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2015年3月29日 (日)

東京~上野間配線図 その1

上野東京ラインの開通に合わせて(ちょっと遅いかも(汗))、東京~上野間の線路配線の変遷を見てみましょう。

まず最初に1935年(昭和10年)3月。

193503
・東京~上野間と言っておきながら申し訳ありません、東京(右側)~神田(左側)間のみです。
・東京~神田間には線路が(ほぼ)6線ありますが、中央線2線と山手・京浜線2線が本線で、他の2線は引上・留置用の側線です。
・この側線は神田駅北方で行き止まりとなっていますので、東京~上野を結ぶ線路は山手・京浜線の電車線の複線だけということになります。
・ただ、今月の鉄道ピクトリアル誌をみますと、
1)1925年(大正14年)4月に東京~上野間に電車線複線開通
2)1928年(昭和3年)4月に東京~上野間に列車線複線増設
との記述がありますので、そうであれば1935年時点では列車線複線が開通していたハズなのですが・・・。大きなナゾです。

続いて1951年(昭和26年)8月。

195108r
・東京~上野間に回送線が増設されました。ただし、東京~秋葉原間は単線で、秋葉原~上野間が複線です。
・このほか秋葉原~上野間には貨物線の「秋葉原線」の単線があります。

細かすぎてわかりづらいので拡大版を。

1951081
・パッと見、東京駅から上野方に進出できるのは5番線、6番線、8番線、9番線の4線のようです。上野方からの進入については場内信号機7Lなのですが、どの番線に進入可能なのかはよくわかりません。

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・中央付近の2Rが秋葉原駅の下り場内信号機ではないかと思われるのですが、そうするとこの2Rと先ほどの東京駅の上り場内信号機7Lとの間にある転てつ器13、14、15は停車場間に設けられているってことになるのでしょうか? またこれらの転てつ器はどの信号機によって鎖錠されるのでしょうか?

1951083
・回送線は複線となり、また秋葉原駅からは単線の秋葉原線も加わって5線で上野駅に向かいます。
・秋葉原線の貨物列車は上り本線に到着し、下り本線から出発のようですが、北1番線または北2番線あたりからも下りの出発が可能なようです。

1951084
・下り列車が進入できるのは4番線と5番線です。
・上り列車が進出できるのは、4番線~7番線っぽいですね。

次回に続きます。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

 この区間の線路増設はどういう風に施工されたのでしょう?
 列車線増設といっても高架構造物のことなのか、線路を使用開始したことか、もっと長期的な見通しがあったと考えたいのです。
 南側の東京~新橋は4線(現:山手・京浜東北)で建設され、後に2線(現:東海道)が追加されたことは明白ですが、北側のこちらは写真など見た遠くがありません。

 したがって引上線が行き止まりなのは当時の線路使用方であると推定したいところです。

 2Rは東京駅の下り第2出発ではありませんか? また2Lは東京駅上り第1場内と考えれば納得できます。
 秋葉原は列車線に関与しない電車駅だった筈です。現在の電留線も上野駅構内ですから これらを東京駅構内と考えると、ポイントの存在もうなづけます。
 また上野~東京の列車線は複線となってダイヤ構成が楽になります。ホーム使用効率が厳しいときは入口部分の複線は大きな効果があります(進出直後のホームへ次列車が直ちに進入できる)。

 当時の貨物駅は列車線から独立していますが、現在は電留線となって上野駅の構内です。

 1960年代の記憶では、東京駅北方の列車線は単線であり、もう1本は引上線として線路図のとおり数ブロックに区切られ、折返しに使用されていました。
 品川から来た回送列車は直ちに引上線に移動します。入換信号機による構内運転です。引上線に入ると機関車を南側へ付け替えます。機回しには本線を使用します。
 そうして待機する列車が数本も並ぶと壮観でした。いずれも関西・中国・九州をめざす優等列車
でブルートレインも含まれます。
 これらは先行列車がホームを離れるとすぐに進入してきます。構内運転ですから本線運転と雰囲気は変わりません。まさに急行・特急のラッシュアワーでした。
 こうなった理由は、ホームを長々と占領して機回しをする余裕がないことと、機回しで南側入口の本線を支障するためでしょう。各列車がこれを行うと支障時間は馬鹿になりません。
 でも機回しの11番線は廃止にならず、12番線以降はつづいて増設されています。このホーム間3線が残ったために、現在の北陸新幹線ホームにいたる新幹線ホームは現在の広さを確保出来ました。なければ新幹線ホームは現在より2m狭くなっていた筈です。
 功罪として、11番線が存在したため、12~19のホームを挟む乗り場番号(線番)が偶数・奇数の組合せになりました。18・19のように。
 私は違和感を覚えます。17・18の方が覚えやすく言いやすいのです。神経質すぎますか。

 何時も思うのですが日本最大の都会東京の真ん中に複々線や4~5複線区間が存在する不思議西日本最大の都会大阪では都心部の環状線ですら複線以上は存在せぬ(西側の旧西成線区は3線です)
 此れは東京と云う大都会の成立に関わるものと思われます 江戸時代幕府は江戸に各藩武家屋敷を作り各大名を住まわせた 大名屋敷は広大な敷地を擁していた更に上屋敷中屋敷下屋敷等存在していた 江戸市街の7割が此の武家地残りが一般の町人地でした更に日本最大の城郭である江戸城が江戸の真ん中に存在して居ました
 現在の山の手と云れておる地区は此の大名屋敷が多数存在していた 下町である日本橋神田上野浅草本所深川辺りが町人地であった
 明治になり廃藩置県で東京の武家地は全て無用になった 東京駅が作られた当時丸の内は嘗ての武家屋敷の跡地であった
 新橋から東京迄は江戸城の外堀に高架複々線を敷設した高架複々線を敷設しても外堀はまだ余裕が有り戦後の線増及び新幹線高速道路迄造れた 過去の遺産が後の時代に役立った
 中央線も神田川と外堀を利用して飯田町から萬世橋迄延長更に呉服橋迄延長山手線と直通運転された所謂の字運転化 秋葉原付近は明治初年に設けられた火除け地を利用して秋葉原貨物線を敷設した 後に東京上野間高架建設用地に此の火除け地を利用して敷設されたそんな関係で都心部に複々線以上の線路が敷設出来たのでしょう 東京の西側である山手沿線は開通当時街道筋の街を除くと人口密集地から外れていた 東京が西側に広がったのは関東大震災以降の事であり貨客分離も早い時代に出来たのです
 其れに比べ大阪は人口密集地に線路を引かねば成らずおのずと複線以上敷設出来なかったのではと思います

C6217さん、
>2Rは東京駅の下り第2出発ではありませんか? また2Lは東京駅上り第1場内と考えれば納得できます。
そうですね、それなら頷けますね。
yyoshikawaさん、格調高いコメントありがとうございます。線路のことを考えていくと武家屋敷にまで繋がっていくんですね(汗)。

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