丸山信号場配線図
碓氷峠に関する過去の記事に以下のことを書きました。
>1963年から1966年の間には
>1)アプト単線
>2)アプト・粘着単線並列
>3)粘着単線
>4)粘着複線
>という状況の変化がありました。特に2)、3)の段階における丸山、熊ノ平、矢ケ崎の線路配線がどうなっていたのか興味が湧きます。
ずっと気になっていましたので過去の鉄道趣味誌に掲載されている写真や図面、ネット上の画像や動画等を頼りに調べてみました。一部推測となる部分がありますことをご了承下さい。
参考にさせていただいた過去の鉄道趣味誌は以下の通りです(個人的には結構頑張りました(汗))。
①鉄道ピクトリアル1960年7月号
②鉄道ピクトリアル1963年8月号
③鉄道ピクトリアル1963年12月号
④鉄道ピクトリアル1988年4月号
⑤鉄道ピクトリアル1993年1月号
⑥鉄道ピクトリアル1997年8月号
⑦鉄道ピクトリアル2009年1月号
⑧鉄道ファン1996年12月号
⑨鉄道ファン1997年9月号
⑩鉄道ファン1997年10月号
⑪鉄道ファン1997年11月号
⑫鉄道ファン1997年12月号
⑬鉄道ジャーナル1968年8月号
⑭RM LIBRARY 39
⑮RM LIBRARY 40
⑯RM LIBRARY 147
⑰RM LIBRARY 148
⑱RM LIBRARY 149
⑲RM POCKET 17
さて、今回は丸山信号場です。
1.明治時代の頃
アプト廃止前後とは直接関係のない昔の時代ですが、一応順を追って・・・(汗)。
1)②のP11に掲載の1901(M34)/10撮影の写真
2)④のP33に掲載のM40年代撮影の写真
からは以下のような様子であることがわかります。
・横川~丸山信号場間は複線になっていますが、この複線化の時期については諸説あるようです。
・※1は通常は使用されていないように見えるヘロヘロの線路です。制御不能となって下り坂を暴走してきた列車を止めるための避線(キャッチサイディング)かも。
・この避線については、
⑤のP31には「1896(M29)/5設置、勾配200‰、廃止時期は不明」
⑧のP42には「避線は1902(M35)/10廃止」
と記述されています。
2.大正時代~1961(S36)頃
アプト単線時代ですね。
1)⑲のP186に掲載の「横川-軽井沢間旧線線路平面図」
2)⑨のP37に掲載の1960(S35)/11撮影の写真
3)⑤のP58に掲載の1955(S30)/7撮影の写真
4)①のP36に掲載の1958(S33)/5撮影の写真
5)⑭のP27に掲載の1961(S36)/3撮影の写真
6)⑲のP4に掲載の1960(S35)/7撮影の写真
7)⑲のP287に掲載の1961(S36)/3撮影の写真
からは以下のような様子であることがわかります。
・上り本線の軽井沢寄りからなにやら得体のしれない側線※2が分岐しているんです。ちゃんと第三軌条も設けられています。ホームのような構造物もあります。変電所関係でしょうか。それにしてもどのような方法で入換が行われていたのでしょうか。新たなナゾです。
・場内信号機と出発信号機の両方が設備されているのもちょっと意外。単線と複線の境界の信号場であれば、普門寺信号場や(ちょっと形態は異なりますが)白川信号場のように出発信号機の使命を兼ねる場内信号機のみが設備されていて出発信号機は設けられないのが普通かな、と思っていたもので。
・その点では前述の1.で通過信号機が設けられていないのは自然に感じたのですが、ひょっとしたら当時は通過信号機がまだ規定されてなかった可能性もあります。
・いずれにせよもっとシンプルな設備だと思っていましたので、側線といい出発信号機といいちょっとびっくりです。
3.粘着新線の工事・試運転の頃
このあたりから核心部分ですね。
粘着新線での営業が始まる前、工事の資材輸送や試運転のため配線変更が行われたようです。
1)⑤のP47に掲載の1963(S38)/3撮影の写真
2)⑮のP4に掲載の1962(S37)/2撮影の写真
からは以下のような様子であることがわかります。
・赤色部が粘着新線ですが、写真では列車の陰になって確認できませんので推測です。
・ここでもちょっとびっくりしたのは横川方の渡り線と上り本線軽井沢方の列車停止標識ですね。
・横川から来て新線に入る下り列車(工事列車や試運転列車)はこの渡り線を通って上り本線に到着していたようです。
・下り場内や上り場内・出発等の各信号機は当然設備されていたものと思いますが、写真からは確認できませんでしたので図には記載していません(以降も同様です)。
なお、②のP19には、
1961(S36)/4 粘着新線の工事着工
1962(S37)/6 丸山(信)の先1.7kmまで完成、試作車の試験開始
1963(S38)/5/1 第1ずい道出口まで完成
1963(S36)/5/16 全線で工事完了、量産車の性能試験・乗務員訓練開始
と記述されています。
4.アプト・粘着単線並列時代
写真はまだ新線の営業開始前に撮影されたものですが、配線としてはアプト・粘着単線並列の形態が出来上がったと思われる状態です。
1)⑧のP46に掲載の1963(S38)/5撮影の写真
2)⑱のP33に掲載の1963(S38)/5撮影の写真
3)⑱のP25に掲載の1963(S38)/5撮影の写真
4)⑦のP44に掲載の1963(S38)/5撮影の写真2点
5)YOU TUBEに投稿された1963(S38)頃撮影の動画
https://www.youtube.com/watch?v=6RU45jy9bfkの1分53秒頃
からは以下のような様子であることがわかります。
・またまたびっくり、横川方にあった渡り線が何とホームの軽井沢寄りに移動しました。まあ確かにこの方が自然のように感じますが、逆に言えばなんで最初からこうしなかったのでしょう。
・このためホームや下り出発信号機が横川寄りに移設されています。
・粘着新線の上り場内信号機は同じ形の3灯の色灯信号機が上下に2つ並んだ形になっており、この時点では下側の信号機には使用停止(前面に白色の木片が×形に取り付けられた状態)になっています。この使用停止になっている下側の信号機は、おそらく通過信号機ではないかと思うのですが、背板の形状が長方形ではなく上側の信号機と同じ小判型なのがナゾです。
なお、⑫のP74に掲載の1963(S38)/7撮影の写真からは、上記の通過信号機の×形の木片が取り払われて使用開始されていることがわかります。
5.粘着単線の頃
この頃の写真は見つけられませんでしたが、想像するにこんなものかと。
・アプトの旧線側は取り払われて粘着新線側にのみ線路が繋がっていたのでないかと思います。
・丸山信号場自体が廃止され、運転上はただの中間地点になってしまいました。
個人的には特にアプト・粘着単線並列時代の新旧の振り分け方法に興味があったのですが、いろいろ調べてみると避線といい変電所側線(?)といい出発信号機といい、単なる単線・複線の境界だけではない興味深い丸山信号場の配線に少々驚かされました。
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