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2018年8月17日 (金)

岡山操車場配線図

岡山駅に続いて岡山操車場です。

最初に岡山操車場の歴史を、「停車場変遷大事典」(※1)、「鉄道による貨物輸送の変遷」(※2)及びWikpedia(※3)から調べてみます。

・1925年 岡山操車場開設(※2) 
・1942年 宇野短絡線開通、岡操口信号場開設(※1)
・1945年 岡山操車場開設(※1)
・1953年 抱き込み式化(※2)
・1956年 岡操口信号場廃止(※1)
・1969年 西岡山駅開業(※1)
・1990年 岡山操車場が西岡山駅に統合(※1)
・2016年 西岡山駅が岡山貨物ターミナルに改称(※3)

※1と※2とで岡山操車場開設の時期が違っています。操車場自体は1945年以前から稼働していたと思われますが、ひょっとしたら当初は岡山駅所属だったのかもしれません。

それでは配線図です。まずはこの図。

194200r
・いつ頃の図かがわかっていないのですが、着発線や仕訳線が抱き込み式にはなっていませんので、1942年から1953年の間ではないでしょうか。
・貨物列車の着発線はいくつかに分散配置されています。山陽線下りは到着線と出発線が直列的に配置されており、山陽線上りは着発線としてまとめられています。このほか宇野線の着発線がこれらとは別の場所に設けられており、また岡山駅とを結ぶ小運転列車の着発線もあります。

続いて1958年4月。

195804r

・大きく改良が行われて抱き込み式になりました。
・着発線もまとめられました。宇野線の着発線は山陽線下り着発線と並べて配置されています。

続いて1966年3月。

196603r
・門司方に伯備出発1・2番線という本線が増設されていますね。

続いて1969年4月。

196904r

・ほとんど変わっていませんが、1966年では山陽上り線と岡山運転区通路線が立体交差であったものが平面交差になっています。ちょっとアヤシイですね。

続いて1986年4月。2つの図があります。一つ目はコレ。場内信号機が描かれていません。

198604a11r

198604a12r

198604a2r

もう一つの図はこちら。入換信号機が描かれていません。

198604b1r

198604b2r
・西岡山駅が開業しています。
・これに関係して、以前3RT生さんからコメントを頂いた通り、門司方に高架の貨物折返線が設けられています。
・この折返線にやって来る車両はどこからきてどこへ向かうのでしょうか。西岡山駅側は西岡山南通路線~授受1~5番線だと思うのですが、操車場側は西岡山北通路線?それとも上り貨物1~5番線? 両方ともアリでしょうか。
・高架橋がいきなり行き止まりになる形態は珍しいですよね。東鷲宮の保守用通路線にもありましたが、こちらは途中で改良が行われて変更が生じた結果です。
・またこの高架橋、使用されたのは20年くらいではないでしょうか。なんとなく浜川崎駅の高架橋と同じような匂いを感じてしまいます(汗)。
・また、着発線がさらに増設されています。下り本線の外側に下り1・2番線、門司方に西下り2・3番線、上り着発線と直列的に西上り1番線が設けられています。下り貨物に関しては下り1・2番線を介して西岡山駅に直接出入りできますので、先の高架の貨物折返線を利用するのは上り貨物のみでしょうか。

最後に1992年4月。

199204r


・岡山操車場が西岡山駅に統合されて着発線荷役方式になっています。
・線路の数は大幅に減ってしまいましたが、効率的な配線になったのだと思います。

配線図はT.Mさん、KASA及びSYさんよりご提供いただきました。

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コメント

1986年の配線図に宇野線への“短絡線”が描かれていますね。
ネット上の情報によればこの線は1984年に廃止されているそうなのですが、事実関係はどうなのでしょうか?

こんにちは。岡山周辺の記事、ありがとうございます。
色々書きたいことがありますが、岡山運転区(先代)への通路線の平面交差時代が一番興味がそそられます。1966年3月の図「1R」の消し忘れがあることから、1969年4月と順番が入れ替わっているのでしょうか。
1962年の岡山国体の際、急いで客留線を整備した後が昭和40年頃岡山運転区(先代)(当初は電車区?)になったように思っておりますが手元に資料がありません。
お詳しい方解説お願いできれば幸いです。

クモイ103さん、貨物時刻表1984-2及び同1985-3では岡山操車場と宇野方面を結ぶ貨物列車を確認することができます。同1986-11ではなくなっています。ですので少なくとも1984年に短絡線が廃止されたというのは間違いではないかと思うのですが。

3RT生さん、
>通路線の平面交差
空中写真を見てみたのですが、1964年5月ではまだ立体にはなっていないようです。岡山運転区も車両は止まっていますが後述の通りまだ準備中なんでしょうね。
1967年3月では高架橋は確認できるのですが、まだ建設途上のような・・・。
ですので1967年末から1968年には完成していたのではないかと思うのです。
図面の年代に間違いはないのですが、後年の加筆や変更の反映モレ等であたかも内容が真逆になってしまったかのようですね(笑)。
>岡山運転区
鉄道ピクトリアルの車両配置表1969には岡山運転区の開設は1965.7.1と記されていますね。おっしゃる通りです。
倉敷・宇野線電化は1960年で、この時岡山にクモハ51等が配置されたようです(鉄ピク1972年5月号)。80系が配置されたのはこれより遅く1965年から(鉄ピク1977年8月号)のようです。
ここからは推定ですが、51系のみの小所帯時は客貨車区を間借りしていて、運転区開設に伴い80系が転入、といった流れかも(あくまで推定です、スミマセン)。

f54560zg さん、貨物時刻表の情報ありがとうございます。
あくまでネット上の書き込みだったので、そちらが間違いなのですね。
路線の廃止ということは、鉄道公報に載っているかな。

前コメントは私です。名前が抜けてしまい失礼しました。

f54560zgさん、こんばんは。
さらなる解説ありがとうございました。やっと家に帰り資料を見ていました。
岡山電車区の開設時のエピソード、「東海道新幹線安全への道程」(齋藤雅男著.鉄道ジャーナル社,成美堂出版 2014)に少し出ています。岡山のクモハ51には当時入れ込んでおりまして、昭和51年に運転区で車歴簿を閲覧したことがあります。例えばクモハ51080は昭和35年9月21日に岡山機関区に配置され、昭和40年7月1日岡山運転区発足に伴い転属との記録が出てきました。電車区になったのは昭和57年の伯備電化の時で、同時に客車は客貨車区客車職場(岡操構内)に移管されています。
また改めてコメントさせていただきます。

クモイ103さん、短絡線の類は廃止の時期の特定が難しいですね。開業は比較的目にするのですが。
3RT生さん、クモハ51は当初は客貨車区ではなく機関区でしたか。失礼しました。

こんばんは。西岡山駅との関係はわからないことが多いです。
西下り2/3番線に貨物ホームがあります。「ライナー引上線」が示すようにコンテナの荷役線なのだと思いますが、直接門司方へ進出可能です。岡操は貨物営業がなかったので、西岡山駅の出城?でしょうか。何しろ授受線も貨物折返線も通りませんので、時短には最適な場所ですね。今頃では普通の施設ですが、当時のことなので架線下荷役ではないとは思います。「急送引上線」などなどワクワクするのは小生だけ?

 1966年の図で3RTさんがご指摘の件、西下り2・3番線は下り方へ直接進出が可能です。しかし貨物状況はほとんどが上り方面への発送です。
 そこで、下り先頭に入換機DE10を、上り方にEF65を連結して下り列車として出発し、次の庭瀬の中線に到着します。
 ここでDE10を解放し、上り列車としてEF65が牽引して出発します。岡山操車場は通過。DE10は単機上り列車として岡山操車場に帰ります。
 岡山操車場と岡山追加に書きたいことが山ほどありますが、とりあえずこの件のみ。

こんばんは。C6217さん、御教示ありがとうございました。架線下荷役だったことになりますね。当時はまだ珍しかったのではないでしょうか。
昭和60年の貨物時刻表の「コンテナ取扱区間表」に、西岡山発21:10の東京(タ)行きは▷◁4084〜1084レ(岡操21:40発)と出ていましたが、これがお教えくださった列車だと思います。ただ高速貨時刻表の時刻と一致せず悩み中です。

3RT生さん、C6217さん

>西下り2/3番線
確かにそうですね。出城かも。

>庭瀬折り返し
貴重な情報ありがとうございます。
私も1988-3改正の貨物時刻表と鉄道ダイヤ情報のEL・DL運用を確認してみました。
この改正では4052~52列車という列車がコレのようなんですが、よくわからない点があります。

●4052列車:岡操発→庭瀬行き
前部岡機EF65(A18)+コキ+後部岡機DE10(入A1)
●52列車:庭瀬発→東京貨タ行き
・庭瀬→岡操間
前部岡機DE10(入A1)+コキ+後部岡機EF65(A18)
・岡操→東京貨タ間
吹田EF66(A36)

というわけで、
1)庭瀬行き4052列車は先頭がEF65で、後部にDE10が付いている。
2)折り返しの52列車はこれがそのまま帰ってくる。つまり先頭がDE10で後部にEF65。
3)52列車は岡操で牽引機がEF66に変わる。
んです・・・。よくわかりません(汗)。

重箱の隅を(3)。
3RT生さま。運転区通路線の立体交差は43/10を控えての工事と記憶しています。また別件記憶では立体交差高架橋が1962初めに躯体が完成して仕上げを行っていました。
電車51系は1960年に岡山機関区に配属され、機関区の電機庫で検修を受けていました。其の後お説のとおり現在地に客車留置設備が設けられ、1962国体のあと電車検修が新設されて機関区の一部となりました。
さらに1965年に岡山機関区電車部門と岡山客車区が合併して岡山運転区が発足しました。場所はそのままで客車区が岡山駅構内から引っ越してきました。
その後、伯備線電化に伴って電車の増強が必要となったので、客車設備を岡山運転区構内から岡山操車場の東部に移しています。検修庫も新設されていて完全な引っ越しです。
 これに伴い、運転区は電車のみとなったので1982年に岡山電車区と改称し、移設された客車設備は岡山貨車区と一緒になって岡山客貨車となりました。
JR発足によって客車と貨車は別会社となるため、岡山客貨車区と分割され、客車部門を電車区に戻して名称は1986年に再び岡山運転区となりました。さらに1987年JR化の直前に岡山運転所となりました。
「区」と「所」の違いは組織上の地位にあります。大きい組織では、部~課~係、と段階がありますが、区は課、所は部、と考えて下さい。管理上のバランスと説明されています。したがって運転所長の直属部下である科長が他の区長と同格になります。
1989年に岡山運転所は分割されて車両基地は岡山電車区、乗務員基地は岡山運転区となりました。このとき岡山気動車区も車両と乗務員に分割されて加わりました。そのため気動車の所属も岡山電車区です。
さらにさらに、岡山電車区はその後に岡山車両センターとなり、その後さらに分割されて、岡山電車区・岡山気動車となり、現在に至っています。長々とすみません。 ああしんど、読む方はもっとしんどい?

重箱の隅を(4)。
クモイ103さま。
短絡線は転向にも使用されていました。電車や気動車を機関区の転車台へ載せるよりも、自力運転で三角線を回送した方が手間が省けます。
岡山~大元~岡山操車場~庭瀬~岡山、のルートです。短絡線からの岡山操の到着線は下り出発線を兼ねているので、そのまま山陽本線下りへ進出できます。
列車が無いのと線路の廃止とは別問題と考えては、と思います。妄言多謝。

3RT生さま。
運転区への通路線の立体交差のこと。1966-3の立体交差は明らかに間違いです(先稿のとおり)。
1969-4の平面交差も間違いですね。抹消されている上り第1場内はこの平面交差のためにここへ移設されたので、訂正して平面交差の左方にあることはあり得ません。
第1場内の移設により信号機のみ訂正して平面交差をそのまま忘れたと推定できます。したがって日付は正確ではありません。

C6217様、詳しい解説をありがとうございました。運転区東の空き地が今もあると思いますが、平面交差時代の名残ですね。
小生の頭の中では伯備電化までの「岡山運転区」のイメージが強く、JR化前後の組織の紆余曲折は何となく見ていただけでしたのでやっと理解できました。
伯備、津山、吉備線に客車列車があった頃には機走線〜運転区通路線にDD51+DE10の単機が往来していたのを懐かしく思い出します。
宇野貨物線の転向は知りませんでした。特に電車の転向は興味深いです。

重箱の隅を(5)。

開設のこと。
1945・・・・上り抱き込み配線の完成。
1953・・・・下り抱き込み配線の完成。完成は1951年で、機関区へのルートと下り本線の立体交差はこのとき完成しました。
岡山操車場としての発足は確認できません。

いつ頃かの図。
上り抱き込みがまだですから1945年以前ですね。岡山駅への小運転線が複線で開通しています。

1958年の図。
抱き込み配線の完成。上り・下りの前方と後方に引上線があって、4両の入換機がのびのびと仕事ができそう。
用地が十分あったため理想的配線が出来上がりました。次の段階はハンプの設置でしょう。
このころ元の地権者から訴訟が多く出ています。戦時中の用地買収はいろいろ問題があったようです。

1966-3の図。
仕訳線が容量いっぱいとなって伯備線の仕訳線と出発線が新設されました。ただ仕事量は少なく、入換機の9600がいつも休んでいて撮影には絶好のコンディションでした。
もう少し本線の仕事を回せばいいのにと質問したところ、相互の貨車授受が面倒な仕事で効率化に反する、という返事でした。
あとは宇野線の入換も担当している下り後方の仕事が過重だったそうです。

1969年の図。
西岡山駅の開設は岡山駅の貨物部門がそっくり引っ越して来たものです。小運転で岡山駅へ送っていた貨車は、西方に新設された高架の貨物折返線を経由して西岡山へ移ります。
折返線は高架へ登るため20‰勾配があり、このために貨車は全部ブレーキ管を連結する必要があり、苦情が出たそうです。でも下り列車は本線の外側に1・2番線を新設したので楽になりました。
これらは西上り1番線とともに急送便のために新設されました。正式には地域間急行(略称チキュウ)と呼び、主要駅のみ停車して、貨車の予約を受け付け、速達を目的とするものです。
停車駅では僅かな停車時間で貨車の解放連結を行い、10分程度の停車時間で済ませます。無理な作業だというクレームも多くありました。
岡山操車場はそのモデル駅で西上り1番線のように専用の着発線・引上線・貨車留置線を持っています。
チキュウは好評でしたが、コストの問題で行き詰まり、貨物退潮の波に呑み込まれて消えました。
コストというのは、予約貨車のみ連結するので末端部では編成が短くなること。実例として稲沢~吹田を5両で走った例が挙げられます。5両の貨車のために1本の列車・1両の機関車(乗務員も)を使うのか、という非難です。

上り列車を貨物設備のある下り線から送り出し、庭瀬で折り返す列車を紹介しました。機関車の連結位置で f54560zg さまと食い違いますが、ダイヤ改正で変わったのかとも思います。
また下り1・2番線は架線があるので先頭DE10、後部EF65が可能ですが、架線のない西下り2・3番線では先頭EF65、後部DE10とならざるを得ません。以上は私の推定です。
なお、架線下で荷役をするのは後に制度が定められてからで、今でもコンテナ限定ではありませんか?
東部の客留のこと。運転区の歴史で述べたように、元から2本あって運用外の車両が留置してありました。私にとっては電化後に廃車予定のC59・D52が並んでいた悲しい記憶があります。
運転区から客車設備が移ってきて検修庫も完成し、客貨車区が発足しました。その後、再び岡山運転区の客車職場となり、JR化後の合理化で運転区に移り、この客留線は遊んでいます。保線車両の留置があるのみで、所属も西日本? 貨物? と疑問です。
運転区の留置(着発)線群では始端にあった車両停止標識が線路終端に移っています。つまり留置位置まで入換信号機で進入できるのですね。

また長々と妄言失礼しました。

C6217さん、詳しい情報をありがとうございます。非常に理解が進みました。

ところで、
>もう少し本線の仕事を回せばいいのにと質問
どなたに質問を?

f54560zgさま。
質問相手は岡山操車場の操車掛です。合図旗を振って入換を行う責任者。連結手6名を指揮して貨車をさばきます。
見ていると、メリハリの効いた指示と合図を行う人と、その反対では作業時間がずいぶん違います。次の列車が入るまでの休憩が増えるわけです。

C6217さま
短絡線が転向にも使用されていたとのご教示、ありがとうございます。
確かに気動車においては車輪の片減りを防ぐため定期的に車両を転向しており、気動車専用基地である千葉気動車区に転車台があったのもそのためと聞いております。
一方電車は車両の向きが決まっていて、転向はよほどの特殊な事情がなければ発生しませんでした。
そのためにわざわざ短絡線を残すとは考えられず、転向のため短絡線が残されたとすれば、それは気動車のためでしょうね。

ここで一つ気になるのが時代背景です。
f54560zg さんのご教示によれば、この短絡線を通過する貨物列車は1985-3には存在し、1986-11にはなくなっていた模様です。
その間にあった大きなダイヤ改正といえば1986年11月1日、5ヶ月後に控えた分割民営化に備え、JRに引き継ぐための国鉄最後の改正でした。
この時点で短絡線を通過する貨物列車は廃止された可能性が高いですね。
時あたかも国鉄の最末期、様々な面で合理化が行われ、利用価値の低い土地は整理して国鉄清算事業団に移管しようとしていた筈です。
貨物列車の廃止で、市街地に隣接したこの線路は利用価値が大きく低下しました。
車両の転向だけなら多少の手間をかければ転車台で出来ます。
このような線路をJRに引き継ぐことはまず考えられず、速攻で線路が剥がされ、土地は清算事業団行きとなったのではないでしょうか。

以上は当地の詳しい事情を知らない門外漢の勝手な想像ですが、それから1年後の1987年10月には私も宇野線に乗車し、短絡線の線路が剥がされた跡地を見ております。

結局、この短絡線の廃止は1986年11月改正時だった…と現時点では推測します。

クモイ103 さま。
ご推測に賛成します。ずっと見ていたのに記録をとっていないのは我ながら情けない。
突然の廃止なら覚えていますが、衰退して消えてゆくときは本当に無関心ですね。
短絡線の廃止は宇野線各駅の貨物扱いの廃止と同時のように思えます。駅順を揃える仕訳が不要となれば、岡山操車場の経由は必要はないわけです。
しかし、四国から岡山以西へ行く貨車は? 姫路または吹田で折り返し? それでも岡山操経由よりも低コストかも知れません。

民営化のとき、資産の引き剥がしは激しかったですね。鉄道業務に不用なものはすべて没収です。
逆に国鉄に残せば資産として価値がありますから、不急不用の土地や建物を鉄道業務に必要だと偽装したものも多くありました。
線路際の資産価値の高い保線詰所が、岡山運転区の訓練教室という看板を出したのに驚きました。遠くから通ってきた訓練生のボヤキも聞いています。

地域間急行のこと、説明が簡単過ぎてごめんなさい。このページをお借りして質問を受ければお答えします。

国鉄民営化(もう30年も昔のこと)もいろいろなウラ話があります。単純に国鉄がJRへ移行したという誤解を解きたいと願っています。

C6217 さま

鉄道公報を調べたノートをめくっていたら、1986年11月1日付で「貨物営業規則」別表第2の2 第1号 中「宇野線」を削る、という記載がありました。
肝心の「貨物営業規則」を知らないのでこの別表がどのような内容なのかわかりませんが、C6217 さまが言われた
> 宇野線各駅の貨物扱いの廃止
と関係あるのかもしれませんね。

保線詰所が訓練教室に化けたとのお話し、切羽詰まった当事者の心情も分かるだけに失礼かもしれませんが、歴史秘話の観点では面白いですね。
国鉄という巨大組織を丸ごと“料理”しようという一大事業でしたから、関係各所の利害の絡みは想像を絶するものだったことでしょう。

C6217さん、詳しいお話をたくさんありがとうございます。
貨物関係ではよくわからないことがいっぱいあるのですが、何がわからないのかもよくわかっていません(汗)。今後もいろいろお話を聞かせてください。

宇野線短絡線と、岡山臨港鉄道の廃止は同じころだったと記憶しています。1984年末。岡山操車場での入れ替え作業は、短絡線を通って大元駅構内まで機関車+貨車が入ってきており、見ているのが楽しいものでした。(引き上げ線+臨港線)
実は操車場の高架(ハンプ)がいつ頃まであったかなぁと思い、探していてこのページを見つけました。
ハンプを使っていた(いわゆる操車場だった)のがおそらく1984年2月まで(鉄道輸送の黒歴史?)で、これもきっかけで臨港鉄道は廃止になったと聞きました。

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