄道車両の製作に携わっております。

山口県の駅は昭和の面影が残っていたりもして
なかなか風情があって面白いです。

旧下関駅の場所も行きましたが
航送場跡にレリーフがあったりヤードの照明も保存されていたりと
門司港駅には航送場の名残も僅かに見られます

791レと3491レは関釜フェリーに絡む貨物でしょうか?
それとも鮮魚列車が関係してるのでしょうか?

興味深いですよね

これは正に見たかった資料です。
f54560zg さん、そして資料提供者のSYさん、ありがとうございます。

図の年代ですが、まず下関港駅の存在から、明治34年の開通当初ではありませんね。

また図には関門丸接岸用の可動橋がはっきり描かれています(注記の位置はおかしいですが…)。
「鉄道連絡船100年の航跡」(古川達郎)によると、下関-小森江間を結ぶ貨物専用の関森航路では明治44年10月1日からレールを設けたはしけに貨車を乗せて小蒸気船で曳航する日本初の貨車航送が行われていましたが、輸送量の増大に対応して自航式の関門丸型車両渡船が建造され、専用の可動橋が大正8年8月から運用開始されました。
そこでこの図は少なくとも大正8年以降のものと推測されます。

客車区内に転車台があったのは、おっしゃる通り特急列車の折り返しのためですね。
当時の特急列車の客車には、食堂車や寝台車、それに一方向座席だった「櫻」の三等車など非対称の車内構造を持ったものがあり、展望車と同様に1両ずつ転車台にかけて編成を転向していたと思われます。
後に「富士」と命名される新橋-下関間特別急行1・2列車が誕生したのは明治45年6月15日のことでしたから、少なくともその時点では転車台は設置されていたことでしょう。

ちなみに「日本国有鉄道百年史」第8巻のP.372に「下関の関釜連絡桟橋(『海峡大観』所蔵)」と題した写真が掲載されています。
配線図に描かれた「関釜連絡倉庫」とその前に接岸した連絡船(高麗丸または新羅丸と思われる)、そして岸壁に山と積まれた貨物と共に、配線図にあるシーサスクロッシング(おそらく左側のもの)が写っています。

もう一つ本題から外れますが、関門丸用可動橋と関釜連絡船用岸壁の位置関係から、関森航路と関釜航路は港内でクロスしていたことになります。
関釜連絡船の便数はせいぜい1日数往復でしたが、関森航路は1日数十往復の高頻度でピストン輸送をしており、“交差支障”もあったのではないかと勝手に想像しています。

皆様
下関駅が本州の西の端の終端であった風格と。航路との連絡の賑わいが感じられますね。

>仕事の関係で山口県
Hさんですね。

関門トンネル開通前の下関駅の配線図をありがとうございます。たいへん見たいと思っていた図面でした。

f54560zg さんとSYさんに感謝申し上げます。

信号機も記されていて詳細な図ですね。1951年の東京駅の配線図でもみられた、腕木式信号機のシンボルを黒く塗りつぶした腕木式の入換信号機もみられますね。 

>下関駅で連結・開放が行われる貨物列車が確
>認できるんです。

下関駅でどのような入換が行われていたのか気になります。

長年に渡り謎めいていた旧下関駅と車両基地でした。
10年ほど前に本屋で立ち読みした山陽鉄道物語と言う本の記憶から、その1の頃で先走ってしまったのですが、山陽鉄道物語で検索してみると、彦島のけしき2 さんのサイト内に、ラッキーなことに(やはり、f54560zgさんは時の運を持ってらっしゃるようで)最近アップされた山陽鉄道物語のカテゴリーに、01/18下関停車構内図(大正6年)があり、開通当初より基本的な部分は変化のない図面と推察され、工場部分の幡生移転は昭和6年らしく、おそらく同時期に扇形庫や2基の転車台も本項の位置に移転したものと考えられるのではないでしょうか。
KASAさんの幡生のコメントも合わせ、SYさんの配線図は昭和8年頃なのでしょうか。
その説で考えますと、開業以来30年以上少しずつ設備を増強しながら使用してきたものの、やはり皆さんがおっしゃるように大陸や九州との連絡容量増強で移転を強いられたのかも知れません。
しかし、移転後10年ほどで再移転ですので、時代が要求していたのでしょうか。
配線図に目を移しますと、頭端部のピットは灰落としでしょうか、目を引きます。
そして、大正6年図よりも連絡船設備の増強が目立ちます。
また、空中写真では、f54560zgさんがおっしゃるように扇形車庫の6番線辺りから11番線まで改築されて長年に渡り存在していたように見えます。

現時点では、彦島のけしき2 さんのサイト内には他にも初期の広島機関区や軍用線の様子に柳井機関区の遠景、さらに明治期の姫路機関区などの写真もありオススメです。

下関機関区の扇形車庫は三代に渡り設置されていて、それなりに特徴的で、初代は180度に拡がる規模なのに転車台との距離が短く13番線程しかなく、記事内の2代目は、敷地の制約からか規模が小さすぎる感はあるのですが、貨物用は幡生駐泊へ転じたため旅客用と入換用には間に合っていたのかも知れません。3代目は20線級の立派な扇形車庫で、下関機関区の面目躍如と言うところでしょうか。
転車台は幡生も含めると、それぞれ2基の転車台を擁していたのも興味深いです。
ただ、記事内の配線図を昭和8年説で唱えると危険性を感じるところがあり、開業当初の脆弱な転車台がそのまま昭和初期までだったとは考え難く、18900型あたりの型式出現時迄には転車台の改築がなされたと考えるのが自然なのですが、明治30年代ともなると、先進的な山陽鉄道のこと、先を見越して18㍍級の転車台を導入していたのでしょうか興味が注がれるところがあり、確たる検証が必要です。

末尾になりましたが、yyoshikawaさんがおっしゃられるように、鉄道ファンならば山陽鉄道は山陽鐡道と書かないとです。
鉄道少年の頃から憧れの下関配線図。
今回も f54560zgさん、SYさん、KASAさん、そして考察の機会をいただいたコメンテーターの皆さんに感謝申し上げます。

E10
扇形庫が長い間その姿をとどめていたらしきこと、本当にオドロキですね。

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