白河配線図
かつての東京北鉄道管理局の北限の白河駅です。
最初は1958年3月。
・上下本線の他に副本線が上下各2線、合計6線の本線が設けられているのですが、その割にホームは1面だけというのがちょっと珍しいかも。
・左下のほうには「白棚」の文字も見えます。
・上本の機待線が特徴的ですね。
・機械式の入信/入標らしきものが描かれているところを見ると、第1種機械っぽいです。
・図の上のほうの転車台周辺は、この当時はまだ白河機関区でしょうか。
・下のほうには「修」の文字が見えますので、客貨車区もあったのかもしれません。
続いて1965年3月。
・電化、複線化が完了しました。
・連動装置は電気か電気機か・・・。
続いて1969年3月。
続いて1972年3月。
続いて1980年3月。
最後に年代不詳。
・継電化されたようですね。
・線路表示式の入換標識が導入され、線路名称が通しの番号になりました。
その後側線群は大幅に撤去されてしまい、副本線の一部は上下共用になりました。
2002年の白河駅は下記をどうぞ。
・白河 2002/7/13
白河機関区は、分岐駅でもない東北線の中間駅に設けられています。似たような例としては木曽福島や出水や柳井などがあるように思います。蒸機時代に小刻みな中継が必要だったために設けられた機関車基地なのでしょうか、電化によって真っ先に機関車配置がなくなってしまいました。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
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コメント
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白河の配線略図をありがとうございます。特に、最後の図面は、初見で、興味深く拝見しました。
ユーチューブに上がっている2017年頃の前面展望動画をみますと、線路表示式入換標識もなくなったようで、線路名称も信号機の表示板を見る限りにおいては、副本線も従来の上り1番線とかに戻っているようですね。
線路表示式入換標識が導入されると、通しの線路番号にした方が都合がよいということでしょうかね。
投稿: KASA | 2018年11月28日 (水) 20時52分
KASAさん
私も詳しくはわかりませんが、表示と線路名称が一致していたほうが感覚的に間違いが起こりにくそうな気はしますね。
入換標識は線路表示式に進化しましたが入換信号機は旧態のままですので、なんとなく退化したような印象を受けてしまいます(汗)。
投稿: f54560zg | 2018年11月28日 (水) 21時43分
白河は東海道本線東型駅配線の駅ですね 此れだけの規模の駅で尚且つ機関区や貨車用仕分け線等有った駅で機関車交換や補機連結していた幹線駅としては旅客ホーム一面だけは此処位では無いでしょうかね
昔白河以北一山三文と言れていた白河藩松平家の城下町であり東北への関所であったのにホーム一面は余りにも寂しい駅ですね貨物主体の駅配線にしたのでしょう
投稿: yyoshikawa | 2018年11月29日 (木) 16時03分
yyoshikawaさん
東北線という幹線でこれほどの規模でホーム1面のみは不思議です。白河で編成の一部を切り離す客車列車も存在していましたが、本線をふさいで入換を行っていたんでしょうね。
投稿: f54560zg | 2018年12月 1日 (土) 22時50分
白河機関区は1960年に実質的に黒磯へ移転していますから、以後は名が残っても留置のみだった可能性があります。
でも1969年まで白河運転所の標記が見えていますね。組織と名称は別のものかもしれません。
現場名の「所」はもっと意味が重いので白河にはアンバランスです。黒磯を含めて重要度を汲んでの可能性があります。
投稿: C6217 | 2018年12月18日 (火) 13時32分
白河配線図の出現に胸が高まりました。
58年の配線図は、白河の初項で T.Mさんより機関区部分の御教示をいただいた図面と推察され、感謝感激でございます。
59年には電化されていますので、東北本線南部のSL全盛期における配線図だと思われ、そこに 白河機関区、福島第一機関区に合わせて25両も配されたC59型が(D51型は宇都宮機関区も含め約50両)たむろしていたのだと想像するだけで感無量です。
72年の配線図、20線程もあった扇形車庫が晩年は3線に減じられた姿を垣間見れるようで興味深いですね。
電化後も入換用の C12型が3両(以前はB6型)生き残り、3線の扇形庫に並んで休んでいる姿を想像するだけでも楽しくなります。
本音は、20線級の扇形庫に C62型や C61型を含めた大型機がたむろする白河機関区の写真や映像を見てみたいところですが。
古くから本線仕業の主力機が出入りしていた白河機関区なのですが、類似した静岡機関区、浜松機関区、金沢機関区等に比べ写真や資料が少なく、今回の配線図の価値は非常に高いのではないでしょうか。
余談ですが、本線に対して機関区側が太平洋側(上り線)で駅舎側が日本海側(下り線)だと長らく思い込んでおり、今回の記事で正しく認識出来ました。
白河機関区から連想する糸崎機関区も山側にあると思い込んでいた時期があり、自身には奇遇な出来事でした。
投稿: E10 | 2018年12月19日 (水) 00時49分
C6217さん
白河界隈の車両基地の変遷についてはWikipediaの宇都宮運転所の項に説明がありますね。
宇都宮機関区、白河機関区、それとおそらく宇都宮客貨車区? が統合されて宇都宮運転所となり、白河機関区はその支所になったようです。本所ではありません。
E10さん
そうなんですよね、白河機関区って資料が少ない気がします。大型機が多数配置されていた割には・・・。
ところで
>本線に対して機関区側が太平洋側(上り線)で駅舎側が日本海側(下り線)
というのは初耳なのですが、そのような法則があったのでしょうか。
投稿: f54560zg | 2018年12月19日 (水) 20時26分
あいまいな文面ですみません。
太平洋側や日本海側の表記は、兵庫県から見て福島県の東西南北の表記が的確に示せなかった、自身の方向音痴の産物だとご理解下さい。
東西南北が緯度経度にそぐった兵庫県から東北地域を見ますと、日本列島がフォッサマグナ辺りから急激に左カーブしており、私の年代では兵庫県の北側のイメージは旧ソ連で、首都圏からの北側のイメージは福島県辺りなのでしょうか。
明治期から、鉄道が開通し駅が開設されると、町並みの外れに位置しているのが通例なのは鉄道入門書や雑学の いろは なのですが、この白河駅は福山駅や三原駅等の城下街の、それもお城の直近に鉄道が敷かれた少数派の例外だったのでしょうか。
結論として駅舎や貨物側は町並み寄りで、機関区や鉄道施設は反対側に開設されるのが通例ですが、例外も多数存在していて、いずれにしろ鉄道の駅や施設を語るのには、風土史や地形の成り立ちの考察が欠かせないのでしょう。
投稿: E10 | 2018年12月21日 (金) 00時55分
f54560zgさま、宇都宮運転所のこと、ありがとうございます。この頃は運転基地の統合が流行?していて頭の整理が大変でした。
統合の目的は、機関車・客貨車の統合するものと、地域を広範囲に統合するものと、二つの目的がありました。宇都宮は両方の目的を持っていたように思えます。
さらに労務管理上の目的もあったようです。社員の所内の異動は転勤ではなく配置変更として処理出来るためです。当時の国鉄の事情を知る者として、当事者の苦労を思い出します。
投稿: C6217 | 2018年12月21日 (金) 14時11分
駅構内の駅舎と機関区(特に扇形庫)の配置関係で、E10さんが言及されているように、扇形庫があったときの郡山は、駅舎と扇形庫が同じ市街地側にある少数事例ですね。駅舎は町の玄関なので中心市街地に面した側に置かれ、反対側は市街地化が進んでいないなどで、敷地確保がしやすいなどの条件から、駅舎と機関区(扇形庫)は別々側に配置されることに落ち着くのだろうと思われます。蒸機時代の東北本線では、宇都宮、白河、福島、仙台、一関、盛岡、八戸(当時の尻内)などがこの例になりますね。
今日発売の「国鉄時代」に、伯備線新見駅の電化前の配線図が載っていましたが、駅舎側に扇形庫がありました。郡山との違いは分岐する姫新線と伯備線の間に機関区(扇形庫)があったことです。駅舎と反対側は山が迫っており、扇形庫を配置できるほどにはスペースがなさそうです。
投稿: コスモス | 2018年12月21日 (金) 20時19分
コスモスさま。 伯備線の新見について。 駅の所在地は市街の外れですが、前後を16‰・25‰に挟まれてやむを得ないと思います。また伯備線の建設が米子から進められたことも米子寄りに設置された原因でしょうか。
そうして機関区は用地の関係で市街地に接しています。いわば常識に反する配置といえます。
しかも平面図では判りませんが、機関区は駅より3mほど低く、入出区線の勾配は20‰となって、機関車が本当にソロソロと移動していました。
投稿: C6217 | 2018年12月23日 (日) 11時23分
C6217 さん
新見の状況について、教えていただきありがとうございます。地形などの制約がきつかったのですね。
ネットに上がっている新見機関区の写真を探したところ、ご指摘の本線や駅構内より機関区が低いことが分かる写真がありました。以下のHPの6の写真がそれです。
https://blogs.yahoo.co.jp/glock1320031/folder/1572365.html
投稿: コスモス | 2018年12月23日 (日) 17時45分
補足です。HPの新見機関区の写真は伯備線の煙 追加編①の⑥の写真です。先に追加編②が出てきますが、下へスクロールすると①が出てきます。
このHP「なつかしの鉄道写真館」はTOPの写真が「あき」のヘッドマークを付けたC6217の写真です。
投稿: コスモス | 2018年12月23日 (日) 18時02分
コメント欄により、知り得なかった多くの情報ありがとうございます。
f54560zgさんには失礼な発言になることをお許し願いたいのですが、f54560zgさんのblogの魅力の一つに、コメント欄よりblog内に未出現の場所のお話もお聞かせいただけることが多々ありました。
今回も、岡山地区の記事の関連項目とも言える、ある時期には鉄道ファンの聖地とも表された新見地区の話題をお聞かせいただき、コスモスさんにご紹介いただいたサイトにコメントを寄せられている 《hs777さん》のサイトには岡山地区の貴重な情報が網羅してあり、国内唯一の24メートル転車台の画像や岡山機関区の扇形車庫の様子も知り得られるようです。
新見駅配線図の出現時には、当項もご紹介していただき、C6217さん、コスモスさんのコメントも是非ともご参考いただければと思います。
全くの余談になりますが、蒸気機関車C62型の研究が佳境になった感のある現今、玄人C62型ファンの人気投票をすれば《C6217号機》意外とトッブ票獲得の可能性アリなのかも知れません。
投稿: E10 | 2018年12月23日 (日) 23時39分
釈迦に説法ではありますが、C62形は49両製造されて、今は5両のみが保存されています。C6217はそのうちの1両で、名古屋のJR東海リニア鉄道館に静態保存展示されています。現役時代の昭和29年12月に東海道本線スピードアップ計画の予備調査のために、木曽川橋梁強度試験高速走行のテスト機関車に選ばれ、12月15日に129km/hを記録しました。これは狭軌軌道における蒸気機関車速度の世界記録だそうです。米原電化後は梅小路、下関で山陽本線の特急を牽引し、最後は糸崎機関区で、「C6215」「C6216」と連番で呉線に運行されたのちに、名古屋市の東山動植物園に保存されていましたが、リニア鉄道館開館にともなって移されました。このような経歴が人気に反映されたように思われます。
投稿: コスモス | 2018年12月24日 (月) 16時21分
皆様こんばんは。
>新見機関区
申し訳ありませんが私は行ったことがないため口を挟む余地がありませんが、皆様からのお話で多くの情報を得ることができ、感謝に堪えません。ありがとうございます。
>C6217
C6217さん、コメントお待ちしています(笑)。
投稿: f54560zg | 2018年12月26日 (水) 19時29分
白河その1、その2、の頃のコメントにも関連してるのですが、配線図のある本項へ。
多度津の頃での機関区図鑑に、C12型だけが配置されていた頃の機関支区時代(おそらく60年代後半)の写真が掲載されていて、72年3月の配線図で機関区部分が3線になっている辺りの写真によりますと、3線の扇形車庫の左寄りは窓状の壁となっており、転車台からの線路は壁の手前までで止まっています。
中央と右寄りの線は扇形車庫の中まで延びていて、扇形車庫の右側に解体前の残線の、もう1線があるようで、さらに扇形車庫の左側に張り出した作業場のような部分の左手にも1線が転車台から延びていて、扇形車庫付近に5線が残された時期があったと推察されます。
以前の扇形車庫は17線程だったみたいで、右寄りから15線部分が解体され庫内のレールも剥がされたようですが、扇形車庫左側の側面に残された建築デザインと共に超大型蒸気機関車がたむろしていた風格も感じられます。
細かく年代での配線図が網羅されていて見応えがあるのですが、製作者により配線図の描き方に特徴があるようで、転車台付近を実見どおり描いていただけていたらと、失礼ながら贅沢な思いがちょっぴり頭に過ぎりました。
尚、白河機関区の転車台は戦前の設置、20m級の電動上路式で、また、自分の中では超大型蒸気機関車に混じって C12型の存在感が何故か気になります。
もう何度も申し上げて言葉も見つかりませんが、私にとって知りたくて堪らなかった幻とも言える白河機関区の姿が徐々に明らかになってきて、f54560zgさん、T.Mさんに改めて感謝申し上げます。
投稿: E10 | 2019年8月 4日 (日) 01時51分
1947年の空中写真によると白河機関区は扇形庫20線(21?)を持つ基地でした。青森方にあるのが給炭槽のようですが精度がわるく判読不能です。 仙台から急行を牽いて来たC51重連がC62に交換される情景の記事を読んだ覚えがあります。
C59の配属は電化直前だったと思います。どなたか資料確認をお願いできれば・・・・。
投稿: C6217 | 2019年8月 4日 (日) 20時13分
E10さん、C6217さん
>配線図の描き方
基本的には運転関係のための図面なもので、側線関係は若干軽視されていますよね、スミマセン。
とにかくなかなかナゾの多い機関区です。
投稿: f54560zg | 2019年8月 4日 (日) 22時34分
電化前の航空写真を見ると白河機関区の扇形庫はかなり大きいものです。(線数を失念)
他にも似た例が多くあって何故かと疑問に思っていました。検査修繕が目的ならばこんなに線数は要りません。
思い至ったのが収容目的では? ということです。積雪地では屋外の留置は作業上の不便さがいろいろ伴いますから、庫内であれば作業も楽だしトラブルも少ないことでしょう。
f54560zgさま。私のネームは偶然ではなく本物のC6217に由来しています 。以下企業秘密。
投稿: C6217 | 2020年11月12日 (木) 21時30分
C6217さん
企業秘密、いろいろと想像を巡らしてみます。
投稿: f54560zg | 2020年11月15日 (日) 09時30分
駅舎が町の繁華街側に向いてない駅が嘗て存在してました其の駅は何処に有ったのか・・日本の首都東京の中心に有った東京駅です 鐡道國有化後鐡道院が発足当時既に手狭になっていた新橋駅の解消を兼ねて首都東京の中央に首都にふさわしい新しい駅を設け様と計画先ず新橋から外堀を利用して複々線の煉瓦高架で人口密集地を避けつつ当事丸の内の大名屋敷跡の広大な空き地に中央駅を建設(当初は院電山手線が呉服橋仮駅迄先行運行)中央駅の駅舎は建築家辰野金吾が設計した煉瓦造りの立派な駅舎を繁華街である日本橋側とは真反対の皇居側に建設繁華街に背を向けた駅東京駅になった当然駅裏に機関区と客車操車場を設けた では何で繁華街の日本橋側を正面にしなかった理由は皇居を背に向けられなかったのです 当時皇居に背を向ける事は不敬罪に当たるのであえて繁華街日本橋に背を向ける形で丸の内側を正面にしたそして皇居より東京駅中央迄直接結んだ幅広の御幸通りを設け天皇陛下や皇族方が旅行へ行く折此の御幸通りを通り東京駅へ向かったのです
投稿: yyoshikawa | 2020年11月29日 (日) 17時09分
yyoshikawaさん
皇居と東京駅舎の関係、ありがとうございます。八重洲よりも丸の内のほうが賑やかな印象を持っていたのですが、それは東京駅ができて以降の話なのですね。
投稿: f54560zg | 2020年12月 1日 (火) 20時03分
東京駅の丸の内側は元々商業施設は殆ど無いビジネス街でした東京駅が開業後に丸の内一帯を所有していた三菱財閥が当時世界経済の中心地であったロンドンに似せたオフィースビル群を建設一丁ロンドンと称していた 後に辺りは再開発で当たり前な高層ビル群に変わったが其の後一部に昔の一丁ロンドン時代の建物を復元商業施設としました 又た駅前には駅前広場と広い御幸通りを設け其の両側には丸ビルと新丸ビルが対をなして建てられ広場南側には東京中央郵便局が建設され中央郵便局から東京駅迄地下に郵便物運搬用地下軌道が敷設されました公共鉄道では有りませんが日本で最初の地下鉄です鉄道資料号数は忘れましたが郵便地下鉄が併記された東京駅の配線図が掲載されてました更に広場北側には鐡道省ビルが建ち全てのビルは高さが揃って美しい風景でした(関東大震災後建築基準法で高層建築が規制された為)駅前広場には市電(都電)も乗り入れており一時期ループ線が存在していた様です戦後だいぶ経て丸ビル新丸ビル共高層ビルに建て直されましたが低層階は昔の姿に近いデザインで造られた中央郵便局も元の建物のファーサイドを残し後ろに新しいビルを建設元々の部分はキッテという商業施設として再利用されてます国鉄本社は民営化の煽りを受け完全に消滅し丸善書店他になりました 更に将来東京駅北方向に日本最高層のビルが建つそうです 丸の内に比べ八重洲側は機関区客車区が品川移転後も戦後可也後迄裏玄関的風景でした鉄道80周年のおりは記念ゲートが八重洲に造られ展示されてました 八重洲口が表舞台に踊りでたのは機関区と客車区が移転した空き地にホーム増設及びターミナルビルの建設と駅前広場の新設により漸く近代的駅前となりましたターミナルビルには大阪の大丸百貨店が進出大丸東京店として建物は変わりましたが現在も営業してますターミナルビル時代大丸の他に上層階には各県の物産品を展示販売するコーナーがありました 其の後東海道新幹線計画が持ち上がると未だ用地が有る八重洲側に駅を設ける事になり裏玄関が何時の間にか表に踊り出ました 江戸時代より日本橋京橋界隈は魚河岸があったり越後屋呉服店(後の三越百貨店)や色々な問屋等が集まる江戸の商業の中心であった其れは明治になっても変わらず 三越百貨店 白木屋 高島屋 丸善 明治屋等が軒を並べていました でも東京駅は背を向けた為一時期三越では丸の内から三越迄連絡バスを運行し顧客サービスしていた 日本橋の利便性が少しだけ良くなったのは東京地下鐡道が神田から日本橋迄延伸されてからでした其の後新橋迄開通しより利便性が向上し更に戦後八重洲口が出来駅前広場も出来てから便利になりました
投稿: yyoshikawa | 2020年12月 2日 (水) 17時03分
機関区や客貨車区といった車両基地は「駅裏」というイメージが強いですね。これらがなくなりと俄然活気が出てきそうです。
投稿: f54560zg | 2020年12月 3日 (木) 20時46分
以前にも出たテーマで重複して恐縮ですが、白河駅が築堤の上にあることについて。
これは25‰→10‰の線路改良に伴って移設されたものと思います。現在の駅前広場が旧駅で両側に線路の跡地が追跡出来ます。
このとき阿武隈川橋梁は10‰勾配で上流側に新設されたのが読み取れます。そうして構内全体が数mの嵩上げを行っています。広大な構内ですから大きな土木工事だったコとでしょう。
ホームが1面のみであるのは、始発終着列車が少ないためでしょう。急行退避なども考えなくても良かった時代と想像します。
これは現地をスケッチしたレポートです。もう一度行ってみたいと念願しています
投稿: C6217 | 2020年12月 4日 (金) 17時03分
C6217さんがご指摘になった白河駅の移設ですが、ウィキペディアの同駅の項に「1920年(大正9年)10月10日:白坂 - 当駅間経路変更により移転。」という記述があります。これが勾配緩和にともなう駅移設でしょうか。
投稿: | 2020年12月 5日 (土) 00時34分
コメントに名前が抜けました。コスモスです。なお白河駅周辺の路線変遷が分かる地図があるページがありました。http://kaido.the-orj.org/stop/sira00.htm
投稿: コスモス | 2020年12月 5日 (土) 00時42分
コスモス様早速掲載サイト覗いて見ました現在の地図に旧路線を書き込んであり参考になりました中々良いサイトを見付けてくれて有難う御座います 他のページには白河付近の現状写真画像も有り今後楽しんで見たいです
投稿: yyoshikawa | 2020年12月 5日 (土) 13時01分