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2014年8月27日 (水)

熊ノ平配線図

前回の丸山信号場と同じ趣旨で今回は熊ノ平駅です。

同様に過去の鉄道趣味誌に掲載されている写真や図面、ネット上の画像や動画等を頼りに熊ノ平駅の線路配線の変化を調べてみました。一部推測となる部分がありますことをご了承下さい。

参考にさせていただいた過去の鉄道趣味誌は以下の通りです。

①鉄道ピクトリアル1960年7月号
②鉄道ピクトリアル1963年8月号
③鉄道ピクトリアル1963年12月号
④鉄道ピクトリアル1988年4月号
⑤鉄道ピクトリアル1993年1月号
⑥鉄道ピクトリアル1997年8月号
⑦鉄道ピクトリアル2009年1月号
⑧鉄道ファン1996年12月号
⑨鉄道ファン1997年9月号
⑩鉄道ファン1997年10月号
⑪鉄道ファン1997年11月号
⑫鉄道ファン1997年12月号
⑬鉄道ジャーナル1968年8月号
⑭RM LIBRARY 39
⑮RM LIBRARY 40
⑯RM LIBRARY 147
⑰RM LIBRARY 148
⑱RM LIBRARY 149
⑲RM POCKET 17

丸山信号場の記事にも書きました通り横川駅~丸山信号場間の複線化時期については諸説あるのですが、とりあえず路線開業から8年後の1901(M34)/7が最有力かと思っており、丸山信号場の開設もこれと同時と考えています。
熊ノ平の場合は路線開業と同時に開設されているのですが、開設時は駅ではなく「熊ノ平給水給炭所」でした(停車場変遷大事典による)。その後1906(M39)/10に駅に昇格するのですが、⑬のP6には行き違い設備として1906(M39)に開設と記述されており、これらから判断すれば熊ノ平に交換設備が設けられたのは路線開業から13年後ということになります。
ところでこの「給水給炭所」ってのは停車場なんでしょうか?

1.明治~大正初期の頃
1)⑭のP9に掲載の非電化時代の写真
2)⑭のP1に掲載の電化直前?の頃の写真
3)⑤のP43に掲載の電蒸併用時代の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

1ar

・上下本線に加えて中線が設けられているのですが、この中線の目的がよくわかりません。少なくとも本線ではなさそうです。
・⑭のP28には「中線は大正時代に設置、戦後撤去」との記述がありますが、1)の通り電化(1912(M45))以前にすでに中線が設けられていますので「戦後撤去」はともかく「大正時代に設置」は疑問です。
・また⑥のP30には「左は電機牽引、右は蒸機牽引の貨物列車。(中略) この時代の熊ノ平には中線が設けられていない」との説明書きが添えられた写真が掲載されています。確かに2つの列車は隣り合って並んでおり、その間に中線はありません。ところがより鮮明な全く同じ写真が⑭のP16に掲載されており、電機列車の左にはしっかりともう1本の線路(上り本線)の存在が確認できますので、「この時代には中線がない」との記述は間違いと判断できます。
・ただ、ということは、電機牽引の列車は中線に止まっている、ということなるんですよね。しかも電機(10000形=EC40)は軽井沢方に連結されているんです・・・。ナゾです。
・上り線には押下線がありませんのでスイッチバックはしていないことになります。全列車が停車するのであれば列車交換の際にはどちらか一方がスイッチバックすればOKですのでこれで十分なのでしょうし、それ以前に当時はスイッチバックを必要とするほど列車長が長かったのかどうかも定かではありません。
・⑧のP56には突込線・押下線のトンネルの記録があり、これによれば下り突込線のトンネルのみ1921(T10)設置、他は1925(T14)設置となっています。これに従うならば、この時点では下り突込線にトンネルが設けられていませんので、横川方の下り押下線、上り突込線もトンネルは設けられていなかったと思われます。すなわち横川方も軽井沢方も坑口は本線用の1個のみであったと思われます。

2.大正中期~後期の頃
1)⑥のP29に掲載の写真
2)⑥のP30に掲載の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

2ar

・2)の写真には「軽井沢方の配線が変更されて有効長が延伸された」との説明文が添えられています。
・上り線には相変わらず押下線は設けられていません。
・下り突込線の延伸により下り突込線のトンネルが使用開始されたと考えますと、前述の⑧のP56の記述に従えば横川方の坑口は1個、軽井沢方は2個ということになります。

3.昭和初期の頃
1)⑭のP28に掲載の1934(S9)の配線図
2)⑥のP54の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

3r

・上り線にも押下線が設けられました。下り通過列車が設定されて上下線ともスイッチバックをする必要が発生したためなのかもしれません。
・従っておそらくはこの時点では横川方も軽井沢方も坑口は3個であったと思われます。
・給水タンクが撤去され、下りホームが下り押下線に沿って延長されています。上りホームも延長されているように見えます。

4.戦後~1963年頃
1)⑲のP186に掲載の配線図。
2)⑭のP28に掲載の1961(S36)/3撮影の写真
3)①のP16に掲載の1960(S35)/5頃撮影の写真
4)②のP13に掲載の1959(S34)/9撮影の写真
5)⑬のP4に掲載の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

4r

・中線がなくなりました。
・下り出発信号機は色灯2灯です。下り場内信号機・通過信号機も色灯2灯です。下り通過信号機の背板は小判型の背板の上下をカットした形状で、長方形には近いのですが角部にRが残っています。
・なお、http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/012/208/46/N000/000/000/119796603020716411497.jpgでは上り押下線がトンネルより手前で車止めになっています。いつ頃撮影の写真かはわからないのですが、新線工事の関係かもしれません。

5.アプト・粘着単線並列の頃
1)⑭のP32に掲載の1963(S38)/春撮影の写真
2)⑤のP19に掲載の1963(S38)/6撮影の写真
3)⑤のP49に掲載の1963(S38)/6撮影の写真
4)⑥のP21に掲載の1963(S38)/9撮影の写真
5)⑥のP40に掲載の1963(S38)/9撮影の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

5r

・上り突込線と上り押下線のトンネルを改修するかたちで粘着新線が建設されました。
・粘着新線は旧線の上り本線に接続する形になっています。少し考えればこれが自然だと思えるのかもしれませんが、知った時は「へぇ~~」という感じでした。従って新線同士での列車交換はできませんし、旧線を上り列車が通過もしくは停車時は新線側では列車は通過できないという、微妙な制約条件がつきます。
・上り突込線のトンネルは複線断面に改修されています(ただし複線断面は入口部のみで途中から単線断面になります)。これは近い将来のアプト廃止・粘着単線化を想定したものであり、そのためと思われる分岐器も見受けられます。

6.粘着単線の頃
1)①のP16に掲載の計画図とおぼしき図面
2)③のP75に掲載の1963(S38)/9/30撮影の写真
からは以下のような様子であることがわかります。

6r

・図面には何と「右側通行」と記されており、安全側線もそれに合った配置になっています。下り出発信号機もそれらしい位置に建植されています。
・但し③のP75には1963(S38)/9/30に撮影された上り「とがくし」の通過風景の写真が掲載されているのですが、フツーに左側通行しているように見えるのですが・・・。
・有効長を確保するため横川方の分岐はトンネル内に設けられています。
・これらにより横川方、軽井沢方それぞれに2つの坑口が遺構として残ることとなりました。
・複線化は1966(S41)/7で、その5か月前に熊ノ平駅は信号場に格下げされました。
信号場格下げ前日の時点では普通に左側通行をしています。
http://jyuroujinn.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-1b98.html
http://jyuroujinn.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-00fa.html

7.粘着複線の頃

7r

・横川方では新線と旧線の坑口の間に新たに新下り線のトンネルの坑口が設けられました。軽井沢方はアプト旧線の本線トンネルを改修しています。
・このため複線断面のトンネルは単線としての使用になり、坑口の遺構は横川方2個、軽井沢方1個となりました。

(以下2014年8月30日追記)

ところでアプト時代の熊ノ平駅でのスイッチバックはどのような運転取扱で行われていたのでしょうか。当然出発信号機は停止を現示しているハズですので、進入してきた列車は
・出発信号機の手前でいったん停止?
・誘導で前進?
・再び誘導でバック?
・出発信号機の進行現示により発車?
連動装置はどうも第2種っぽく見えますし、構内は全体的にカーブしているため見通しもよくなさそうですので誘導する方と転てつ担当の方との連携が難しそうですし・・・う~~ん、よくわかりません(汗)。

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コメント

電気車研究会の「鉄道青春時代 上信越線」という本の巻末資料に、昭和33年3月現在の高崎~軽井沢間の線路図が掲載されているのですが、その図の「熊の平」(35.160km)をみますと、線路配置は、記事本文4で描かれている中線がない頃のもので、信号機・標識類は、記事本文4ですでに描かれているものを含めて、

下り            建植位置のキロ程
下り遠方  1L     34.505km
下り場内  1L     34.929km
   通過 (1L-2L) 
中継?   (2L-2)  35.089km (図では下押下線のあたり)
入換標識  3R     35.124km (下押下線が分岐する手前)
中継     2L-2  35.149km
下り出発   2L     35.289km

上り
上り遠方   2R    35.909km
上り場内   2R    35.498km
   通過 (1R-2R)  
入換標識  4L     35.272km (上押下線が分岐する手前)
上り出発  1R     35.110km

とありました。 

KASAさん、情報ありがとうございます。確かに入換標識3Rと4Lが描かれていますね。その前提で改めて今まで確認した写真を見てみますと、⑤のP49の写真(これは鉄道青春時代上信越線のP42の写真と同一ですが)には3Rが、上記記事で参照したhttp://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/012/208/46/N000/000/000/119796603020716411497.jpg
には4Rがしっかり写っていますね。
これらを使用してどのような運転がなされていたかは別途記事にしてみます。


昭和の時代? に、

大規模な土砂崩れ か 何か が、

その周辺 に、起きていませんか?

>大規模な土砂崩れ
1950年(S25)に発生していますね。横川方のトンネル出口付近が埋没し、大勢の方が犠牲になっています。

 1893年(明治26年)4月1日開業の横川軽井沢間の建設工事については、1908年(明治41年)になってから帝国鉄道協会会報に発表された、渡辺信四郎「碓氷嶺鉄道建築略歴」という文書が基礎資料とされているようですが、国会図書館の館内閲覧になっていて、WEB公開されていませんので、他の資料を探しました。
 明治25年度の逓信省年報の鉄道の部では、アプト線建設の際の熊ノ平周辺の設計変更に関連して『停車場ニ代フヘキ熊ノ平行違所』という記載があります(518ページ)。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805329/275
また、515-6ページには『熊ノ平停車場』に、事務所、停車場(本屋?)、駅長官舎、普通官舎がいずれも木造平屋建で竣工したように記載されています。
 渡辺信四郎技師と分担して建設工事の監督にあたった吉川三次郎技師の「アプト式鉄道」と題する講演(明治26年9月頃)の記録が、明治26年11月の工学会誌(土木学会図書館所蔵)に掲載されており、
http://library.jsce.or.jp/Image_DB/mag/kogakkaishi/12/003-143-001.pdf
その通算618ページ後の図版(勾配図)では、勾配下の横川停車場と勾配上の軽井沢停車場の中間に『熊之平停車場』が記載されています。
 そして、通算626-7ページの輸送能力についての記述からは、『熊ノ平停車場』が行違可能なだけでなく、同時に3列車入線可能、つまり熊ノ平は中線のある三線設備であることがうかがえます。さらに、もっと輸送能力を増したければラックレールのない区間を複線化すればよい、という記述のあることから、横川丸山間と矢ケ崎軽井沢間はまだ単線であったことがうかがえます。
 しかしながら、路線別に停車場数が記載されるようになった明治27年度の鉄道局年報では、高崎直江津間の停車場数は22となっており、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805397/69
指折り数えてみると、熊ノ平は停車場の数に入っていないようです。
 列車運転上は駅長のいる停車場であるけれど、旅客や貨物の運輸量の平均計算など、統計処理の関係では停車場に含めないということでしょうか。信号場という名称ができる前ですので、なんともあいまいです。上の箇所にしか出てこない行違所というのも正式名称ではなさそうですし、給水給炭所に類する名称が閲覧可能な資料に出てくるのは、もっとあとになります。
 少しずつ資料を読み進めながら、熊ノ平が正式に停車場となるあたりまでたどってみようと思います(ググテツ)

ググテツさんには頭が下がります。興味深い資料のご紹介に感謝いたします。
熊ノ平の交換設備については鉄道ファン1997年9月号に1899(M32)年10月10日改正のダイヤが掲載されており、熊ノ平でしっかりと列車交換が行われておりますので、1906(M39)というのは間違いですね、失礼しました。

明治の資料その2です。
 明治30年度の鉄道作業局年報47ページに横川方・軽井沢方の複線化と熊ノ平改修の計画が掲載されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081145/31
 横川方1哩14鎖、軽井沢方43鎖の複線敷設計画ですが、丸山にあたる82哩16鎖地点と矢ケ崎にあたる87哩34鎖地点という哩程は、なぜか日本鉄道会社の上野停車場を起点とするものです。熊ノ平に計画された待避線という名の増設線は、輸送力増強が目的ですので、2編成併結運転をするためのスイッチバック設備と思われます。
 明治31年度の鉄道作業局年報80-1ページで、それらの工事が施工されたことがわかります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081158/50
 矢ケ崎川の橋梁増築は矢ケ崎軽井沢間の複線化に伴う工事で、成蹟表の鉄條布設の項目の1哩57鎖は横川丸山間と矢ケ崎軽井沢間の合計に相当しています。横川軽井沢間の待避線敷設は熊ノ平のものでしょうし、増築された碓氷第7橋梁は熊ノ平構内のものです。この工事によって、熊ノ平は配線図 「1.明治~大正初期の頃」 の状態になったものだろうと思います。
 この年度末の信越線停車場数には24と*1が並べられ、欄外に*印は『給水及給炭所』であると書かれています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081158/61
増減を見ると前年度にはなかった存在ですので、明治31年度が『給水及給炭所』という名称の初出と考えてよさそうです。
 翌年度、明治32年度の鉄道局年報の官設鉄道現況という一覧表では、信越線が高崎横川間、横川軽井沢間、軽井沢直江津間に区分され、横川軽井沢間は単線5哩18鎖、複線1哩57鎖となっています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805399/179
 単線複線を区別した一覧表は前年度(明治31年度)にはなかったものですので、複線の供用開始が明治32年度ということではなく、(軌道延長の増加分から判断すると)明治31年度中に複線工事が竣工し供用開始されていたものと考えられます。まだ丸山・矢ケ崎という名は出てきませんので、それぞれ横川と軽井沢の構内扱いだったのでしょう。
 各年度毎の資料で信越線(高崎直江津間)の停車場数の記載を見ていくと、明治27年度末までは22、明治28年度末に23(大屋停車場開業)となり、興味深いことに、新停車場の開業がなかった明治29年度末に24となって、その欄外に前年度末と数が違うのは誤認を訂正したもの、と書かれています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805398/103
 そして、明治30年度末はそのまま24、明治31年度末は吉田停車場の開業があったのに停車場数は24で、『給水及給炭所』が1となっているわけです。
 ずっと無視されてきた熊ノ平が、明治29年度に停車場として認知され、明治31年度に『給水及給炭所』という新名称を貰ったということのようです。一応停車場分類の中に記載されていますので、『給水及給炭所』という名称の停車場、ということになりましょうか。もちろん明治31年度になってから給水と給炭を始めたわけではなく、明治26年の開業当初から続いている業務だとは思いますが。
(ググテツ)

ググテツさん、貴重な資料のご紹介ありがとうございます。別途記事にしたいと思います。

明治の資料その3です。
 明治33年度の鉄道作業局年報128ページ、横川軽井沢両停車場に連動機と取扱所が新設され、さらに遠方信号機が新設されています。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081164/75
これらの設備は丸山と矢ケ崎に関連するものと思われます。
 そして明治34年度の鉄道作業局年報200ページにおいて、信越線の停車場数25、信号所2、給水及給炭所1と記載され、信号所は本年度新設とされています(停車場数には日本鉄道所属の高崎が合算されています)。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081154/112
そこには丸山と矢ケ崎の名前が見えませんが、同じ年報の電機通信線路図(通信回線網)には、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081154/152
高崎方から 横川-丸山信号所-熊ノ平-矢ケ崎信号所-軽井沢 のように名前が記載されています(前年度は 横川-熊ノ平-軽井沢 でした)。『信号所』という名称は、前年度(明治33年度)の東海道線の項に記載されたのがおそらく初出で、それより前は『合図所』という名称が用いられていました。丸山と矢ケ崎は構内扱いだったために『合図所』と呼ばれたことはなく、独立と同時に『信号所』となったようです。
 明治35年度になると、鉄道局年報の官設鉄道現況で、信越線の複線区間が横川丸山矢ケ崎軽井沢間1哩56鎖と記載され、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805401/31
微妙に1鎖(約20メートル)減少しています。停車場数はやはり24で、信号所と給水及給炭所は除外されています。
 同年度の鉄道作業局年報のほうは
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1081169/13
信越線の停車場数25(含高崎)、信号所2、給水及給炭所1で、前年度と増減なし。

 明治36年度から38年度まで。ほぼ同様の記載が続き、いよいよ明治39年度に熊ノ平が正式に停車場となります。
 明治39年度鉄道局年報の鉄道停車場開始細別表によれば、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805405/26
停車場名は熊ノ平、開始年月日は明治39(1906)年10月1日 です。
 同じ年報の国有鉄道現況表では、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805405/28
信越線複線区間が 横川丸山間1哩15鎖 矢ケ崎軽井沢間0哩41鎖 と明細表記されています。合計は1哩56鎖で増減なしですので、信号所になった際に横川丸山間が1鎖延長、矢ケ崎軽井沢間が2鎖短縮されたということでしょうか。停車場の欄は25と×2が並べられ、後続のページの欄外に×印は『信号所』であると書かれています。
 熊ノ平が停車場になったため、信越線から『給水及給炭所』は消えましたが、買収されて国有鉄道となった旧日本鉄道の路線に『給水給炭所』(『及』の文字がない)があることがわかります。『給水給炭所』という名称は、おそらくこの年度が初出です。
 同年度に鉄道作業局から改組された帝国鉄道庁の年報では、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805306/14
年度末の停車場数は25で、うち1つは本年度に『給水及給炭所』を停車場に変更したものと記載されています。そうすると、熊ノ平が『給水給炭所』と呼ばれたことはなかったのかもしれません。
 同じ年報の営業線路及停車場表の欄外には、信越線熊ノ平停車場において旅客を取り扱うことになった、と、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805306/200
他の新設停車場とは異なるニュアンスで書かれています。
 この明治39年度には、矢ケ崎横川間にパイプラインが敷設されたことがわかっていますが、工事についての記載は見当たらず、送油管敷設費という項目が信越線に計上されているのが見つかっただけでした。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805306/192

 以上、それぞれの年度毎(当年4月~翌年3月)の報告書では、年月日が明記されていることはまれです。趣味誌の執筆者の方々はおそらくもっと詳細な資料を参照されているのだろうと思います。
 なお、もう1回だけ、なるべく短く、補足を書くつもりです。長文陳謝(ググテツ)

明治の資料の補足です。
 鉄道文化むら所蔵 電化計画時(明治43年頃)の文書・図面
http://committees.jsce.or.jp/lib02/node/35
15 熊ノ平停車場平面図 によって、配線図 「1.明治~大正初期の頃」 の確認ができます。その他、興味深いものがいろいろと。
 逓信省鉄道局 鉄道線路各種建造物明細録 第2編(明治29年4月刊行)、47ページに 熊ノ平停車場 の記載があります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1152168/31
マイルチェーンとフィートインチ単位ですが、建造物の位置(上野起点で、トンネルは入口の位置)と規模が書かれています(たとえば、熊ノ平の横川方トンネル出口から軽井沢方トンネル入口まで約324メートル、というような計算ができます)。信越線全線にわたる詳細な資料ですが、おそらく遺構が残っているのは横軽間だけでしょうね。
 明治28年度の鉄道局年報16ページのほぼ中央に 丸山付近の避線設置 らしい記述があります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805398/12
位置は82哩9鎖82節で丸山地点(82哩16鎖)より120メートルほど横川寄り、延長17鎖(340メートルほど)です。
 おそらく明治28年度にこの位置で本線単線から分岐する避線が設置され、明治31年度の複線化の際に分岐位置を複線合流先の単線部に移動して、「丸山信号場配線図の ※1」 のようになったのかと思います。避線撤去時期の確認できる記述は見つけられませんでしたが、明治43年前後の丸山変電所敷地造成の頃には撤去されたものと考えられます。
 こちらの
http://yamada.sailog.jp/weblog/2014/02/post-d582.html
3枚目の写真(撮影年、出典不明)で、変電所手前の右に登ってゆく坂が、避線の遺構とされている場所です。

 以下は明治のものではありませんが、よく名前の挙げられる資料です。
 「わが国における鉄道トンネルの沿革と現状(第4報)-信越本線をめぐって-」
www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/13/0/13_0_255/_pdf
通算261ページに熊の平構内の突込押下トンネルの設置延伸時期についての記述があります。また、通算262ページ左上の1938年(昭和13年)撮影の写真に中線が見えます。
 「碓氷峠旧線跡に残る鉄道構造物の技術的特徴と意義」
www.jstage.jst.go.jp/article/journalhs1990/14/0/14_0_45/_pdf
通算53ページに熊ノ平構内の第7橋梁の開通時と増築分の簡略な図面があります。

 横川軽井沢間の電化については、鉄道院東部鉄道管理局編 「信越線碓氷電化工事概要」 1912(明治45)年 が基礎資料のようです。1993年に復刻版が出版されていますが、原本のWEB公開はされていません。
 これをもちまして予定終了です(ググテツ)

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