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2015年8月29日 (土)

三角線(デルタ線)

先日のE10さんのコメントの通り、国土地理院の空中写真のURLが変更されてしまいましたので、E10さんをはじめ皆様からいただいた情報をもとに、昔の空中写真で確認できる三角線(デルタ線)の実例について改めて整理してみました。

なお、ここでいう「三角線(デルタ線)」とは、本線ではなく側線によって形成されたものに限定しています。すなわち、大崎駅付近や宇多津駅付近のような事例は除外しています。

●秋田(1962年)
  →画像はこちら
・画像中央下部、扇形庫の右の田んぼの中。1962年(昭和37年)ですが、結構くっきりです。

●平(1947年)
  →画像はこちら
・画像やや上、やや右部。扇形庫の右側。1947年(昭和22年)ですが、線路は敷設されていないようです。撤去されたのか、未成で終わったのか・・・。

●沼尻(1964年)
  →画像はこちら
・2015年9月27日、yyoshikawaさん情報にて追加しました。
・画像やや上、やや右部。小ぶりですのでちょっとわかりづらいかも。

●水戸(1946年)
  →画像はこちら
・一見してわかりますね。やはり線路は敷設されていないように見えますね。

●友部(1946年)
  →画像はこちら
・画面のほぼ真ん中です。
過去の記事も合わせてご覧ください。

●秩父(1974年)
  →画像はこちら
・2015年9月13日、LUNさん情報にて追加しました。
・セメント工場の専用線ですので当初の設置目的は不明ですが、晩年は蒸機の転向に使用された、りっぱな三角線(デルタ線)ですね。

●米原(1947年)
  →画像はこちら
・それらしいものを2か所で見ることができます。
・一つ目は画面やや左、やや下部。きれいなカタチをしています。ホントに機関車の転向のためだけの設備のように見えますね。
・もう一つは画像中央上部。こちらはちょっとわからないところがありますね。下から右上に向かうルートは現在の東海道上り線ではないかと思われ、単純な転向目的の線路ではないのかもしれません。
・いずれにせよ、2つもの三角線が存在するのはスゴイですね。

●吹田(1948年)
  →画像はこちら
・画面ほぼ中央部、扇形庫の右上に確認できます。

●英賀保(1947年)
  →画像はこちら
・画面中央、やや下部。上側に伸びる線路には分岐もありそうで、単純な転向目的だけではなさそうですね。
過去の記事も合わせてご覧ください。

●広島(1946年)
  →画像はこちら
・画面やや右、やや下部。ちょっとわかりづらいです。
・爆心に近い左下部は、ほとんど建物らしきものが見当たりません。

●岩国(1947年)
  →画像はこちら
・画面右上部、変則的なカタチです。
・無数に確認できる黒い丸は爆撃の跡でしょうか。これもスゴイ・・・。

●徳山(1947年)
  →画像はこちら
・画面中央左部、徳山駅からは結構離れています。単純な転向目的に見えますね。

●下関(1947年)
  →画像はこちら
・画面ほぼ中央部にそれらしきものを確認できます。ただ、転向用なのかどうかはちょっと微妙ですね。

●下関(1975年)
  →画像はこちら
・画面中央上部。年代から考えて機関車の転向用とは思えませんが、三角線には違いなさそうですね。

●肥前山口(1948年)
  →画像はこちら
・画面中央上部。これは機関車転向用のように思えます。

上記以外に三角線(デルタ線)をご存知の方がいらっしゃいましたら是非情報をいただきたいと思います。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

 下関の三角線は、上方の下関駅から右方の岸壁線へのルート、左手の画面外にある南風泊漁港へのルート、は納得できますが、下の東西を結ぶルートは目的不明です。機関車転向の目的なら機関区からレールを繋ぐべきで、離れ過ぎて不便です。
 結局???。 

デルタ線と云えば構内のデルタ線と路線間を短絡する為のデルタ線の存在も見逃せません 
 首都圏では武蔵野線関連のデルタ線の存在は見逃せません あたかも高速道路のインターチェンジさながらの様相です 立体交差で線路競合を防いで円滑に運行出来る様配線されております
 田端操車場より常磐線への貨物線もデルタ線の一つで 嘗て初の東北方面特急列車はつかり号は当初44形客車で運用しており毎日方向転換せねばならず尾久操車場よりC62に牽引され尾久操車場と田端操車場間連絡線を通り貨物線を通り墨田川駅に入りバックで上野駅に向かい客扱い後常磐線経由青森へ向かいましたはつかり号は出発時方向転換してたのです
 対して東京発のつばめ号はと号は到着時に品川迄回送後大崎へ其の侭向かい大崎の中線に一旦入線後編成ごとバックで大崎支線を蛇窪へ向かい蛇窪で停車渡り線を渡り品鶴線上り線を品川へ戻りました 昔は本線折り返しを平気でやっていたのです

 戦前の日本地図に中央本線名古屋口に東海道本線熱田方向より中央本線方面への短絡貨物専用支線が有りました中央本線に古渡信号所を設けデルタ線を形成しておりましたが戦前に廃止されました 
 東海道本線梅小路駅と山陰本線丹波口駅間の短絡線もやはりデルタ線を形成しております
 

 又入力ミスしてしまいました申し訳有りません
 さて東海道本線大阪駅の前後には二箇所デルタ線が存在しております 北方貨物線と宮原操車場連絡線です 此のデルタ線で特急つばめ号はと号の方向転換をして居りました 確か大阪に到着後其の儘尼崎迄向い福知山線に入り塚口駅で停車機廻しして尼崎へ戻り東海道本線を大阪へ向かい北方貨物線へ入り宮原操車場へ 次の運用は宮原操車場より西廻りで大阪駅へ向かえば方向転換されました

C6217さん、下関の場合は機関車の転向用、すなわち転車台の代替施設という感じではないですね。でもなぜ三角線なの?という点は疑問のまま残りますが。
yyoshikawaさん、今回は構内のデルタ線に限定しましたが、本線としてのデルタ線もおっしゃる通りいろいろ興味深いですね。特に編成単位での転向に供した事例など。

 構内デルタ線と云えば品鶴線(横須賀線)目黒川蛇窪間及び大崎支線(湘南新宿ライン)大崎蛇窪間山手貨物線目黒川大崎間は現在全て大崎駅の構内扱いですので一応構内デルタ線になるのでは 随分大きな構内ですね

↑大崎デルタは側線ではなく本線ですから。

yyoshikawaさん、通りすがりの・・・さん、表現があいまいでしたね、スミマセン。今回は本線ではなく側線によって形成されたものに限定させてもらいました(汗)。

大変ご無沙汰してます
面白そうな線路話題なので(小難しい信号の話じゃない、殴)

秩父駅はとても立派なデルタ線でしたよ
工場ごとなくなってしまいましたけど…

LUNさん、お久しぶりです。
当初の目的は別にして、晩年は機関車の転向に使われていたようですから立派なデルタ線ですね。記事に追加しておきます。

 有りました秩父駅構内に巨大なデルタ線が 唯私鉄でしたのでコメント避けました
 セメント工場への入出経路を分ける為にデルタ線を設けたのでは 武甲山からの原料の石灰石を積んだ鉱石車(ヲキ)を工場に送り込む線と製品のバラ積カバーホッパー車(ホキタキ)袋詰めセメント車(スムテムテキ)送り出す及びセメント製造過程で必要な石油石炭搬入の為の線何方が如何なのかは工場が無くなったので不明ですがセメント工場をデルタの頂点に設け底辺に秩父駅と貨物ヤードを配した絶妙な配線は中々でした
 秩父駅貨物ヤードの熊谷側隅に倉庫になった木造有蓋車の廃車体(ワclass)が有りましたが今は如何なったのでしょうか御存知のお方居ませんでしょうか

 私鉄に話しを広げると有名なのは沼尻鉄道の沼尻駅に小さなデルタ線が有りました 沼尻駅では機廻し線を省略してデルタ線で列車ごと方向転換空車の無蓋車を硫黄積み込み倉庫へ押し込み硫黄を積み込んだ無蓋車を引き出し列車を組成し出発を毎回繰り返してました其の為常に機関車は同じ向きで列車を牽引してました川桁ではターンテーブルで機関車を毎回方向転換してました
 話は少し逸れますが路面電車では車庫の入出用にデルタ線を敷設しておる所は多々存在してました


 江ノ電極楽寺車庫構内にデルタ線が存在してました戦前の雑誌鐵道に江ノ電納涼電車運転と云う記事が有り極楽寺車庫の配線図も掲載されており
車庫から本線へ合流辺りにデルタ線が存在してました 今でも用地は残ってます

yyoshikawaさん、情報ありがとうございます。沼尻を記事に追加しました。極楽寺はちょっとよくわかりませんでした(汗)。

楽しく見させてもらってます。
wikipedeaにもありましたが、北海道拓殖鉄道の瓜幕駅と中音更駅にありました。

瓜幕駅
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=724162&isDetail=true

中音更駅
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=591773&isDetail=true

路面電車の車庫入出部にデルタ線を設ける例は多々存在してました路面電車は基本単行運転ですから一輌毎に方向が反転してても問題無かった
例外は玉電(東急多摩川線)大橋車庫出口にデルタ線が有りましたが玉電は戦後常時連結運転をしてましたので方向を揃える様になり片側は使用されなくなりました
高速電鉄は早い時代から連結運転にシフトした為車庫のデルタ線は殆ど存在してませんでした
例外は名鉄の東枇杷島の構内には貨物列車用に名鉄本線と犬山線とを短絡するデルタ線が有ります

IPさん、情報ありがとうございます。
Wikipedia見ました。デルタ線の「移設」ってあるんですね。
yyoshikawaさん、大橋車庫のデルタ線、昔の空中写真で探してみましたがわかりませんでした(汗)。

初めまして。いつも楽しく拝見しております。

宇部周辺の航空写真を見ていたところ、宇部駅を通らず山陽本線と宇部線を結ぶような線?を見つけ、かつてデルタ線があったのか検索をかけたのですがそのような記載は見当たらず。。
実際に存在し使われたのか、計画はされたものの未成となったのか、はたまた、偶然土地の区画がそのように見えるだけなのか・・・
気になるところです。。。

蒸気機関車用三角線好きの立場として、久々に血が騒いでしまいました。
TNさん、非常に興味深いコメントありがとうございます。
稚内から枕崎まで、暇を見つけてはUSA航空写真を探索していたのですが、まさか宇部駅付近にこんな航空写真が潜んでいたとは驚きを隠せません。
宇部駅には転車台らしき痕跡は見つけられませんでしたが、現実的には山陽本線神戸方の宇部線への連絡線の用途に感じ、74年の航空写真にも線路用地は残存していて、宇部駅からの曲線とその先、そして山陽本線神戸方からの用地曲線部分とその先の短い直線終端部とは、いびつなエックス形状をしていて、新線か何かの増線計画の名残りにも見えます。
宇部駅も、ちょっとした交通の要衝だったようですが、宇部鉄道に船木鉄道、そして山陽本線沿線近隣に基幹産業の貨物を控え、時期的に軍需輸送計画の三角線跡だったかもしれません。

実は f54560zgさんの三角線発掘の呼びかけに、機関車用は柳井駅、列車用は佐々駅の佐世保寄りの分岐点がありました。
柳井駅は英賀保駅同様、線路跡が道路に転用されたみたいで、その痕跡を辿れ興味深いですね。
ただやはり、新発見のコメントは見識のある地元の方々のコメントに期待をしていたところもあり、今回のコメントとさせていただきました。

余談になりますが、この宇部駅付近に限りませんが、廃線跡の曲線部分が宅地等に転用された航空写真を見ていると、過去にその建物の空間に行き来していた車両、乗客、貨物等があったと想像すると、直線部分の廃線跡には感じ得ない不思議な気分になってしまいます。

ちょっと視点は変わりますが、機関区関係での戦時中の三角線増設理由は、連合軍の爆撃による転車台被害の代替のようですが、超大型爆撃機B29の航続距離や戦争末期における空母部隊の艦載機による被害想定での三角線新設だったのかとか想像しているのですが、いずれ鉄道趣味界と戦史趣味界のコラボレーションで研究者の方々に解明していただいたい分野です。

秩父のデルタ線現存末期にC58の転向に使用してました 当時終点三峰口駅には転車台が無く熊谷へ戻る列車はバックで秩父迄戻り秩父構内のデルタ線で方向転換してました 現在は三峰口駅に転車台が出来ましたのでバック運転は無くなりました

TNさん、貴重な情報ありがとうございます。撤去されたのか未成で終わったのかはわかりませんが、それとわかる痕跡は確認できますね。

E10さん、
宇部線については少々遠い位置のためあまりよく知らないのですが、鶴見線などと似て臨港線的な神秘を感じます。
柳井駅は記事に追加したいと思います。佐々駅は普通の分岐のように見えるのですが・・・。
>廃線跡の曲線部分
そうですよね、何とも不思議な気分になりますよね。私の場合は未成線(例えば南方貨物線)でも同じ気分になります(笑)。
転向目的の三角線についてはホントに専門家さんの登場を待ちたいですね。
yyoshikawaさん、秩父のデルタ線はSL運転にはまさに好都合だったのですね。

線路大好きでここに来ました。とても興味深い内容で楽しいです。

高崎線の籠原駅(西側)の熊谷側にこんなのもありました。
方向変換用ではなく初めは秩父セメント線が籠原駅側に。熊谷貨物ターミナル駅ができてからはそちらに線路が敷かれたのだと思います。
短期間でも双方に分岐できていたのかどうかは不明です。

http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1024035

ohanabatakesobaさん
私も正確には知らないのですが、経過から考えると一夜(?)にして切り替えを行ったのではないかと想像しています。

Y字に分岐させるとしても構内ではないので,おそらく一夜にして切り替えたと考えるのが妥当でしょうね
錆びた線路が籠原方に残されていた記憶はありますが

ohanabatakesobaさん、この付近は過去記事にしていますので、こちらもご覧くださいね。
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-d5a3.html

大網駅もそうでしたね。
今は貨物自体の廃止で両方の分岐駅の機能しか有りませんが、新茂原への出入りは、新小岩操(総武)成東(東金)大網(外房)新茂原で運用されてました。

多分すれ違いの気も・・(汗

ゆかわあきらさん、そのうち「本線のデルタ線」についても整理してみたいですね、

お久しぶりです。
過去記事の頃は子どもの頃の記憶なのでただただ懐かしいです。
ありがとうございます。

デルタ線を見つけました。

厚床駅
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=58129&isDetail=true

築別炭砿
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=155314&isDetail=true

旧樺太 古屯駅(ポベジノ)
49°50'16.3"N 142°49'03.1"E

旧樺太 雁門駅付近
49°55'30.8"N 143°16'21.1"E

これはスクープですね。
築別は左奥に三角線、名羽側に転車台のわずかな痕跡と、廃線派の方々と被っていたのが面白かったのですが、厚床駅に三角線とは、IPさんの視点の深さに敬服です。
グーグルアースで見ると今も敷地が健在で、路盤跡は農道になっているように見えます。
厚床には駐泊所があって私の中では好感度の高い車両基地でして、転車台と矩型庫の頃とピットのみの時に訪問していたのに、三角線の痕跡地面に立てなかったのは残念無念なのですが、海外にまで視野を広げられている IPさんの御尽力に深く感謝致します。

何処かにコメントしてるかもしれませんが改めてコメントします 日本の鉄道で最大規模のデルタ線?は新宿と名古屋と塩尻を頂点とした中央東線中央西線東海道本線を含めた三路線で構成されてますまあ半分冗談的な話ですが・・・
名鉄の枇杷島のデルタ線本線と犬山線の分岐と両線をむすぶ連絡線元々貨物列車用の線として敷設されました 多摩湖鐡道の萩山にもデルタ線が存在してました後に西武鉄道に合併しました後に萩山駅は移動萩山小川間に連絡線が開通後の拝島線の源になりましたが此処で突然小平小川東村山を頂点したデルタ線になりました
デルタ線では問題が発生します特に門題なのは電車です最近の電車ではジャンパー栓を連結器と一帯の車輛も有りますが以前は必ず位置が決まってましたし奇数方向偶数方向等が存在してましたのでデルタ線に入って方向が真反対に向いてしまいます 埼京線と湘南新宿ラインが共有する山手貨物線では両線の車輛は真逆に向いてます湘南新宿ラインは東海道本線から品鶴線(横須賀線)を通り蛇窪から大崎支線経由山手貨物線に向い其の侭大宮方面へ向かいますので東海道本線基準で編成を組んでます埼京線は山手線基準で編成を組んでますので山手線西側通過中は湘南新宿ラインと埼京線は編成向きが逆になってるのです 

IPさん
貴重な情報ありがとうございます。
厚床はデルタ線と転車台の両方が設備されていたんですね。

E10さん
三毛別の方まで確認されたんですね。さすが!

yyoshikawaさん
房総の循環急行でも同じような現象が発生していましたね。


岩国のは専用線から分岐しているんですね。
集合体恐怖症の私は爆弾の穴だらけで軽く気持ち悪くなりかけましたw

天鉄ヲタさん
おっしゃる通りですね。オソロシイです。

yyoshikawaさん

横から失礼します。
下関のデルタ線ですが、大陸連絡を担った戦前の特急「富士」「櫻」の編成全体の方転に使われたのではないでしょうか?
東京方でも行われていれば、下関側でも行われて当然だと思われます。

T.I さん
横から失礼します。現在の下関駅とその周辺は、昭和17年の関門トンネル開通に伴う駅の移転のために埋め立てられた土地です。大陸連絡の特別急行「富士」とデルタ線とは、仮に縁があったとしても戦時中のごく短期間です。移転前の旧下関駅における特急用客車の方転は、機関区とは別の客車ヤードに設けられた転車台で行われていたと考えられます。
当HPの記事「下関配線図」をご参照下さい。
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2019/03/post-ef3d.html

連投失礼します。
今さら思い出したのですが、富山地方鉄道の本線と立山線が分岐する寺田駅にも、分岐した先の両線の間に何やらデルタ線の痕跡?のような土地があります。月刊RM MODELS 2020年2月号特別付録「吉永陽一『空鉄』カレンダー」の7月の空撮写真で気付きました。今改めてGoogleマップの航空写真で見ると、やっぱり確認できます。
富山地鉄のことは全然知識がありませんが、ここにもデルタ線があったんでしょうか?

肝心なことを抜かしていました。関門トンネル開通に伴って「富士」は長崎行きになったので、やはり下関のデルタ線と「富士」の接点は無いことになりますね。

>クモイ103さん
富山地鉄の寺田駅のデルタ線らしきのは、Wikipediaによれば未成とのことです。

伊勢中川駅構内の「中川短絡線」も、デルタ線に該当すると思います。方向転換に使われる事はめったに無く、名阪甲特急(当時は「ビスターカー」今は「ひのとり」)の伊勢中川でのスイッチバック解消の為、設置されたとのこと。通ったことがありますが、曲線半径が小さいのかキーキーいってました。

moni5187 さん、情報ありがとうございます。私はWikipediaの引用はしませんが、参考文献が示されているので一応根拠のない噂話ではなさそうです。参考文献を確認する機会があれば、確かな情報として取り入れさせて頂きます。
未成のデルタ線としては西武鉄道の飯能が有名ですが、あれは駅構内でなく本線なのでしょうか?

伊勢中川は確かにそうですね。名阪特急にはむかし何度か乗ったことがあり、確かにキーキー言っていたような気がします。

とうわけで、伊勢中川の三角線(デルタ線)にまつわる思い出話です。

名阪甲特急が初代「アーバン・ライナー」だった1990年代半ば、全列車が名阪ノンストップではなく、朝は大和八木、夜は津と大和八木に止まる列車があって「おしぼり」配布サービスと車内販売も健在でした。

八木駅ホームの特急券売場で特急券を買うと最前列の壁前で、直前に買うからだと気付いたものの、次も懲りずに同じ様に買ったら最後列で隣客無しでした。若干揺れが多いものの見晴らしは最高で、近鉄観光のお姉さんがやって来て「ホットにアイス、珈琲はいかがですか~」で、思わずアイスを注文してしまいました。もう一度来た時は、大阪出るとき連れてって~の「たこ焼きはいかがですか~」でした。大阪線内はラッシュとは逆方向になる為か、びゅんびゅん飛ばしていました。

「中川短絡線」に入ると広告看板が林立していて、車輪を軋ませながら徐行する為じっくり見てもらえるから、だと納得しました。

名古屋線に入ってFMラジオのダイヤルを回していると、列車内の音楽サービスが受信できる事を偶然知りました。ラッシュ方向になり先がつかえている為か、まずまずの走りで「この道はいつか来た道~」のメロディが流れて名古屋に着きました。帰りもアーバンに乗ったら車窓からは暗くてよく見えないものの、ジョイント音から結構飛ばしていて、車内販売は「ワインにウイスキー、お飲み物はいかがですか~」で、バーテンダー装束のお兄さんでした。

皆様、たくさんのコメントありがとうございます。
下関、寺田、伊勢中川などの情報をいただきましたが、一番興味を惹かれたのは、思わず注文してしまったアイスコーヒーですね。

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