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2019年1月26日 (土)

広島駅周辺の車両基地等の変遷

いつも貴重な資料を公開していただいているKASAさんのサイトで広島地区の配線図が紹介されています。

恥ずかしながら行ったことのない広島地区は私にとっては未知の世界でした。

配線図を拝見して具体的なイメージを思い浮かべることができるようになり、同時にこのあたりの車両基地等の変遷に興味が湧いてきました。
そこで関係がありそうな手元の資料等をかき集め、整理してみることにしました。
不明な点も多く、詳しい方がいらっしゃいましたらぜひお教えいただきたいと思います。

主な出来事を年代順に整理し(●部)、同時期の空中写真やKASAさんの配線図からこれらの出来事を検証する(▲部)というパターンで記載しています。
但し矢賀派出と広島工場、横川電車区(可部線管理所)、呉支所は省略しました(汗)。

参考資料は以下の通りです。
・KASAさんのサイト 「国鉄 東広島駅 広島駅」 ほか
・国土交通省空中写真
・停車場変遷大事典
・鉄道ピクトリアル1962年11月号「広島運転所のプロフィル」
・鉄道ピクトリアル1968年6月号「運転所を訪ねて 広島運転所」
・鉄道ジャーナル1970年11月号「呉線電化前夜」
・鉄道ピクトリアル1972年5月号「ローカル国電だより 可部線」
・鉄道ピクトリアル車両配置表
・鉄道による貨物輸送の変遷
・Wikipedia

変遷と言ってもさかのぼるとキリがありませんので、とりあえず1944年4月をスタートとしました。

●1944年4月。
・この時広島機関区が第一機関区と第二機関区に分割されました。第一が貨物、第二が旅客という役割分担のようです。広島までは電化はたどり着いていませんので、当然第一も第二も蒸機のみだと思われます。
・そのほか広島駅周辺には広島客車区(この当時は検車区、1951年4月に客車区に改組)、広島貨車区、さらには広島駅に所属すると思われる貨車操車場と貨物扱所があったようです。

▲国土交通省の空中写真1947年10月を見てみます。
・操車場付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1186887&isDetail=true
・広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1186886&isDetail=true

略図で表現するとこんな感じです。

194710r

・G地点の転車台及び扇形庫付近が広島第一機関区、C地点の転車台及び矩形庫付近が広島第二機関区と思われます。1939年の空中写真を見てもC地点にはすでに転車台等が確認できますので、第二機関区の施設は分割を機に新設されたものではなさそうですね。「分離・独立」ということでしょうか。
・D地点は貨車操車場です。
・E地点に貨物扱所、F地点には広島貨車区と思われる施設があります。
・B地点には建設途上の客留線らしきものがあり、すでに使用されているようです。
・駅の裏のI地点は広島客車区と思われます。
・J地点は謎の施設です。以前にもご紹介しましたがこのあたりには1946年5月の空中写真ではデルタ線も確認でき、何の施設だったのかがナゾです。

●1962年5月
・翌6月の広島電化を控え、これに備えた車両基地の整備が進められたようです。
・広島第二機関区と広島客車区が統合されて広島運転所が発足し、旧広島第二機関区付近が広島運転所本所(旅客用SLとELを配置)、旧客車区は広島運転所本駅派出(PCを配置)、建設中だった広島客車区客留線は拡張の上広島運転所客留派出(DCとPCを配置)となりました。
・広島第一機関区は広島機関区に名前が変わりました。戻ったというべきでしょうか。

●1962年10月
・広島~横川間の電化が完成し、可部線管理所(旧横川電車区)のECが広島まで乗り入れ可能になりました。
・広島工場付近に広島運転所矢賀派出を新設し、広島運転所のEL、可部線ECの交検業務を開始。すなわち可部線管理所のECは広島運転所に移管されたようです。
但しその後の80系ECやEF58の配置増に伴いEL交検庫を本所に新設・移管、さらに1966年11月には矢賀派出のEC交検庫横にDC交検庫を増設し、DCの検修業務を開始しました。

▲国土交通省の空中写真1962年8月を見てみます。
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=339763&isDetail=true

略図で表すと

19628r

・B地点が広島運転所客操派出ですね。だいぶ体裁が整ったように見えます。配置こそないものの電車を収容する設備も設けられたのだと思います。
・C地点は広島運転所の本所です。旧第二機関区です。
・G地点は旧第一機関区の広島機関区。
・I地点は旧客車区の広島運転所本駅派出。
・J地点のナゾの施設は姿を消しました。

●1964年7月
・横川~小郡間が電化され、山陽線全線の電化が完成しました。

▲国土交通省の空中写真1966年10月ではhttps://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=356644&isDetail=true

略図で表すと

196610r

・A地点にELの仕業庫らしき小型の建屋が出現しています。
・B地点の広島運転所客操派出はさらに整備が進み、ほぼ現状に近い形態になりました。
・貨車区はデルタ線の外側のH地点に移転したようで、もとのF地点は空き地になっています。

●1967年4月
・広島運転所旧客操派出付近に新庁舎が完成し、本所がこちらに移転しました。
・広島運転所配置のSL、ELは広島機関区に移管されました。
・旧広島運転所本所(←旧第二機関区)及び広島機関区がどうなったのかがよくわからないのですが、後の状況を考えると、この頃に機関区はA地点に移転、旧本所は機関区の東蟹屋派出になったのではないかと思うのですが。

●1969年3月
・貨物扱所(多分貨車操車場も)が広島駅から分離独立して東広島駅となりました。

▲国土交通省の空中写真1969年5月ではhttps://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=358567&isDetail=true

略図で表すと

19695r

・B地点が広島運転所本所になったわけですね。
・G地点の広島機関区の転車台及び扇形庫は消滅し、旧貨車区のF地点も含めて跡地は東広島駅の貨物扱所の拡張に充てられています。
・前述の通り広島機関区はA地点に移転したのではないかと思うのですが、その割にA地点には仕業庫らしきものしか見当たらないのが?です。この頃にはEL検修庫は矢賀派出から移転してきているハズなので。

●1972年4月
・宇品線が廃止されました。但し東広島~宇品(貨物取扱所)間は存続。

▲国土交通省の空中写真1972年8月ではhttps://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1665452&isDetail=true

略図で表すと

19728r

・I地点の広島運転所本駅派出はかなり縮小され、新幹線工事が始まっています。

▲国土交通省の空中写真1975年1月では
・東広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=866326&isDetail=true
・広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=866325&isDetail=true

略図で表すと

19751r

・I地点の広島運転所本駅派出は完全に消滅し、新幹線ホームになっています。

▲KASAさんの1982年の配線図では
・A地点付近に「広島機関区」の文字があります。
・C地点の線路が記載されていないのですが、おそらく省略されているものと思われます。

●1984年2月
・東広島駅の操車場機能が停止されてしまいました。

▲KASAさんの1984年12月の配線図にはまだC地点の機関区設備が記載されています。使用されていたかどうかはわかりませんが。

●1985年3月
・広島工場が広島車両所に改組されました。

●1985年度
・車両配置表には広島貨車区が記載されておらず、廃止された模様です。

▲国土交通省の空中写真1986年5月ではhttps://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=301320&isDetail=true

略図で表すと

19865r

・H地点の貨車区には貨車の姿が見られないもののまだ線路が残っているようです。
・操車場部分の線路もそのままです。止まっているのは廃車群でしょうか。

●1986年10月
・東広島~宇品(貨物取扱所)間が廃止されました。

▲国土交通省の空中写真1988年10月では
・東広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=873291&isDetail=true
・広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=882961&isDetail=true

略図で表すと

198810r

・まだH地点の線路は残っているように見えます。

●1995年12月
・貨物扱所が旧操車場部に移転して架線下荷役方式になり、名前も広島貨物ターミナルに変わりました。

●1996年3月
・広島機関区の配置車両が広島車両所に移管され、乗務員区化されました。

▲KASAさんの1997年4月の配線図を拝見しますと
・A地点の配線が変更されていますね。機能が強化されたのでしょうか。
・操車場部に移転した着発線荷役設備がよくわかります。

略図で表すと

19974r

・貨物扱所だったE~G地点の線路は配線図からは消え去っています。

●2004年3月
・天神川駅が開業しました。

▲国土交通省の空中写真2008年5月では
・広島貨タ付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=783483&isDetail=true
・広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=783481&isDetail=true

略図で表すと

20085r

・E~G地点は、H地点の用地も含めて見事に野球場に姿を変えています。
・A地点の仕業庫が移転しています。配線変更と同時に行われた改良ではないかと思います。
・C地点の旧第二機関区は線路は残っているようですが車両は見当たりません。

●2012年4月
広島運転所の車両は下関総合車両所に移管されました。

▲国土交通省の空中写真2018年7月では
・広島貨タ付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1784543&isDetail=true
・広島駅付近
https://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=1784615&isDetail=true

略図で表すと

20187r

・C地点の転車台がとうとう姿を消してしまいました。検修庫らしきものは残っているのですが、実態としては長い間使われていないのではないでしょうか。

結局この時点では
・A地点に広島機関区
・B地点に広島運転所
・D地点に広島貨物ターミナル
という配置になっているのですが、機関区、運転所とも車両の配置はなく、また矢賀派出も廃止されてしまったようです。時代の流れを感じさせられます。

以上、不明な点が多いのですが、特に広島第一機関区と広島第二機関区の歴史がよくわかりませんでした。このあたりにお詳しい方、よろしくお願いいたします(汗)。

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コメント

 なつかしい広島がテーマになりました。ありがとうございます。
 しかし本文が大変なボリュームで、どこに口を挟んでよいのか、図りかねています。
 しかし資料を整理しての展開は素晴らしく、管理人さんは本当に名探偵です。

またもやのサプライズ記事、ありがとうございます。
きっかけとなった KASAさんにも感謝です。
第一、第二機関区に関して、名古屋の頃でのコメントを考えていたのですが、品川の頃、クモイ103さんのおっしゃるような一次情報や資料に巡り会うこともなく躊躇しておりました。
趣味誌でも、「特集 第一機関区 第二機関区」とかの記事なりが存在していても不思議ではないと思うのですが。

今、思い付くのは、岩見沢、福島、長岡、高崎、名古屋、稲沢、富山、敦賀、吹田、姫路、そして、この広島なのですけど、高崎は不明ですが、他区との違いは、姫路と広島は動力近代化ではなく第二機関区を名乗っているようで、第二機関区発祥地とでも言えるのでしょうか。
姫路は第一と第二の位置関係で貨物と旅客に別れていたのは納得ですが、広島は第一にC59型も居て、単なる配置の妙なのか、首を傾げたくなるところです。
また、青森から門司まで、動力近代化で第二機関区を名乗れそうな車両基地は多数有ったのに、これも不思議です。

いずれにしても、皆さんのコメントや追加記事に期待しております。

f54560zgさん、こんばんは。
わかりやすい解説と図面にいつも感動です。
文献的裏付けがないのですが、1937年に国有化された芸備鉄道の起点、東広島駅がC地点の辺りにありましたので、車両基地も隣接していたと思います。当時はタンク機だったので転車台がいつからあったのかはわかりませんが、それらの施設が広島第二機関区に引き継がれたのかもしれません。
似た例に岡山気動車区があり、こちらは中国鉄道(1944年国有化)が前身です。レンガ造りの矩形庫は国鉄末期まで残っていました。

f54560zgさん、こんばんは。興味深く詳細な記事をありがとうございます。

私がHPに載せた配線図がきっかけになったということで光栄であり、また、配線図をただ並べただけの拙HPを恥ずかしく思うところです。

広島第一機関区と第二機関区の歴史、関係について私が知る限りにおいて一番詳しく語られているのは、やはり椎橋俊之さんの「SL甲組」の肖像ではないでしょうか。

単行本第4巻の「広島第二機関区」がそれですが、41ページの「取材メモ」には、「膨大な列車を捌くに不都合な操車場と駅の配線が第二機関区創設の発端だった」とあります。

客操と機関区が山陽線の上下本線を挟んであり、操車上、列車密度の高い本線の横断が頻発するところが問題だったようです。

ただ、「広二」の開設は客貨の分離が目的ではあったが、「広一」との厳密な区別はなかったともあるので、ここらへんは他の地区とはやや違うところなのでしょうか。

何しろ行ったことがない広島地区のことですので、
いい加減な推測ばかりで申し訳ありません。いろいろ教えてくださいませ(汗)。

C6217さん
おそらくいろいろご存知なのでは? 情報お待ちしています。

E10さん
第一と第二はナゾが多いですね。

3RT生さん
なるほど、そのような気がしてきますね。

KASAさん
おっしゃる通り機関区と客操の間に本線が挟まる位置関係ですね。

第一の扇形庫や転車台はいつ頃なくなったのでしょう。また第二の施設は多分使用されていないと思うのですが、いつまで使われていたのでしょう。

 重箱の隅を(1)
 戦時中の山陽本線の疲弊は、戦災によって失われた瀬戸内海の海運からの輸送移転が原因です。主な荷は石炭で、無蓋貨車に山積みされた石炭列車が大増発されたそうです。
 そのために広島と姫路では第二機関区が設置されました。E10さまの疑問のとおり、第二機関区は電化などで動力形式の異なる場合が多かったのですが、広島・姫路では事情が違います。

●1944年4月
 広島第二機関区の設置は上記のように業務量増大に応ずるもので、分離・独立とはニュアンスが違うようで、容量をオーバーした分を第二区に移したものと想像されます。
 従って第一区に残ったのは貨物の全部と旅客の一部です。増設は最低限に納めたいのが見え見えですね。
 ただ第二区の位置は3RTさまの説のとおり芸備鉄道の基地があったので、どのくらい再用されたのか不明です。 国鉄化のとき、芸備線のカマを本線横断して広島機関区へ取り込んだのか、C地点の社設備をそのまま使用したのか、確認できません。f54560zgさま、もっと古い写真があるでしょうか。
 第一機関区は扇形庫が転車台の周囲をズラリと取り囲んでい、後に北側部分が撤去されています。また第一区はごらんのとおり構内が狭く、よくやり繰りしていたものと感心します。
 また機関区の一般的な流れである、入区→灰落し→給水→給砂→転車台→留置・出区待ち、という順序で作業できないことも判ります。
 第二区の給炭槽がコンクリート製なのは戦時中の鉄材不足のためで、この時期の給炭槽は他にも見られます。下関もそうです。
 操車場は本線を中央に、仕訳などの線群を両側に配置したタイプです。旅客本線は写真の直前時期に複々線化のため別線が建設され、操車場の北に沿って複線が走っています。それ以前は操車場の中央を貫いていたのでしょうか?
 当時は軍事輸送が第一で、下り貨物は操車場の入口で分岐して宇品貨物線へ直通できるルートがありました。
 J地点の怪しげな設備も軍用施設です。ここは鉄道用地ではなく陸軍の土地だったと聞いています(未確認ですが)。 
 ここも本線からの直通が求められ、上りは出発信号機を設置して発車できますが、下りは場内から誘導したのでしょうか。出発信号機を見た証人は複数いますので間違いないでしょう。



 重箱の隅を(2)
●1962年5月
 組織改正による名称変更のみと思われます。ただし次項の内容はほとと完成していた筈です。

 電機・電車の交検以上の作業は矢野駅に隣接する広島工場の設備を転用することになりました。そのために工場内のこの部分は工場ではなく広島運転所の所属となりました。工場が交検を担当したわけではありません。
 可部線を担当する横川電車区もこのとき統合されています。

●1962年10月
 本年6月10日のダイヤ改正で電化が広島まで延びました。ただし電気運転になったのは151系「つばめ」、153系「みやじま」、ローカル客車が数往復にすぎません。
 旅客列車はEF58の予定でしたが瀬野~八本松で補機D52と協調運転が不可能と判定されてEF61が投入されました。.補機もEF58にすれば解決ですがそんな無駄は出来ません。
この問題は1963年にEF59が投入されて解決しました。EF59は瀬野機関区へ配置。
 C地点では蒸気仕業庫に直列にくっつくように電機仕業庫が建設されました。ただしレールは切れていて、両用時代は蒸気は西から、電気は東からの入出りという手のかかる入換がつづきました。全線電化後に蒸機庫は撤去されました
 広島までの貨物電化は1964年のため、この時点では貨物電機については何の準備も見られません。

▲1969年5月
 本文説明のとおり、広島機関区はG地点を貨物駅に譲り渡し、A地点へ移りました。ただし仕業庫と乗務員のみで、交検以上は別です。別の場所が工場内なのか、C地点の交検庫を共用したのか不明です。本文の疑問に答えられずに申し訳ありません。
 当然ながら、電機設備は1964年10月(東海道新幹線の開通)の広島貨物電化までに完成し、蒸機設備は1965年の広島以西の貨物電化後に廃止されています。
  
●●蛇足
 広島地区改良の仕上げとして上り旅客本線の移設が構想されていました。
 広島を出た後に、C地点から北側に沿って上り本線を新設し、高架となって芸備線と工場線をオーバークロスし、本所の客留線に沿って東へ至り、広島機関区東端付近で現在線に合流します。
 用地の西半分は新幹線に占拠されて不明ですが、東半分は水路に沿う用地境と運転所庁舎の北側から機関区庁舎の北側につづく微妙な空き地を観察することが出来ます。

 このページを補足すべきなのに勝手な自論をブッてしまいました。ごめんなさい。

 重箱の隅を(3)

●1995年12月
 着発線荷役となる配線変更のとき、機関区の仕業庫が移転しました。僅少の移動ですが配線と用地上からやむを得ない理由があったのでしょう。車庫も大きくなった?
 C地点の旧第二区では転車台撤去のほか、仕業庫のみレールが残り、東側の検修庫部分はレールがありません。
 広島地区の車両が下関に移管とありますが、組織上で広島運転所が下関の分家となったのみで、現場では何も変わりありません。

●● f54560zgさま、|複雑な経過をたどった広島地区を取り上げて下さってありがとうございました。

 重箱の隅を(4)

 本題を外れますが、KASAさまの配線図資料を見ての疑問です。
 矢賀電留線について、3枚とも1~14番線が描かれています。私の記憶では1~7番が在来線の電留、残り7本は新幹線の電留でした。
 ここの基地は新幹線と在来線が同時に建設されたため用地の融通が可能です。
 以降、新幹線分(図の8~14)が在来線に転用されたことはなく、この3枚野図は現実と合いません。事実とすれば新幹線の電留線は0となります。あり得ません。
 空中写真によると、2008年には在来線の7本(1~7)が撤去されて更地となっています。2018年にはその跡が新幹線の電留になっています。つまり在来線の電留はなくなりました。
 そのため元の交検庫へのルートもなくなりました。ここは今JR貨物の車両所ですから広島運転所の交検はどこで? まさか下関まで回送?
 勝手な疑問のみ列記してすみません。

 重箱の隅を(5)
 先の(4)は私の誤認があり、電留についてすべて取り消します。お恥ずかしいかぎり。
 電留線では在来線と新幹線のスペースが異なります。用地が転用されたとき換算にミスがあって、KASAさまの線路図に疑問はありません。こういう公式のものへの不信感を少し自制します。

 この14本の電留が無くなり、新幹線に転用されていることは事実です。

C6217さんの解説のなかで、広島駅北側の三角線辺りが軍の設備だったのは宇品線や宇品港の存在から、やはりそうだったのかと感じたのですが、機関区好きにとって最も興味深かったのはコンクリート製の給炭槽の部分です。
そんな事情があったのかと、なるほどなるほどです。
広島機関区でネット検索したら、「もけい工房ぽっぽ」さんのサイトに広島第二機関区の給炭槽の画像がありました。(広島機関区の機関車たち 昭和36年10月)
ただ、サイト内にEF55型の画像もあり、もしご存知なら C6217さんにお尋ねなのですが、当時 EF55型2号機が広島地区に来ていたのでしょうか?

広島第一機関区の扇形庫なのですが、直江津転車台の項でもコメントしていた、転車台1基に対して2棟の扇形庫を有していたのが特徴的で、番線数では小樽築港機関区の30番線に匹敵する規模ですね。
(直江津コメントの補足になりますが、SLブーム時に多く写された木曽福島機関区も2棟庫ですが、これは中間の3線分を解体したようです)
盛岡機関区を訪問した時、ある時期に盛岡機関区は全国の機関区で、○○機関区、○○機関区(○○は失念)に次いで三番目の規模だった時があったと案内の助役さんからお聞きました。
機関区の規模的に稲沢機関区、吹田機関区や岡山機関区、門司機関区も凄かったようですが、第一第二機関区の概念を外しても姫路機関区をも凌駕するのは、ここ広島機関区だけだと機関区ファンの誰もが感じるところなのでしょう。
私の中でも、悔しいかな日本一の機関区は、この広島機関区だったと認めざるを得ないところで、決定打となるのは、やはり蒸気機関車の最高傑作である C59型の配置があまりにも際立っていたからでしょう。

 E10さま。広島にEF55がいたとの件、電化を控えていた広島としては電気機関車の基礎訓練のために現車がほしい、形式を問わないという要望が出たことを聞いています。
 そうだとすれば余剰気味だった形式としてEF55が来たのもうなづけます。片運転台のため高崎機関区でも運用上困っていたそうですから。
 検査期限が切れて廃車候補でしたら有効な活用になります。

 機関区の大きさのこと、国鉄では社員数で順序をつけていました。業務的には機関車両数で表したいところですが。
 私が聞いたときのトップは門司機関区でした。ただし第一と第二を合わせるとお説のとおり広島だったのでしょう。

 先のコメントで広島の次の駅、矢賀を矢野と誤記していました。ごめんなさい。

C6217さん
豊富な情報、大変ありがとうございます。

>J地点
ちょっと怪しげな感じ、軍施設っぽいですね。

>上り旅客本線の移設構想
確かにそのような空き地が確認できますね。

>EF552
こんなところにEF55とはオドロキですが、教習用ですか。

神戸方から、広島機関区 広島運転所 蟹屋派出所の並びで、最初に見学に訪れたのは広島運転所でした。
新幹線の車窓から見えている転車台の撮影許可をどこに行けばよいのか判らなかったと言うほうが正しいのですが。
運転所の事務所に着いたのが昼時で、手続きの助役さんが案内の職員さんの昼休みを配慮されたのか「食堂もありますので、昼食後の案内でもかまいませんか」と言われ食堂で昼食をとっていたら、同じテーブルに気安く話し掛けながら着席した職員の方がおられ、はてこの方は?、だったのですが、食事をしながら少し会話をしていくと、不覚にも、さきほどの見学手続き中におられた案内の職員の方だったと気づきました。
やはり、国鉄の広島地区訪問と言う大仕事に、見学許可をいただくのにも頭の中が真っ白だったようです。
食事中の会話が弾み、案内の職員の方とも打ち解け、13時を待たずに現場へと案内されました。
やはり平野部だったせいか、見渡す線路群と様々な車両や編成達に圧倒された感覚で、新幹線の車窓から見ていた景色とは違い、構内の地面からの見学に迫力満点でした。
偶然来ていた、サロンカーなにわ の車内も見学させていただき、展望車のシートで記念撮影もしていただくなど、本来の機関車基地としての機関区や転車台撮影を目的としていた訪問から外れた行為となっていましたが、所謂、ジョイフルトレインに興味がなくもなかったので、普通の鉄道ファンに戻れた時間を過ごせました。
さて、失礼ながら、f54560zgさん流のお言葉をお借りすると、ここで事件発生です。
たぶん青森の項でもちらっと触れたと思いますが、広い構内の見学を続けていると、なにやら撮影機材を担いだ中年の男性が職員さんと私に近づいて来ました、事務所で構内立入許可を申し出ると、先発組がいるから合流するようにと言われ、職員さんに来意を説明していました。
お二人の横で話を聞いていると、車両の型式写真と車内の撮影が目的らしく、たしか当時、短編成化に備え、117系の中間車に 115系辺りの運転台をくっつけた車両が、この広島運転所にしかなくて、その車両の撮影が目的だと言うことでした。
撮影機材をセットし目的の車両の外観を撮り終え、三人とも車内に乗り込み次は車内の撮影なのですが、手持ち無沙汰な私に対して「背がお高いですねぇ、ちょっと撮影のお手伝いをしてもらおうかな」と言いながら靴を脱いで通路上の車内広告を触りながら「こうすれば広告だけはずれますんで、順番どおりに一枚つづ重ねていけば、戻す時に間違わないんで、やってみてください」と言われた私は内心「ひとづかいの荒いオッサンやなぁ、やけど車内広告があんなんではずれるんか、自分もやってみよ」と気分を持ち直し、早速に車内の広告はずしにかかりました。
その間、そのオッサンは三脚や白い傘を床に広げるなど撮影機材を準備し、職員の方も広告はずしを手伝われ、車内空間はすっかり広くなっていました。
準備が整ったところで三人とも機材の後ろ側に位置し、いよいよシャッターを切ると、ストロボは反対側に発光し、広げた白い傘に跳ね返り車内を照らし、初めて見た車内撮影の光景に驚きました。
撮影が終わると広告の場所を間違わないように慎重に戻し車内をあとにしたのですが、撮影中のオッサンと職員さんの会話を聞いていると、「雑誌の取材ですか?」「はい、国鉄在籍の最終的な型式ばかり集めたのを出版予定です」「どこの出版社ですか?」「山と渓谷社です」「山の出版社が鉄道ですか?」「最近は山だけでは儲からないんで」「鉄道は儲かるんですか?」「鉄道もあまり儲からない」で、一同爆笑でした。
今では鉄道に限らず、写真界のレジェンドと言われている三十数年前のそのオッサンなのですが「どっかで見た顔やな」と怪訝に感じながらモヤモヤしていた時期があり、その後、鉄道少年時代に見ていた鉄道本の末尾の著者紹介に登場されている人物だったと気付き、鉄道写真の大家であるその方、広島運転所の出会い以来しばらく私の中では《広田のオッサン》なのでした。

E10さん
楽しいお話をありがとうございます。E10さんの行くところ、素敵なエピソードが満載ですね(笑)。
現業機関の見学を通じて多くの人と触れ合ってこられたのはE10さんのお人柄なんでしょうね(私にはそういうのが余りない・・・(涙))。
広田尚敬さんとの偶然の出会いもスゴイですが、私がふと感じたのは、何年か後に、「E10さんって実はアノ人だったんだ!」と気づかされるのではないかと・・・。

はじめまして。
広島機関区の配線構造はとにかく謎だらけで、ここまで、わかりやすいものは初めてで大変感動しました。
国鉄時代、JR貨物時代所属電気機関車の交番検査、台車検査はC地点の検査庫で、現在JR西日本電車検査庫でされていたのでしょうか?以前、JR貨物の友人が使わなくなったEF500はC地点の検査庫に留置していたと聞きました。のちに広島車両所に行き、客寄せパンダになりますか。
話戻しまして、上記の仮説が正しければ、貨物用の電気機関車の交番検査、台車検査の際に検査庫に入るのはどうやって入ったのでしょうか?広島駅で折り返しですか?

 1967年4月の項、広島運転所の機関車は広島機関区へ移管されました、とありますが、これはC地点の機関車設備が機関区の所属へ変わったという意味です。
 当然大きい検査はここに入りますが、お説のとおりいったん広島駅へ入ることになります。でも回数は僅かなもので支障があったとは思えません。
 そうすると所属替え以前も機関区所属の貨物機がC地点で検査を受けていた可能性があります。それとも検修設備の所属分割? 業務委託? 確認できません。

C62 17様
ありがとうございます。
なんとなく謎が解けてきました。

おそらく、検査庫が二段階に分けて
構築された感じがしますが、
交番検査が一段階目の西側、
台車検査が二段階目の東側
の仮説は正しいですか?
JR貨物になってからもEF66やEF61の200番、EF65が所属していましたが、
交番検査、台車検査はCにある検査庫でやっていたんですか?
ちなみに、機関車所属が無くなった1999年にはEF500は眠っていたと聞きました。

ミスター広島機関区を愛するさん、初めまして。
C6217さん、解説ありがとうございます。この辺りの情報を持ち合わせておりませんので(汗)。

だれか教えてください。
JR貨物になってから広島機関区所属の
電気機関車の交番検査・台車検査はC地点の
検査庫で良いのですか?
現在は西日本の電車の検査庫になっていますが。

  ミスターC53さま
 C 地点の検修設備はJR貨物の広島車両センターの所属になっていると聞きました。どなたか確認をお願い出来ませんか。

>・C地点の転車台がとうとう姿を消してしまいました。検修庫らしきものは残っているのですが、実態としては長い間使われていないのではないでしょうか。

ここはJR西日本の電車の検修庫になっています。

ミスターC53さん、情報ありがとうございます。
今も現役なんですね。

マツダスタジアムの裏に貨物駅になって、スタンドから特に、‟EF67“を撮るのに他の列車や架線のポールに遮られて、ナカナカ思う様に行かない。
広島CRAPから始まったジェット風船は、当球場の物とか風向きによって、遠慮してと山陽本線に配慮して場外ホームランを防止するかの様に金網が高い。
四国連絡は知格、広島から伯備線みたいな支線によって、山陰への連絡が容易に出来たらと思うこともある。新幹線連絡は、岡山が主になっている。が、岡山より広島に‟227系”の新車が入り、可部線はロングシートの方が具合よく感じた。
新白島駅によって、アストラムラインと連絡出来る様になったが、アストラムラインが広島駅に入らないことが具合が悪い。広島市は、大阪市同様に三角州の中にあって、大阪市も海に面した区は地下鉄はあっても、名前だけで地下に入らない。大阪環状線の大正に終点の駅があるぐらいである。
広島市は、アストラムラインが新白島から紙屋町の交差点付近の本通りまで地下を通っている。が、地盤が貧弱で地下鉄は作れない。その分路面電車が主になっている。駅の設備は様変わりした。新幹線と普通電車、ディーゼルカーだけになっている。

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