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2015年11月 1日 (日)

新潟駅付近の路線の変遷

新潟駅付近には、新潟駅の移転や貨物線の開業・廃止などに伴う路線の変化の歴史があります。
今回はその変遷をまとめてみました。

なお図中の色は、
・黒・・・客貨営業
・赤・・・旅客のみ営業
・青・・・貨物のみ営業
を表している・・・つもりです(汗)。

まず、1897年(明治30年)11月時点。
189711r
・北越鉄道により(現)東三条駅~沼垂駅間が開通しました。

続いて1904年(明治37年)5月時点。
190405r
・いろいろすったもんだがあったようですが、北越鉄道が沼垂駅~新潟駅(初代)間を延長開業しました。

続いて1912年8月時点。
191208r
・越後鉄道が吉田駅~白山駅(初代)間を開通させました。白山駅(初代)と新潟駅(初代)は信濃川によって隔てられています。
・なお北越鉄道は1907年(明治40年)8月に国有化されています。

続いて1924年(大正13年)12月時点。
192412r
・上沼垂信号場が新設され、ここを起点に新潟臨港が上沼垂信号場~山ノ下駅間に貨物線を開通させました。
・1913年(大正2年)11月に関屋駅が開業しています。

続いて1941年(昭和16年)7月時点。
194107r
・新潟臨港開発(1940年(昭和15年)10月に新潟臨港から商号変更)が新潟臨港駅(1928年(昭和3年)8月に山ノ下駅から改称)~大形駅間の貨物線を開通させました。
・また1927年(昭和2年)10月には越後鉄道が国有化されています。

続いて1941年(昭和16年)9月時点。
194109r
・新潟臨港開発が国有化され、同時に焼島駅が開業、新潟臨港駅は東新潟港駅に改称、大形駅は東新潟港駅の構内扱いに変更されました。

続いて1942年(昭和17年)4月時点。
194204r
・沼垂駅~新潟港駅間が開業しました。新潟港駅は一般駅ですが、旅客営業は航路連絡に限られていたようです。

続いて1943年(昭和18年)11月時点。
194311r
・関屋駅~新潟駅(初代)間に貨物連絡線が開通しました。

続いて1951年(昭和26年)12月時点。
195112r
・1951年(昭和26年)4月に上沼垂信号場~万代駅間の貨物支線が開業しました。ということは、現在の新潟駅の西方で越後線と万代貨物支線が平面交差していた、ということになるのかと思います。空中写真で確認しますとすでに新潟駅(2代)の工事が始まっているようで、単純な平面交差ではないようですが。
・同年6月に関屋駅~新潟駅(初代)間で旅客営業が開始され、同年12月に白山駅が移転して関屋駅~白山駅(初代)間は廃止されました。
・同年12月に上沼垂信号場は上沼垂操車場に変更されました。

続いて1956年(昭和31年)4月時点。
195604r
・白新線が開通し、上沼垂操車場に接続するようになりました。

続いて1957年(昭和32年)10月時点。
195710r
・新潟操車場が開設され、同時に石山信号場~新潟操車場間の貨物支線が開通しました。これに伴い上沼垂操車場は上沼垂信号場に変更されました。

続いて1958年(昭和33年)4月時点。
195804r
・上沼垂信号場~万代駅間の貨物線上に新潟駅が移転され、新潟駅(初代)は廃止されました。同時に沼垂駅・新潟港駅の旅客扱いが廃止されましたが、沼垂駅は一部旅客扱いが残存したようです。

続いて1965年(昭和40年)8月時点。
196508r
・1960年(昭和35年)11月に石山信号場は越後石山駅に変更されました。
・1962年(昭和37年)5月に長岡駅~新潟駅間及び越後石山駅~新潟操車場間が電化されました。
・1964年(昭和39年)6月に新潟地震が発生し、特に万代駅は壊滅的な被害を受けたようで、1965年(昭和40年)8月に万代駅は廃止されました。
・また1964年(昭和39年)10月に上沼垂信号場~沼垂駅間が電化されました。

続いて1967年(昭和42年)5月時点。
196705r
・上沼垂信号場が上沼垂駅に変更されました。
・沼垂駅付近から旧万代駅付近に至る専用線が開通しました。万代駅の一部復活、といったところでしょうか。

続いて1982年(昭和57年)11月時点。
198211r
・1972年(昭和47年)8月に白新線が電化されました。
・1974年(昭和49年)5月に新潟運転所上沼垂支所が開設されています。
・1978年(昭和53年)9月に白新線上沼垂駅~新潟操車場間が、1981年(昭和56年)7月に白新線新潟駅~上沼垂駅間が複線化されました。すなわち新潟駅~上沼垂駅間については複々線化された、ということですね。
・1974年(昭和49年)10月に新潟駅の貨物扱いは専用線発着貨物のみに変更されましたが、これも1982年(昭和57年)4月に廃止され、新潟駅は旅客専用駅となりました。
・関屋駅も貨物営業が廃止されました。
・旧万代駅への貨物専用線は1982年(昭和57年)頃に廃止されたようです。

続いて1986年(昭和61年)11月時点。
198611r
・1984年(昭和54年)1月に上沼垂駅の貨物営業が廃止され、さらに1986年(昭和61年)11月には荷物営業も廃止されて再び上沼垂信号場に戻りました。
・沼垂駅~新潟港駅間は1986年(昭和61年)10月に廃止されました。

続いて2002年(平成14年)6月時点。
200206r
・1987年(昭和62年)4月に新潟操車場での貨物営業が開始されて新潟操車場は新潟操駅に改称されましたが、1990年(平成2年)3月にはさらに新潟貨物ターミナル駅に改称されています。これに伴い沼垂駅の貨物扱いは大幅に縮小されて専用線貨物だけになりました。
・焼島駅~東新潟港駅間が営業休止となりました。休止とはいえ、実態としては廃止同然のようですが。

最後に2010年(平成22年)3月時点。
201003r
・沼垂駅が廃止されました。1897年(明治30年)開業の、新潟駅の元祖がとうとう消え去ってしまったわけですね。

新潟駅付近の路線は、以上のような歴史を経て現在に至ったわけです。
貨物駅については、現在は新潟貨物ターミナルに集約されたわけですが、歴史の途中では沼垂駅、万代駅、上沼垂駅などがどのような役割を果たしてきたのか興味が湧きます。

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コメント

 新潟付近の年代毎の路線変更が初めて体系ずけられ理解しやすいですね 新潟地震後廃止になった万代貨物駅の位置関係 新潟駅が日本海縦貫線から外れた位置の訳 沼垂駅が新潟で最初の駅であった事等です

万代貨物線は上沼垂起点だったのですね。
文献によっては亀田起点とありましたから(30年位前の小学館の全線全駅シリーズ?)、何かしら違和感と不自然さを拭いきれずにいました。
f54560zg様、ありがとうございます。これでモヤモヤが氷塊しました。

yyoshikawaさん新潟駅付近の線路には結構複雑な歴史があり、私自身まだまだよくわかっていない部分があります。
オーイナル野焼きさん、営業上の路線区間と実態上の路線区間とでは異なることがありますので、そこで混乱してしまうことが多々ありますね。

 初めまして。切符収集により鉄道史の一端を知ることを楽しみにしている者です。

 本日オークションで落札した、元沼垂駅駅員だったらしい人が昭和23年ごろに集めた切符が届きました。発駅着駅などに関して確認するうちに、「沼垂・新潟間ゆき」という常備(印刷済み)の乗車券が2枚有ることに気づきました。
 沼垂が信越線の元々の終着駅で、新潟市の玄関とも言える駅だったことはこれまでに知っていました。ですが、その後設けられた新潟駅はすぐ隣りだったはずで、券面に「間ゆき」とあるのはまるで理解できません。
 1枚は長野電鉄からの連絡乗車券で、これのみなら、いい加減な乗車券を作ったな、と一笑に付してしまったかもしれません。ところがもう1枚は飯田から辰、松、直経由「沼垂・新潟間ゆき」で、国鉄の社内で着駅のミスをするとはとても思えません。
 ここで沼垂と新潟周辺に関して調べ始めました。ウィキペディアの信越線路線図を見ると、沼垂から分岐して新潟港駅というのがあり、旅客扱いをしていたとあります。ただし、「間ゆき」という券面からはやはり外れている気がします。
 更にいくつかの鉄道サイトを探して、ここの詳細な沼垂周辺の路線変遷図に至りました。これを読むうちに、可能性としては分岐となっている終点の新潟港駅も含めて「間ゆき」としてあるらしいことが推測できるようになりました。
 
 ただしその新潟港駅ですが、発券された23年は元より、実際に旅客駅として運用されていたのは戦時中のごく短期間だけのようです。大陸方面行きの船に連絡するボートトレインが運行されていたのは昭和17年から(新潟港駅が設けられる数年前からボートトレインの運行はありました)。
 ところが戦争が激しくなると航行に伴う危険が増大し、欠航も多かったようです。更に敗戦後は最早旅客航路自体が存続しえず、新潟港駅はほとんど名目だけの存在だったのではないかと思われます。
 もっとも横浜港駅や神戸港駅など他のボートトレインの駅も、船が接岸する時だけに使用される駅員無配置の臨時駅でした。ですので新潟港駅もそれと同じだったと考えて差支えはありません。路線図の上では存在しているので、乗車券にもそのままあるものとして扱われていたらしい、というのが真相かもしれません。

 尚、戦後に引揚者の利用があった可能性がありますが、ウィキペディアの引揚者の項には新潟港は含まれていません。無かったとは言えないまでも、ここの利用はほとんど無かったようです。

大森山谷さん、初めまして。
切符から垣間見える鉄道の歴史、なかなか興味深い分野ですね。
おっしゃる通り新潟港駅の旅客扱いは一般とは異なる特殊なものだったようです。戦中・戦直後はいろいろと混乱していたのでしょう。

図には貨物線も含めてありますので、記録もデータもない記憶で申し訳ありませんが、コメントさせてください。80年代当時、この近辺が活動エリアでした。

1967-05にある破線が貨物線だとすると、このエリアには他にも線路が残っていました。
・沼垂駅から万代島方面に延びる、図示された破線。栗の木川を渡って港沿いに万代橋の右岸まで。万代町付近では道路をいくつも横断していましたが踏切も警報器もなく、すでに廃止後の遺構だったかもしれません。
・沼垂駅から中央埠頭を経由し北埠頭まで国道沿いに延びる貨物線。片側2車線の国道を斜めに横断していました。竜が島歩道橋の東側のスペースです。確か信号機付きの踏切で、当時で稼働しているところは見た記憶がありません。
・東新潟港周辺。旧臨港病院の西側から北側を通り昭石側に抜けていく踏切が2箇所ありました。今はみなとトンネルとなっているあたりです。ここも当時の時点で稼働していた記憶はありません。

いずれも地理院地図S60には線が引かれていますので、特段有用な情報ではないと思いますが、探索される方のイメージ作りに役立てばと思いコメントを残させていただきます。

東新8204-8503さん、情報ありがとうございます。
このあたりは臨港地区ですので、線路があちらこちらに伸びていたと思います。現役時代に行けていたらいろいろな発見があったと思うのですが・・・。

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