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2018年6月 9日 (土)

操車場という名の停車場 その1

法令関係には全く疎いのですが(汗)、国道交通大臣の定めるところによる「鉄道に関する技術上の基準を定める省令」というものがあるそうで、その中の第一章第二条において駅、信号場、操車場及び停車場についての定義がなされています。

七 駅 旅客の乗降又は貨物の積卸しを行うために使用される場所をいう。
八 信号場 専ら列車の行き違い又は待ち合わせを行うために使用される場所をいう。
九 操車場 専ら車両の入換え又は列車の組成を行うために使用される場所をいう。
十 停車場 駅、信号場及び操車場をいう。

以前の記事で、「東大宮の車両基地の着発線は東大宮駅という停車場なのか、それとも東大宮操車場という停車場なのか」という疑問を書きましたが、この疑問に対してはKASAさんから明確な回答をいただきました(KASAさんありがとうございます)。

 

すると、次なる疑問が湧いてきました。
『いったい、日本には「操車場」という停車場はいくつ存在したのだろうか?』
そこで停車場変遷大辞典を使って調べてみました。ページをめくって「操車場」または「操駅」と名の付く停車場を片っ端から探したわけです。
この結果、全部で26の操車場または操駅が見つかりましたのでこれらの開設から廃止までの歴史をご紹介していきたいと思います(ひょっとしたら見落としがあるかもしれませんので、モレ等ありましたらお知らせくださいませ)。

但しご注意があります。
これはあくまで書類上で「操車場」もしくは「操駅」と名付けられた停車場の名称の変遷であって、その停車場における作業の実態の変遷を表すものではありません。
確かに操車場は.組成が行われる場所なのですが、組成が行われるのは操車場だけではありませんで、駅でも行われます。
たとえばかつて大宮駅付近には規模の大きい操車場があったのですが、大宮操駅という名前の停車場が誕生したのは1961年なのです。もちろんハンプや仕訳線群といった操車場設備はそれ以前から存在していたわけですが、これらは大宮駅の構内という扱いになっており、1961年に操車場部門が大宮操駅として大宮駅から分離独立した、ということなのです。
つまり操車場という名前の停車場ができた時期と実際の組成作業が行われるようになった時期とは必ずしも一致しないということですね。
また長町とか稲沢などは「組成を行う駅」であって「操車場」ではないため、上記の26の操車場には含まれていません。
こうなると「組成を行う駅」と「操車場」との違いというのがよく分かりません(汗)。

では26の操車場のご紹介です。

 

1.青森操車場
・1926/10/25 青森操車場開設
・1986/11/1  青森信号場に改称

操車場の開設と組成作業の開始は同時期かもしれません。
操車場から信号場への改称は、単純に考えれば組成作業が廃止されたことによるのでしょうが、1984/2ダイヤ改正の時点で組成作業は廃止されたのではないかと思うので、なぜ1986/11になって改称されたのかがナゾですね。

 

2.北上操車場
・1978/10/2  北上操車場開設
・1984/2/1   輸送基地に指定
・1986/11/1  輸送基地廃止、北上信号場に改称
・1987/1    廃止

自動化ヤードとして、国鉄で最後に開設された操車場ですね。
こちらの場合は1984/2改正以降も輸送基地としてわずかながら組成作業が残ったようですが、1986/11に輸送基地が廃止となり信号場に改称されました。
開設からわずか8年、余りに短命でした。

 

3.秋田操車場
・1944/3/31  八幡田信号場開設
・1960/8/1   秋田操車場に改称
・1964/10/1  秋田操駅に改称
・1984/2/1   輸送基地に指定
・1986/11/1  輸送基地廃止
・1990/3/10  秋田貨物駅に改称

八幡田信号場というのがどのような機能を持つ信号場だったのかはよくわかりませんが、操車場への改称と組成作業の開始は同時期のようです。
1964/10に秋田駅を含む近隣の一般車扱貨物営業を集約して操駅になりました。
その後輸送基地となったものの1986/11には輸送基地が廃止となり、この時点で組成作業は廃止されて貨物駅になったのではないかと思います。
しかしながら秋田貨物駅への改称は1990/3と、若干遅れた時期に行われています。

 

4.郡山操車場
・1965/10/1  郡山操車場開設
・1977/3/1   郡山貨物ターミナルに改称
・1984/2/1   輸送基地に指定
・1986/11/1  輸送基地廃止

操車場としては比較的後年の開設ですね。そのため自動化ヤードになっています。
貨物取扱開始の際は操駅とはならず貨物ターミナルに改称されています。組成作業が行われる貨物ターミナルは珍しいような気がします。

 

続きます。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

三大操車場と言えば、新鶴見 稲沢 吹田 の認識だったのですが、分類上は違っていたのですね。
鉄道の操車場と聞くと、機関区や運転所などとは違った響きを感じ、圧倒的に車両が集結し、動力車が右往左往しているイメージでした。
私の中では富山と郡山のヤードが国鉄操車場の集大成のイメージなのですが、武蔵野ヤードが有終の美と言ったところでしょうか。

記事内の北上操車場は、87年3月末に下りの東北新幹線の車窓から一瞬垣間見たのですが、20代前半の当時は動態視力も良かったからでしょう、新幹線と在来線が、かなり鋭角に合流していたにもかかわらず、北上操車場跡に停車していた東北本線下りコンテナ列車の先頭に立つ ED75型の真っ赤な車体をはっきり目撃できたのを今でも印象深く覚えています。

国鉄程ではないですが私鉄や専用鉄道でも規模は小さいですが一応操車機能をそなえた駅が見られます
同和鉱山小坂鉄道大舘 東武鉄道中千住 杉戸 下板橋 葛生 名鉄神宮前 南海電鉄堺(竜神?) 
専用線 新日鉄住金戸畑第一操車場 三井三池専用鉄道仮屋川操車場宮浦 等(未だ他にもあるかもしれません)

E10さん、貨物操車場はその広さに圧倒されるのですが車両的にはどうしても地味な印象で、子供のころのトキメキはやはり機関区や電車区等でしたね。
yyoshikawaさん、一般車扱貨物営業を行っていた私鉄であれば国鉄同様分解・組成駅が存在していたのでしょうね。

操車場駅
操駅
って貨物を取り扱えるかないかの違いのように思えるのですが、
なぜわざわざ区別してるんでしょうかね?

操車場駅が正式なのか、
操車場(駅が付かない)が正式なのか?

文献によってまちまち過ぎて(;^_^A
もあるのですが・・・。

ゆかわあきらさん
個人的には貨物営業ナシが操車場、アリが操駅なのですが、正式にはよくわからないですね(汗)。

古いことなので、記憶が違っているかもしれません。
操車場の名称
①旅客取扱いがある➡XXX駅(貨物扱い含む)
②貨物取扱いがある➡XXX貨物ターミナル
  (又はXXX操駅)
③どちらも取り扱わない➡XXX操車場
④列車の行き違いのみ➡XXX信号場
例 旅客扱いがある稲沢駅
   貨物取扱いのある郡山貨物ターミナル、
   どちらも無い吹田や新鶴見は操車場となります。

なお、職名について、いずれも駅長といいます。
例  旅客駅➡XXX駅長
   貨物駅➡XXX貨物ターミナル駅長
   操車場➡XXX操車場駅長

通りかがりの国鉄本社指定組成操車場の元職員さん、コメントありがとうございます。
悩ましい典型例は稲沢と吹田です。稲沢も吹田も旅客営業を行っているのですが、稲沢は操車場部分を含めて「稲沢駅」、吹田は「吹田駅」と「吹田操車場」に分かれています。この違いがよくわからないのです。結局のところ、明確な定義はないのでは?、と思っています。

構内図の詳細は把握してませんが、稲沢は旅客駅と操車場は同一構内で、ひとつの駅だと思われます。
吹田(操)は東海道線(貨物線)で、旅客の千里丘駅〜岸辺駅〜吹田駅と並行した巨大な構内で別駅だと思われます。
3駅と吹田(操)で一つの駅というのも変な話なので、独立した駅(操車場)で妥当ではないでしょうか。
なお、交通の分岐点では、大駅の構内や運転所が複雑に繋がっているところがあって境界がわかり難い箇所がたくさんあります。
また、線形や継電連動の組み方によっても同一構内になったり、別構内になる場合もありますが、吹田(操)の詳しいことは知りません。

ヤード輸送末期の頃に鉄道ジャーナルに掲載された吹田操車場のルポによれば、吹田操車場は独立した駅として駅長が置かれていたようです。
旅客扱いの吹田駅はその駅長の管轄には無いような書きぶりでした。

余談ですが、竜華機関区を見学した折に、久宝寺駅は八尾駅長の管理駅で、現場長は、機関区長、客貨車区長、操車場駅長の3人いると聞きました。要は機関区のエリア内なら構わないが、客貨車区や操車場、本線には立ち入らないでくれ、という説明を受けました。まさに構内が複雑に繋がっていて境界がわかりにくいケースと思い出しました。

香椎駅には1.1kmくらい離れていたところに操車場があったのですが、操車場部分も含めて香椎駅でした。同じように熊本駅には1.5km位離れたところに操車場と貨物駅があったのですが、こちらも全体で熊本駅でした。
一方、長岡駅には1.6kmくらい離れたところに操車場があったのですが、こちらは長岡駅と長岡操車場で別々でした。大宮駅には1kmくらい離れたところに操車場があったのですが、こちらも大宮駅と大宮操車場で別々でした(しかももともとは全体で大宮駅であったものが操車場部分が独立しています)。
ですので、一つの駅なのか、別々の停車場なのかはなかなか一筋縄ではいかないように思います。

新鶴見操車場には、廃止となるまで細々ですが貨物営業がありました。西側にある三菱重工に専用側線が入っていましたが最晩年の取扱実績はトキが1〜2車、週に1回程度でした。それでも現業機関としての正式名称は「新鶴見操車場」です。職員の発令通知書にもそう記載されています。

刻苦七十年さん
そうなんですよね、操車場なのに1945年から専用線発着貨物の取り扱いを行っていたようです。その隣の丸子信号場も、信号場でありながら専用線貨物の取り扱いを行っていたようですし。
吹田操車場も同じような感じで、1927年から1929年までと1951年以降は専用線貨物を取り扱っていました。さらにややこしいのは、吹田駅も1876年の開業時から1984年まで、その間ずっと貨物取扱駅になっていたことです。いろいろと複雑です。

新鶴見操車場の貨物営業について
会社専用線(貨物線)が、海に近い地方主要駅構内なとで接続していた箇所はたくさんあったと思います。臨港線なとど呼ばれていました。
貨物列車に連結されて運行していたと思います。このような扱いだけでは貨物営業には該当しません。

新鶴見操車場で、貨物営業のための営業職員が配置されて、収入(お金)の取り扱いがあったのでしょうか?

新鶴見操車場の貨物営業について

記載漏れがありました。

新鶴見操車場で、貨物営業のための営業職員が配置されて、収入(お金)の取り扱いがあったのでしょうか?
又は、貨物扱い(積込み、積み下ろし)はあったでしょうか。

通りかがりの国鉄本社指定組成操車場の元職員さん
コメントありがとうございます。
このあたりの話に関してはモヤモヤしているところがありますので、別途記事にしてみたいと思います。

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