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2014年12月27日 (土)

京浜急行高架橋

yyoshikawaさんより、その解体状況について何度かコメントをいただいている京浜急行(京急ではありません)の高架橋。

今回はこの高架橋の生い立ちについてのお話です。

昭和10年頃の東京~品川間の線路配線は、概略以下のようなイメージでした。

R
・この当時、東京~田町間は列車線と電車線の複々線でした。
・列車線は東海道線の列車(まだ80系は登場していませんので電機牽引の客車列車のみです)と横須賀線電車、電車線は京浜線電車と山手線電車という使い分けです。
・山手線の電車は環状運転、京浜線電車は桜木町駅~大宮駅間で運転を行っており、両者は田町~田端間で線路を共用していました。
・東京駅には客車操車場が、品川駅には貨車操車場が設けられていました。

増加する輸送量に対応するため、昭和9年に東京~品川間の線路増設が計画されました。
その内容は、
1)東京駅の列車着発能力向上のためのホーム3面増設
2)ホーム増設に伴う客操の品川移転
3)客操の品川移転に伴う貨操の新鶴見移転
4)東京~品川間の回送列車運転による線路容量不足解消のための東京~品川間複線増設(3複線化)
といったものでした。
大がかりな計画ですが、東京~品川間の3複線化はそれ以前にも何度か計画されては中止となった経緯があり、このため線増用地は大部分がすでに確保されていたようです。

この計画の中で興味深いのは増設される複線の使い方でして、
 ①横須賀線を列車線から分離し、増設線経由とする。
 ②京浜線に急行電車を運転し、これも増設線経由とする。
というものなんです。

具体的な線路配線のイメージは下図のようです。

R_2
・東京~浜松町間は方向別と線路別が組み合わされた3複線となり、浜松町~田町間及び田町~品川間において立体交差が新設されます。

一見しただけではわかりづらいですので、運転系統別に走行線路を見てみます。

●列車線
R_8

●横須賀線
R_9

●京浜急行線
R_10

●京浜緩行線
R_11

といった具合です。個人的には結構奇抜な印象が・・・。

この計画に従って工事は着工されたものの、またしても、と言うべきなのでしょうか、戦争の激化により昭和15年に中止されてしまいました。
この間、
1)東京駅のホーム1面のみ増設
2)客操の品川移転
3)貨操の新鶴見移転
については一応の完成をみましたが、
4)東京~品川間複線増設
については一部の構造物等が完成したのみで、線増完了には至りませんでした。

表題の「京浜急行高架橋」も一部が完成した構造物のひとつです。

Photo
・赤丸部分の立体交差がそれです。高架上に分岐が存在する、ちょっと複雑な高架橋となる予定でした。

R_12
・この高架橋、なんと配線図にも記載されているんです。遺構が記載されているというのもちょっと珍しいですね。

Tr_2
・YAHOO地図で見るとこんな感じ。

なお、浜松町~田町間の立体交差(こちらはトンネルのような構造だったようですが)も完成したのですが、こちらは早い段階で撤去されてしまったようです。

戦後になって再び線路増設計画が持ち上がりましたが、昭和9年の計画は見直されて京浜線と山手線を分離する形での計画に変更されました。これが実現して現在の姿になったわけで、結局高架橋は陽の目を見る機会を失ってしまいました。

以上のような経過を経て誕生し、それから70年以上にわたって未完成の姿を保ち続けていた「京浜急行高架橋」が、残念ながら姿を消そうとしているようです。

yyoshikawaさん、また現地レポートお願いしますね(笑)。

配線図の一部はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

 さっそくコメント致します東京方の部分は先日解体が終わり品川寄りの残り部分全体に足場がつくられております 足場を組んだあと多分その外側を仮壁で覆い多分新年早々に解体工事を行う模様です

鉄道ピクトリアル誌2000/11月号に、京浜急行線計画の概要とその顛末に関する記事があります。今回撤去される伊皿子留置線脇の乗越橋と同じく、横須賀線用に作られ未使用のまま戦後の山手京浜分離工事の際に撤去された浜松町ー田町間の乗越橋が映り込んだ写真等もあって、なかなか楽しい記事なのですが、分離運転の略図についてはモノクロページという制約もあって、あまり見やすいと言えるものではありませんでした。
今回f54560zgさんが作成された色分け線の略図は、非常にわかりやすくていいですね。

上り線から見えた工事中断に見えた不思議な高架橋の謎が解けました。戦前の東京駅での折り返しの配線は2段構えでユニークでしたね。

yyoshikawaさん、レポートありがとうございます。消え去るまであとわずか、といったところですね。
オーイナル野焼きさん、京葉帝都さん、今の姿しか知らない身にとっては、戦前の計画はかなり奇異に感じてしまいますね。

 正月明けに山手車内よりの観察で高架立ち上がりの擁壁土盛り部手前迄足場を組み一部は既に保護壁を張り休み明けには解体作業を始めるのでしょう

2015年3月14日から、
「上野東京ライン」にて、
常磐線からの
特急「ひたち」「ときわ」 が、
品川駅まで来て(=始発&終着)、
途中、東京駅に「停車」します。
(既に、品川駅の「臨時ホーム」+ほか、
    構内配線が変更 されていますね。)

田町~品川=2.2kmに
新駅を設けるため の工事&再開発 で、
工事をしている「現況」も ありますね。

「認可 済」で、過日より、
品川=中央リニア新幹線 の
大深度地下駅工事 も、ようやく始まった そう。

 京浜急行線高架橋追伸今日遂に新年最初の解体作業が開始されました先端部を重機で壊し始めておりました

yyoshikawaさん、現地レポートありがとうございます。
名無しさん、変化についていけそうもありません(汗)。

 昨日ついに京浜急行線高架の残り部分が略消滅しました残分部は取り付け勾配部のみで其れも来週始めには完全に消滅する模様です
 

y yoshikawaさん、現地レポートありがとうございます。来週あたりが最後ですか・・・。

私も本日解体工事を確認しました。
その建設現場においては事変のしわ寄せも多々あったと思います。でも当時のコンクリート調整は現在のそれと比して仕込みが丁寧で、たとえ技術の進歩があったにせよ、その建造物は現在のものよりも強度に冨み、長年の経年変化に耐えると言われています。
あくまで主観になりますが、平成の御世においてもパッと見70年以上という年月を感じられなかったことも、その証明ではないのかと。
実際相当な強度があったのでしょうか、思っていた以上に未だ構造物が残っていたことは幸いでした。

 配線図と関係無い話ですが 1950年代以前の鉄筋コンクリート構造物はコンクリを現場で捏ねており強度面では確実で有りましたコンクリートは御承知の如くセメント砂砂利を水で混ぜ合わせ固めて作りだします 此の混ぜる時間が掛かると強度が落ちてしまうのです
 少なくとも1950年代頃迄のコンクリート製構造物は強度面では申し分無いものでした 事実とある戦前に建てられたビルが古くなり解体した処コンクリートは強度面では充分であったと言う話を聞いた事が有りました 
 

オーイナル野焼きさん、yyoshikawaさん、首都高速や新幹線高架橋などと違って昔のものは丈夫だったんですね。

 基本コンクリートはセメント砂利砂を混ぜ水で溶いた時点から打ち込む迄の時間が其の後の強度に影響します本来建設現場でコンクリートを作るのが理想でしたが高度成長時代になり生コン工場で製造してミキサー車で混ぜながら運ぶ様になり渋滞等に巻き込まれ打ち込む迄時間が掛かると其れだけで強度が低下してしまうのです
 本来コンクリートは半永久と云われておりましたローマ時代の建築物にも使われており今でもきちんと残っております 長崎の軍艦島の日本最古の鉄筋コンクリートの高層住宅も今だ健在です 高度経済成長時代のビル群が長寿命かは定かでは有りません

yyoshikawaさん、コンクリートにお詳しいですね(笑)。ひょっとしてその関係のお仕事だったとか・・・。

 今日の時点で勾配アプローチ分部山手京浜東北線側は建設用擁壁工事が始まりました来週には完全消滅するものと思われます

 先達て解体された高架橋の基礎部分の掘り起し作業が始まりました 勾配取り付き部の擁壁分部は今だ手付かずです
 最近気付いたのですが此の取り付け部可也早い時期に分部的に取り壊され構内詰所が建てられいました 其処には架線柱が一本建っております おそらく京浜急行線完成の折架線柱になるはずだったのでしょう 歴史の証人でしょうか

yyoshikawaさん、まさに生き証人の架線柱ですね。

 最近ふと旧田町電車区構内列車内から見て居りまと気付いた事が有ります高架線裏の検車区建屋跡の線路付コンクリート床がまだ其の侭の状態で遺っております重機で簡単に堀起こせるのに未だ手付かずで残ってます 京浜急行高架線高架部も土中の部分は今だに掘り起こされてません
 旧構内東海道上り線脇のコンクリート製車止めも二つ墓石の如く基からの位置に残っております

 今朝京浜急行高架線立ち上がり部にパワーショベル2台上りコンクリート擁壁内の土砂を取り出し始めました愈々消滅真近となりました

yyoshikawaさん、悲しい光景ですが、それでも日々その変化を観察できる環境にいらっしゃることはうらやましい・・・。

 状況報告 海側の擁壁を崩し始めた様です 近じか裏側から観察して観ようと思います(常磐方面行列車に乗車すれば観察可能です)

 状況報告今日品川発常磐快速に乗車京浜急行高架取り付き部の解体状況を見て来ました
 海側の擁壁は既に重機で壊され中の土砂を堀出し終えた状況でした 後は山側の擁壁の重機による解体をもって完了される模様今週末には姿を消します

 悲しいお知らせ 京浜急行線高架線取り付け部も遂に消滅して瓦礫の山となりました 
 当たり前に存在して居た物が消えて無くなると何か心に穴が開いてしまった様です
 以前或る人が冗談半分に京浜急行高架線は弾丸列車の為の用地だと真しやかかに述べて居ました
 田町電車区の鋸屋根建屋と其の脇の京浜急行用高架線見慣れた風景の消滅と新たなる飛躍への期待で状況レポートを締めくくります

 さて京浜急行高架完全解体に伴い此の先東海道本線上り線及び山手京浜東北線の海側移転と新駅開設と云う手順 其の後土地の再開発を開始するのでしょう 京浜東北線乗り越し線部は其の侭使用される模様です
 
 

yyoshikawaさん、ありがとうございます。いただいた写真で記事を作成させていただきますね。

大正時代中期鐡道省は初めて長距離電車の運転を計画しました大型断面の100Kw電動器木造二扉セミクロスシート車を投入 後の湘南電車の原形となるか画期的な車輛でした だが計画途中で関東大震災が起き計画は頓挫震災前に製造されたニ扉セミクロス車は二等付随車を除き全て三扉ロングシートの通勤車に改造消滅しました九州鐵道が国有化直前に発注した或る列車になぞらえて或る電車と述べた大先輩が居られました 此のニ扉セミクロス電車の模型は大宮鉄道博物館に収蔵されております 長距離電車は横須賀線の電車化で実現其の後阪神間電車化等で開花するも太平洋戦争影響で其れ以上は望めない
京浜急行線はそんな時代になる直前に計画されたプロジェクトでした
意外でしょうけれど都心部の東京駅新橋駅間は江戸城外堀に煉瓦高架で当初開業新橋駅品川駅間は略海岸線と一部武家屋敷跡等利用してた関係で用地取得は今程難しはなかった 特に東京新橋間は外堀に複々線を開通しても未だ堀は有り線増用地には事かかなかった戦後の三複線化の折も高速道路の建設新幹線の建設にも外堀は利用されました
東京という日本最大の都市の都心に長大な複々線や三複線等が引けたのには江戸時代からの遺産が有ればこそ実現出来た事です
関東大震災前は東京の人口の大半は台東江東墨田中央等に集中していたので今日に比べ用地の取得は難しくなかったと云う時代背景があったからでしょう

yyoshikawaさん、都市部での線増工事といったら用地確保が大変なのが容易に想像できますが、お堀を有効利用できたのは超ラッキーだったのですね。東京駅中央線ホームの重層化とか上野東京ラインとかはずいぶん苦労したのでは、と思いますが。

上野東京ラインは当初東北上越新幹線高架工事時複層構造化出来る状態で工事を進めましたが当時の上野東京連絡線に関しては工事凍結に合い其の侭立ち消えとなっていました
其の後JREは利便性を考え東海道本線と宇都宮線高崎線常磐線とを直通出来る様工事凍結されていた上野東京間の工事を再開開業にこぎつけました此れにより乗客の利便性は向上しました

yyoshikawaさん、埼京線やら湘南新宿ラインやらで山手線西半分が重視されてきたように感じていたのですが、上野東京ラインで東半分もかなり便利になりましたね。

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