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2014年9月10日 (水)

碓氷峠の架線電圧

今までは下のほう(線路)ばかりに目を向けてきましたが、今回は上のほう(架線)のお話です。アプト廃止前後の横川~軽井沢間は、線路だけでなく架線も興味深いのです。

碓氷峠前後の区間の電化の歴史は、
・1912(M45)年5月 横川~軽井沢間   600V 第3軌条 
・1962(S37)年7月 高崎~横川間    1500V 架空電車線
・1963(S38)年6月 軽井沢~長野間   1500V 架空電車線
です。

横川~軽井沢間については基本的には上記の通り第3軌条なのですが、横川駅、軽井沢駅の構内では着発線や機関区など一部には架線も張られていました。もちろん600Vです。

ということは、高崎~横川間及び軽井沢~長野間が1500Vで電化されてからアプトが廃止されるまでの間は、当然横川駅、軽井沢駅構内の着発線や機関区の架線電圧は600Vのはずですので、
①どこかに600Vと1500Vの境界があったということ?
②1500V車が600V区間に進入できるの?
という素朴な疑問が湧いてきます。

このあたりの疑問を解くために、最近の記事に書きましたようなアプト廃止前後の状況が掲載された鉄道趣味誌等を結構気合を入れて調べてみたのですが、架線電圧についての資料はほとんどありませんで、唯一見つけたのは、鉄道ピクトリアル誌1988年4月号のP43に記載された文章です。

そこには以下のように記述されています。

「なお37年7月15日には、高崎-横川間の電化が完成して、EF58形等の電気機関車が横川まで乗り入れているが、横川構内は直流600Vの電車線であるため、横川の入口にセクションを設けた。したがって、構内は1500Vの電気機関車でも600Vで運転された。また、丸山信号場方は信号場まで600Vで、新線に入ったところにセクションを設け1500Vに切換えていた。試運転、試験列車は横川からここまで片パンで運転し、新線の1500V区間で両パンにしていた(新・旧線併用時は全区間片パンで運行した)。」

まず①の疑問についてですが、上記の記述には軽井沢駅や矢ケ崎信号場の様子については触れられていませんが、横川駅、丸山信号場と同様として扱いますと、架線電圧の状況は以下のようであることになります。

R

1)アプト時代は横川~軽井沢間は第3軌条600V、さらに横川・軽井沢構内は架線電圧600V。

2)粘着新線が一部完成してEF62・EF63の試運転が行われる頃は、横川~丸山(信)間は架線電圧600V。丸山(信)の直江津寄りにセクションが設けられて新線区間は架線電圧1500V。

3)横川電化においては横川の高崎寄りにセクションが設けられ、横川構内の架線電圧は600Vのまま。

4)長野電化に際しても同様に軽井沢の直江津寄りにセクションが設けられ、軽井沢構内の架線電圧は600Vのまま。

5)アプト・粘着単線並列の新旧併用時代は矢ケ崎(信)から軽井沢間は架線電圧600Vで、矢ケ崎(信)の高崎寄りにセクションが設けられる。したがって架線電圧1500Vは丸山(信)の直江津寄りから矢ケ崎(信)の高崎寄りまで。この場合、熊ノ平の上り線ではED42は1500Vの架線の下を走ることになる。

6)アプト廃止により横川~軽井沢間すべてが架線電圧1500Vとなる。

正直なところ、「ホント?」と言う感じはするのですが、いかんせん他に資料が見当たりません。

また、さらに新たな疑問が湧いてきます。
2)で、何で横川~丸山(信)間の架線電圧を1500Vとせずに600Vとしたのか、ですね。ED42が1500Vの架線の下を走ることを避けたかったのでしょうか。もしそうであれば5)では熊ノ平構内の架線電圧は600Vとし、その前後にセクションが設けられていたかもしれません。

次に②の疑問についてですが、前述の文献ではあっさりと「1500Vの電気機関車でも600Vで運転された」と書かれていますので、少なくとも電機(EF58だけでなくEF62やEF63も)は進入可能(もちろん十分な性能は発揮できないとは思いますが)、ということでしょうか。
また高崎~横川間には旧型国電によるローカル列車も設定されていましたので、これらも進入可能、なんでしょうね。
ただ、ちょっと気になるのは前回の記事でご紹介した準急「軽井沢」なんです。この列車、80系なんです。1963(S38)年7月といえば、新前橋電車区には落成したばかりの165系が80両以上も配置されていたんです。なんで準急「軽井沢」にこれらピカピカの165系を使わずにあえて旧型の80系を使ったのでしょうか。新線開通の祝賀電車なのに。
また、鉄道ピクトリアル1963年8月号P30には長野電化に関連した「試運転電車試乗記」と題された記事があり、165系13両編成による試運転列車7341Mの試乗レポートがつづられているのですが、この7341M、運転区間が中軽井沢→長野なんです。軽井沢には入らないんです。これもちょっと気になります。

80系の場合は、過去に伊豆箱根鉄道に乗り入れした事例もありますので、ある程度性能に目をつぶれば600V区間にも進入可能なんでしょうが、ひょっとしたら新性能の165系は600V区間には進入できなかったのではないか、なんて考えてしまうんですよね(本当かどうかは知りませんが(汗))。

それと、片パン・両パンの記述ですが、いろいろな鉄道趣味誌に掲載されている新旧併用時代の準急「軽井沢」の写真をみますと、補機のEF63はほとんどは両パンですね。ですので先の文章の「新・旧線併用時は全区間片パンで運行した」と言う記述には「?」が付きます。(それ以前に600Vと片パンの関係もよくわかっていませんが(汗))。

アプトのエントランスの写真はあちこちで見かけることができたにもかかわらず、600V/1500Vのセクションの写真はついに見つけることができなかったように、線路に比べると架線電圧に関する情報はごくごくわずかでした。このあたり、詳しい方がいらっしゃいましたら是非お聞きしたいですね。

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コメント

 当時の車両関係の資料を探しましたが詳細はわかりません。

 600V・1500V両区間に乗り入れる電車は80系が選定され6両編成5本が対応工事を受けました。
 主回路(走行モーターと制御器)は出力が低下するのみで支障はありません。ただし旧型電車の話で、新型の165系は600Vでは保安装置が動作して運転不能となります。
 空気圧縮機も機能低下するのみで運転可能です。これは消費量をカバーするのにやっとであり、空気を乱用しないよう注意がありました。
 問題は補助電源であるMG(電動発電機)です。1500Vのモーターで100Vの発電機を駆動して100V電源を発生する機器です。
 架線電圧と負荷は大幅に変動するため、MGには架線電圧と負荷の変動に応じる調整装置があります。発生電圧を100Vに保つものです。
 試験の結果、80系のMGはこの調整装置のおかげで架線電圧600Vでもなんとか100Vを発生することが確認されました。一部のMGがダウンしても残りで運転継続できるという判断で営業運転に踏み切ったものです。(6両編成にMG4基)
 これも165系のMGでは不可能なことです。昔の機器はずいぶんタフだったわけで大したものですね。人間もそうでしょうか?

 デッドセクションをまたぐ時に備えて1500Vの引き通し回路はカットされました。バンタがジャンプすれば即火花発生となります。
 また通過駅でのタブレット授受に備えて最前部客室ドアのガラスが鉄板に変えられています。小さい窓は残っていますが。

 電気機関車についての資料は手元にありません。どなたかお願いします。電車より精密な構造なのでそのままで入線したとは思えません。

 質問です。アプト時代に横川と軽井沢での第3軌条とパンタの切換はどこで行っていたのですか? 機関区出区のとき? 列車に連結したとき?


 書き忘れました。EF62・EF63はパンタの集電容量の関係で片パン運転はあり得ません。回送重連のとき片パンとした次位機はノッチ制限をしています。

>新・旧線併用時は全区間片パンで運行
 同じ記事をWEB化したらしいサイトでは 
http://ktymtskz.my.coocan.jp/usui/ef63.htm
 新・旧線併用時は全区間2個バンタで運行 
となっています。
 それから、両変電所の側線ですが、10000(EC40)形電気機関車が、制御回路用の蓄電池を相当数搭載していて、しかも機関車内には充電回路がなかったようなんです。定期的に変電所に寄って、交換する必要があったのかな、と思うのですが、参考雑誌に何か書いてないでしょうか。
(ググテツ)

鉄道ピクトリアルの記事をまとめた「日本電気機関車特集集成(上)」の144~145ページに、

「信越本線 高崎ー横川間電化工事の概要

佐々木貢(国鉄本社電気局電気課)」

が載っており、「横川電化の問題点」の項で、デッドセクションのことが触れられています。以下引用です。

「横川駅の場内信号機の内方に、交直接続区間で使用しているような長さ26mのデッドセクションを設けて、キ電区分し、電気車はこの区分間をノッチオフして通過し、横川駅構内では600Vで運転することにした。今のところでは600V区間でも運転はできるが、コンプレッサーの働きが悪いので、横川ではなるべく長時間の停泊は避ける方針である。

機関車に関しては、パンタ間隔がセクション長より短いので問題ないが、電車の通過する場合は車両内のブスによって短絡されることになる。このため、やむを得ず高崎停車時に車両のディスコンを開放して、ブスを分離することにした。」

とありました。ただ、当記事に、残念ながら、デッドセクションの写真はありませんでした。

1963(S38)年7月といえば、新前橋電車区には落成したばかりの165系が80両以上も配置されていたんです。なんで準急「軽井沢」にこれらピカピカの165系を使わずにあえて旧型の80系を使ったのでしょうか。空気バネ台車だと、台車の上に空気バネ(風船)上に車体が乗るので、勾配突入ご走行時では、車輪の粘着力が少なくなり押している機関車の上方にものすごい力が掛かります。押されている車両も浮き上がりやすくなります。。新線が出来試運転試験時の新しい電気機関車の実験時の記録を書名を忘れましたが読んだ事が有ります。このために横川駅や軽井沢駅に到着時、空気ばねの空気を抜きました。この作業をする事により空気バネ車の勾配走行時、車輪の粘着力が増し推進時(勾配途中の連結時)安全が保たれます。初期の頃はこの”からくり”が出来なかったので、コイルバネや板バネを使用した台車の車両をあえて使っていました。この”からくり”が出来る車両には側面の車両番号の前に●が付いていました。時は立ち協調運転が出来る様になりましたが、”連結輌数が制限をされてしまい多客時は増結が出来ず、この区間特有の増発もしにくい状態”とホームにいた連結係りの方が親切に教えてくれました。

 暇人通信 碓氷電化当初未だ直流高電圧技術は確立されておらず当時の最高電圧は600V(当時の路面電車等も同じ電圧でした) 第三軌道集電方式にしたのはトンネル断面が小さい為架線が張れぬ為第三軌道で電化した(唯後の地下鉄での第三軌道集電と違い碓氷では第三軌道の送電レール下面に集電シューが触れて集電する方式下面集電でした)低電圧ですと高電流になり感電事故の危険が有り横川機関区構内は架線集電で対応した(古い絵葉書等では軽井沢構内は第三軌道であった様です)新線切り替え時新線は当然架線集電旧線は第三軌道集電横川駅構内のみ低電圧であったのではと思うのですがどうでしょうか 余談ですが直流の1500V600Vのデットセクションは見た事有りますが割と簡単な絶縁材でトロリー線同士を繫いだだけでした 名鉄新岐阜駅各務原線と岐阜市内線の連絡線との接続部にデットセクションが有りました

コメントを下さった皆様、ありがとうございます。
別途記事を書きましたが、結局のところ「600Vだから165系は不可」という感じはしないような気がします。電圧の件はあらかじめ想定されていたわけですが、これ以外に直前になって発覚した問題への対応を急遽行う必要が生じたため、7/15の165系はあきらめて10/1に狙いを定めた、といったような・・・。

C6217さん、おっしゃる通りMGは問題だったようですね。
第3軌条とパンタの切換は両駅の着発線だったようです。横川で言えば出庫してきて列車に連結後にパンタを降ろしていたようです。
https://www.youtube.com/watch?v=G21xjvX240s
の8'36"あたりから、連続はしていませんが流れからは補機連結→パンタ降下→発車のように見て取れます。
また7/15の新線開通当日に横川を発車する祝賀列車の写真があり、これには連結面のパンタだけを上げたEF63(つまり下-上-上-下状態)が写っています。ただし同じ日に新線区間で撮影された写真もあるのですが、これは両パンなんですよね・・・。新線に入ったところで片パン→両パンに切り替えたってこと?

ググテツさん、ちょっとびっくり。ご紹介いただいたサイト、たしかにほとんどの部分は鉄道ピクトリアル1988年4月号のコピペなのですが、当該部分だけは書き直されていますね。まあ前述の通り、どちらにしても事実とは異なるような気がします。
丸山と矢ケ崎の変電所側線ですが、おっしゃる通りEC40は定期的(2往復ごと)に蓄電池を交換していたようです。ただしそれは横川に設けられた充電所で行われ、変電所とは無関係のようです(RM
LIBRARY 40)

KASAさん、国鉄内で600V-1500Vのセクションって珍しいかと思うのですが、意外に注目はされていないんですね。

deha1000さん、空気ばねの関係については文献が見当たらなかったのですが、やはり改造が間に合わなかったということなのでしょうか。

yyoshikawaさん、少なくともED42の時代では軽井沢構内にも架線は張られていたようでです。横川構内が600Vなのは理解できるのですが、横川~丸山間も600Vというのが腑に落ちないのです。

 追記 はあさんの鉄道よしな草ホームページの目次にアブト式碓氷峠1962と云う見出しが有り中を開けると横川駅の丸山側から丁度峠を下って来た旅客列車が横川駅に進入する所を撮影した写真が有り ED41が第三軌道集電で峠を下りて来てる様子が写されてます 横川構内外れに架線柱の最末端が建ってます更に第四種踏切も写し込まれている 踏切部では第三軌道は切れており歩行者は安全に渡れる 写真の撮影された時期は冬場らしく後部補機の前に暖房車ヌ200が連結されてます 此の写真からアブト時代の碓氷線では横川軽井沢両駅構内のみ架線集電峠の登坂部は第三軌道集電であった丸山信号所も当然第三軌道であった 粘着登坂とアブト登坂を併用していた時もアブト線は第三軌道集電600V 粘着線は架線集電1500Vで両者間の電圧問題は関係なかったと思います 横川と軽井沢の駅構内のみ併用時代は如何だったのか疑問です

 架線と第3軌条の切換の説明、ありがとうございました。多分と思っていた想像があたってうれしいことです。
 MGのこと、高性能機器になるほど想定外の状況に弱いことが確認できて目からウロコです。

 ひょっとしたら、これ? 
http://dailylifetetu.blogspot.jp/2012/09/ed42.html
 の写真の、2番目の架線トラスの下り線側に、斜め線の標識のようなものが見えます。
 これがそれなら、渡り線が移動したことが納得できるのですが。
(ググテツ)

横川〜丸山間の架線が600Vだったという件ですが、理由はやはりED42が1500Vの下を走るのを避けるためではないでしょうか。
万が一誤操作で1500Vの架線の下でパンタを上げてしまったら、ED42を通じて600Vの第三軌条と1500Vの架線が短絡するので、悪くすると車両火災とかの恐れもあるかと思います。いずれにしろ自走不能になるわけで、66.7‰の勾配上では絶対避けるべき事態、と判断されたのではないかと想像します

y yoshikawaさん、そうなんですよね、横川と軽井沢の駅構内のみ併用時代が疑問なんですよね。
C6217さん、旧型車って案外頑丈なんですね(笑)。
ググテツさん、この写真はかなり横川駅に近い場所だと思いますので、ちょっと違うかも。
名無し信通区さん、私もそれぐらいしか思い浮かばないんですよね。

>かなり横川駅に近い場所
 そうなんです。そこにデッドセクションらしきものが見えるんです。こちらも見て下さい。 
http://blogs.yahoo.co.jp/twkdal/16818405.html
 1枚目が先日の写真のちょうど裏側から撮られたもので、2番目の架線トラスの手前に絶縁ジョイントらしきものが見えます。場所は横川駅出口のカーブの先の、踏切のあるわずかな直線部付近。ですので、丸山信号場付近のセクションとは別のものです。
 1963年(昭和38年)年9月22日撮影という先日の写真を見つけて、新線開通の頃にセクションが移動され、丸山信号場の渡り線も移動されて新線に直通できるようになった、という可能性を考えたわけです。上の写真も同年8月3日撮影ですので、これで可能性が強まったと思ったのですが、次の写真を見つけて、また混乱しました。
http://blog.goo.ne.jp/kiza2/e/45389f2e54092c671604caacedb19f63
 こちらは、1962年(昭和37年)年8月8日撮影とされています。2番目の架線トラスに上り線デッドセクションの標識が見えます。こんなに早くセクションが移動していたのなら、渡り線の移動とは関係がないことになります。

 そこでまた、浅知恵を絞って考えました。以下は、資料の裏付けのない推定(仮説・我説)です。
1) 試運転開始の頃 1962年(昭和37年)年6月
 架線を、横川から丸山信号場渡り線までのAセクション、丸山信号場の停止区間から新線手前までのBセクション、新線(試運転線)部分のCセクションとして、まずAセクションとBセクションに丸山変電所からの600Vをつないでもらって、試運転列車は片パンで横川から丸山信号場までしずしずと進み停止位置で停まります。丸山変電所からの600Vを切って、BセクションとCセクションに横川変電所(新設)からの1500Vをつないでもらって、両パンにします。試運転線への入線許可をもらって試運転列車が試運転線に入ったら、Bセクションの1500Vは切っておきます。帰りは逆手順で横川に戻り、すべてのセクションの架線が無電になります。
 つまり、Bセクションは 600V-1500V の切換セクション。各セクションとも必要なときだけ電気を供給し、通常は無電です。試運転は1日1回あるかないかですので、これでよろしいかと。
 長くなりそうですので、続きはまた。(ググテツ)

 浅知恵の推定(仮説・我説)の続きです。
 試運転開始の頃に、横川から丸山信号場までの区間が600Vで運転されたのは、軌道が対応していなかったためと考えます。勾配25パーミルといえども、新型機関車重連・三重連で大荷重を押し上げるには。重量と粘着力の反作用を支える軌道が必要ですし、電気的には機関車力行時の電流を変電所に戻す大容量の帰線とそれに応じた軌道回路設備が必要になります。
2) セクションの移動 1962年(昭和37年)年7月ないしは8月始め
 1962年(昭和37年)年7月15日に高崎横川間の電化営業が始まります。非電化区間の電化工事でしたから、軌道も電化対応に改修する必要がありました。横川駅構内も本線は大電流対応の軌道と架線に交換し、高崎方からの電車・電気機関車の運行や丸山方への新線運行に備えます。それらの工事が終わってから横川丸山間の軌道が新線規格に改修され、横川方にデッドセクションが設置されて1500V運転の準備が整います。横川丸山間の軌道が後回しにされたのは、単純に、高崎横川間が優先されたためと考えます。
 試運転列車は、AセクションとBセクション(もはや一体ですが)に1500Vをつないでもらって、横川駅本線で両パンにして、デッドセクションをノッチオフ(パンタ回路断)で惰性通過し、その後1500V運転で丸山信号場に向かいます。荷重を押し上げる際も遠慮なく力行運転ができます。試運転線への直通はまだできないようですので、丸山信号場で一旦停止して、Cセクションに1500Vをつないでもらって、入線許可をもらって試運転線に入ります。試運転列車が試運転線に入ったら、丸山信号場までの1500Vは切っておきます。やはり、各セクションとも必要なときだけ電気を供給し、通常は無電です。
 この時点で気になるのは、横川駅構内での600V電力の増加に丸山変電所が対応できたのかどうかです。丸山変電所に余力があったのならそれでいいですが、もし余力がなかったのなら、横川駅構内の600V電力を横川変電所から供給し、丸山変電所は横川駅構内出口より先のサードレールを担当するように配電区分を変更した、ということにしておきます。
 片パンと両パンの違いは、単純に、片パンでは使用電流に制限がかかるので、大電流を使うことがない、従って、大電流対応になっていないところでも架線の電圧降下や線路の電圧上昇が軽減される、と解釈しておきます。
 浅知恵の推定(仮説・我説)ですのでご容赦を。
 続きはまた、書けたら書きますが、妄想もいい加減にしろとお叱りを受けるようでしたら差し控えます(ググテツ)

ググテツさん、横川駅近くのセクションの写真、よく見つけられましたね、すごいです。
ぜひ続きをお願いします。

 また、浅知恵の推定(仮説・我説)の続きです。
 新線の大規模土木工事の竣工は、最初が新碓氷第1隧道(後の上り線)の昭和37年10月20日、最後が新碓氷川橋梁(後の上り線)の昭和38年3月31日(現地の銘板を元に記述されたサイトによる、URLは紹介しません)らしいので、新線全体が竣工する前に試運転線が延伸(トンネル内で折り返し)された可能性は低いと思います。「丸山信号場配線図」のところで紹介してくださった記事のように、『1963(S38)/5/1 第1ずい道出口まで完成』の時点で線路がつながったのでしょう。
 試運転線は66.7パーミルの最急勾配区間で旧線と並行するように敷設されていますが、旧線の丸山エントランスのような緩勾配区間を必要としませんので、丸山信号場のすぐ先から霧積川橋梁を越えるあたりまで48パーミル勾配にして、旧線よりも高い位置を通っています。旧線のレンガアーチ橋梁の基礎に影響しないよう霧積川橋梁を旧線との間隔を離して建設したため、その先にS字カーブを設置して旧線と並行させています。このS字カーブを試運転線から見下ろした写真があって(「国鉄・JR 悲運の車両たち」39ページ、立ち読みです)、距離感がつかめないせいか、万一のための避線設備のようにも見えてしまいます。
3) 丸山信号場の渡り線の移動 1963年(昭和38年)5月始め
 新線が竣工し、1963年(昭和38年)5月13日に、いわゆるオイラン列車が横川軽井沢間を往復しています。日付としては、長野軽井沢間の電化営業開始より前ですが、あらかじめ矢ケ崎から軽井沢駅構内の本線部分は大電流対応の軌道と架線に交換され、信号その他の保安設備も整えられて、丸山信号場の渡り線が信号に従って直通できるように移動されたものと考えます。矢ケ崎には軽井沢変電所(矢ケ崎変電所とは線路をはさんで反対側)が新設されて、新線への1500Vを(もしかしたら軽井沢駅構内の600Vも)まかないます。
 軽井沢駅構内の600Vと新線の1500Vの間のどこかにデッドセクションがあるはずですが、写真での確認はできていません。一番可能性が高いのは矢ケ崎踏切あたりです。踏切でサードレールが切れているから、配電区分にはちょうどいい、というだけの理由です。「矢ケ崎信号場配線図」のところで紹介していただいたサイトの下段左の写真の右奥のほうとか、こちらの方の
http://jorctk.cocolog-nifty.com/blog/2013/11/38-95c3.html
下から2枚目の写真の左奥のほうとかになります。(この方は、昭和38年の春休み、と記憶されていますが、夏休みかもしれません)。
 それ以後、4) 長野軽井沢間電化 1963年(昭和38年)6月21日:軽井沢駅長野方出口にデッドセクション設置。写真での確認はできていません。この時点で、長野方から軽井沢駅に電車は入らない? 軽井沢駅でのセレモニーもない?
 5) 粘着新線開業(アプト線併用)1963年(昭和38年)7月15日:横川方からの80系電車が軽井沢駅に入った初めての営業電車?
 6) アプト線廃止 1963年(昭和38年)9月末:横川駅構内、軽井沢駅構内1500V化でデッドセクション廃止。ここまでデッドセクションの移動はなかったものと考えます。

 デッドセクションでもうひとつ。横川機関区の片隅のデッドセクションです。
http://umemado.blogspot.jp/2011/08/blog-post_11.html
の一番下の写真。左側の奥が EF63 が始業点検するための 600V-1500V の切換セクションになっているように思います。

 ところで、「碓氷新線と165系」で紹介して下さった記事を読んで思ったのですが、38年2月以前には新旧両線を併用する予定はなく、新線開業と同時に旧線廃止のはずだったのでしょうか?

 以上、長々と失礼いたしました(ググテツ)

ググテツさん、大作ありがとうございます。
以前からちょっと気になっていたことについて質問が・・・。
鉄道ピクトリアル1963年9月号P14に、7月15日横川駅を発車直後の祝賀電車準急軽井沢1号の写真があるのですが、EF63は片パン(横川方補機は軽井沢方のパンタのみ上昇、軽井沢方補機は横川方のパンタのみ上昇)なんです。
ところが鉄道ピクトリアル1963年11月号P8には、丸山信~熊ノ平間で同じ7月15日に撮影された祝賀電車の写真があるのですが、こちらのEF63は両パンなんです。
ということは、丸山信でいったん停車して片パン→両パンに切り替えていた、ということなんでしょうか。

すみません、書き忘れました。
>新線開業と同時に旧線廃止
当初はその予定だったようです。問題が発覚したためやむなく新旧併用としたようですね。

>横川駅を発車直後...EF63は片パン
 困りましたね。横川を片パンで出てしまったら、丸山信号場で運転停車して両パンにするしかないでしょうね。私はこちらの
http://members3.jcom.home.ne.jp/railservice/jnr9.html
下から4枚目の写真のEF63重連を、訓練運転で横川から軽井沢に到着したところと解釈して、600V構内でも本線業務は両パンでOKと判断しておりました。横川駅構内と軽井沢駅構内では事情が違うのかな。ナゾは増すばかりです(ググテツ)

ググテツさん、確かに両パンですね。おっしゃる通り横川駅構内と軽井沢駅構内では事情が違うのかもしれませんね。

こんばんは。
こちらの記事、興味深く拝見しました。
戦後、本格的に各地の在来線の輸送改善が進められた時代には、混沌とした状況もあちこちにあったのだろうと想像しています。
ただ、直流600Vは国鉄線には他になかったのではないかと思いますので、こちらの記事の状況は碓氷峠特有の状況でもありますね。
コメントも拝見しましたが、急な坂を上り下りしなければならないという碓氷峠特有の条件下、最大限安全を確保するための方策や設備になっているのだろうと感じました。
今後とも、宜しくお願い致します。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

風旅記さん、碓氷峠は本当に例外中の例外路線でしたね。非合理的なのはわかるのですが、廃止されてしまったのは非常に寂しいことでした。

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