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2017年5月 6日 (土)

西若松 1990/6/16 動画 その1

1990年(平成2年)6月16日に西若松駅で撮影した動画のその1です。

今回ご紹介するのは沼垂発西若松行きの(5290~)5491列車の到着と入換の風景です。

動画のおおよその内容は以下の通りです。

1)7時15分頃、会津若松方からDE10に引かれた5491列車がやってきます。
会津若松 1990/6/16 動画 その1 の記事の動画の一番最後、会津若松駅3番線で出発を待っていたヤツですね。

2)列車が進入する線路は、かつては下り3番線という側線だった線路です。この時点では下り2番線という副本線になっていたようです。

3)5290~5491列車は会津若松までタキ12両でやってきて、会津若松で4両を切り離していますので西若松へはタキ8両でやってきます。結構長いですね。
それにしてもソロリソロリとゆっくりとした進入です。

4)8時2分頃、操車担当さんが転てつ器を転換し、入換が始まります。

5)DE10はタキを後押しして専用線に押し込みます。

6)途中を省略しましたが、最終的には2本の側線にタキを4両づつに分けて押し込んだようですね。

7)入換が終わったDE10が切り離されます。しばらく後に単機で会津若松に戻り、夕方再度単機で西若松にやってきて空のタキを連れて帰ります。

相変わらず、
・画質悪
・ノイズ多
・手ブレ大
・構図悪
ですが、ご容赦ください。

https://www.youtube.com/watch?v=EdFOtwIbfK4

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コメント

いつも、本当に貴重な映像をありがとうございます。
見たい、観察しておきたいと思っておきながら、行けずじまいだったところをたくさん見せていただいて、本当に嬉しいです。

一日一便とはいえ、8両ものタンク車を引いてきていた専用貨物、客貨分離がこの後の運命を決めたのだと本当に感じます。

さて、映像を拝見すると、入換押し込み後、後部標識が付けたれた位置を見ると、朝の順序と同じ編成順序で戻っていくことが分かりました。

それから、西若松その2でお示しの配線図から、映像の時までに只見本線→下1、上2→只見本線に変わっていますね。

やわやわとまれさん、只本の件、本来の姿になったという感じですね。逆に、今まで何で1番線が上2で2番線が只本だったのかが不思議です。

f54560zgさん 映像をお撮りになった頃は分からないのですが、只見線が自動化される直前の頃になりますと、旅客取り扱い上、只本はほとんど使用されず、下1に列車が入るという状況が続いておりました。
自動化後の現在はどうなのでしょう?

やわやわとまれさん、この次の記事で動画をご紹介させていただきましたが、この時点では(少なくとも422Dは)只本(1番線)着発でしたね。
自動化後の動画を見てみましたが、おっしゃる通り下1(2番線)着発でした。せっかく只本を1番線に移したのに何故ですかね? 乗り換え乗客の利便性を考慮してのことでしょうか。

f54560zgさん 只見線列車が只見本線を走らないのは、跨線橋上に会津鉄道の出札・改札があることがポイントだと思います(^_^)b

懐かしい西若松駅の入れ替え風景を拝見しました。
全てが日本石油輸送の貨車ですが西若松駅では日本石油と共同石油とエッソ石油と昭和石油とシエル石油と幅広い扱いと重油に灯油にガソリンと種類が豊富ですので2線に分割していますのでガソリンと灯油輸送と思われます。
西若松駅のタンク車輸送を最後に日本石油新潟製油所の貨車輸送の終焉しました。

お邪魔します。
1986年11月15日14時07分、会津高原発の会津線9328D~328Dでこの駅に降り立ち、国鉄線完乗を果たしました。
当時の記録を見ると本屋側のホームは「使っていない」とありますので、この時点では基本的に旅客扱いは島式ホームのみで行われていたと思います。
想像ですが、まず合理化のため跨線橋上に改札口を設ける「橋上駅化」を行い、そのため旅客扱いを2・3番線に集約したのでしょう。その後1番線の旅客扱いが復活したのは、もしかして駅員無配置になったからではないでしょうか?

西若松は無人駅ではありませんね。会津鉄道に委託ですが窓口も改札もあります。(あとJRの運転取扱い要員もいます)

列車扱いを基本的に島式ホームに集約しているのは、非自動時代の通票の取り扱いの都合もあるのではないでしょうか。
豪雪地帯である故か、このクラスの駅としては珍しく古くから跨線橋が使われていることもありますし。

やわやわとまれさん、クモイ103さん、名無しさん、せっかく1番線を只本に変更し、一時は1番線発着としていたのが何で2番線発着に戻ったのか、このあたりの変遷の理由がナゾですね。駅構造を考えると2番線発着が自然だと思いますので、1番線発着に変更した理由がポイントですね。

つるたまさん、さほど大きい駅ではない割に石油輸送では重要な役割を担っていたんですね。

またまたお邪魔します。

さて西若松駅の線路使用の変遷に関して、私の知りうる限りのことをお伝えします。

私が初めて訪れた87年はまさしく本屋寄りが客扱いのないホームで、出改札関連は跨線橋上の窓口での扱いでした。本屋は運転扱いのみで、以前に手荷物を扱っていた際にはこちらだったとうかがったことがあります。事務室内には大きめの連動盤を中心として若松方に1台、高田・門田方に各1台。合計3台の閉塞機が並んでいたのも印象的でした。
※会津鉄道は転換時にはまだ通票閉塞を使用しており、門田でも一時的にタブレット交換が見られました。工事の遅れで自動化は87年9月後半だったと記憶しています。

さて、時は移り89年の末に改めて西若松を訪問したところ、JRと会津鉄道で出改札分離が行なわれており、JRの出改札と運転業務は本屋に一本化されていました。また若松方は自動化されており、小さな連動盤と高田方の閉塞機のみとなっていました。この時点で上り2が只見本線(1番線)になり、只見線列車は基本的には1番線発着となりました。夕刻に交換する列車があり、その時だけ乗車券の発売後に2番線(下り1)に案内するとのことでした。それまで本屋を通り抜けて跨線橋へ向かうようになっていた導線は、本屋北側からのアプローチに変更されていました。
※その他に臨時列車の運転時にも下り1が使用されることはありました。
88年春は若松でも通票を扱っていましたから、おそらく89年春の改正頃に若松方が自動化され、配線の呼称変更と出改札分離があったものと考えています。その後は2005年の駅舎橋上化工事直前まで同じような状況が続きました。
橋上化工事の際に旧本屋と跨線橋の解体が行なわれ、JRの運転業務は島式ホーム上の現在の位置へ。出改札はホームの若松方に仮駅舎が設置されて構内踏切経由で2・3番線から乗車ということになりました。

橋上化後は出改札業務を会津鉄道に委託しており(JRのPOS端末があります)、そのために2・3番線が使用されているとのことです。現在も夕刻に只見線列車の交換があり、その際には1番線を使用しています。
※この1番線は橋上の改札ではなく、旧本屋のあった西側に専用の出入口が設けられています。

以上が変遷に関しての私の知る限りのことと、一部推測です。

貨物列車映像も懐かしいです。末期は新潟のDDがそのまま西若松まで入り、入換えをしてから若松に戻っていきました。午後の返却はDEが担当していました。

今ではSL列車の乗り入れ(客扱いは七日町まで)やラッセルもなくなり、華やかな時代を見てきた者としてはちょっと寂しさを感じています。
※SLが来た際の特別な扱いもありましたが、それはまた改めて。

長々と大変失礼いたしました。

匿名さん、大変貴重な情報ありがとうございます。
西若松駅の1番線の使い方はなかなか不思議ですね。本屋に面したホームは通常は最も重要な使われ方をされるような気がしていたものですから。

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