« 安中駅の入換信号機 | トップページ | 横川 1987/8/8 動画 »

2014年2月15日 (土)

横川配線図

横川駅については以前ご紹介していますが、改めてもう一度。

まずは1978年(昭和53年)3月です。

197803
・上下本線に挟まれる形で2本の中線が設けられています。中1番線は上りの発着のみ、中2番線は下りの発着のほか上りの出発も可能です。
・このほか下り1番線も本線ですが、下りの出発のみ可能です。単行機関車列車とか、昔は横川発軽井沢行きなんていう貨物列車が何本か設定されていたようですので、そういった関係かもしれません。
・軽井沢寄りの上り線側にある貨物1~3番線がナゾです。どうやって使うの?って感じですね。
・EF63の時代では高崎方で補機の解結作業を行うのみですが、アプトの時代は軽井沢方にも機関車が連結されていましたし、高崎~横川間は非電化でしたから蒸機の入換作業も必要でした。アプト時代の配線もこれと大きくは変わらないのではないかと思いますので、軽井沢方での作業、特に上り列車の最後尾に連結されたED42が入区もしくは次の下り列車の先頭に立つまでの入換ルートに興味が湧きます。アプト時代の横川駅は列車が到着するたびに構内をED42や蒸機が右へ左へ動き回っていたんでしょうね。

写真を1枚だけ、1978年(昭和53年)3月24日撮影です。19780324b02

続いて1993(平成5年)年3月。

199303r
・本線関係に大きな変化はありません。しかしこの4年後には・・・。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 安中駅の入換信号機 | トップページ | 横川 1987/8/8 動画 »

コメント

ここ横川の項には、いつかはコメントしたかったのですが、なかなか機会がなく今回に至ってしまいました。
「横軽」と称され、鉄道ファンの聖地と呼ばれて久しい同所ですが、私の馴染んだ昭和40年代の鉄道入門書には、アプト区間だった頃からの歴史が必ず紹介されていて、その後、50年代頃だったでしょうか、レイルウェイライターの種村直樹さんの著書に、同所急勾配区間を通る特急の食堂車のテーブルに置かれたコップの水の水面が傾いて見えるほどだと紹介されており、この場所には何か特別な印象を感じていました(私の食堂車好きは同氏の影響が多々あるようです)。
5〜6年前に長野から北陸新幹線で軽井沢まで来て、軽井沢〜横川間はバスに乗車して念願だった横川に初めて来ました(本来なら上野から横川を経て軽井沢なのでしょうが)。
それまでのここ横川の印象は、アプト式車両の唯一の車両基地だった時期があったことと、横軽間専用区間のEF63型機関車に名物駅弁「峠の釜めし」、そして駅付近からの軽井沢方面にノコギリ状に見える山並みだったのですが…。
横川に保存されている国鉄時代からの車両達には感激だったのですが、やはり国鉄時代に同所を訪問しておくべきだったと次項の動画を拝見するにつれ後悔しきりです。

横川の構内配線図は以前より趣味誌等でちょくちょく見かけておりましたが、配線図収集のご苦労に鑑みて、f54560zgさんのblog内でT.Mさんよりご提供された配線図を拝見させていただくのは、趣をよりいっそう深く、そして重く感じてしまいます。
以前よりのお二方並びに他項でご提供された皆様のご尽力に感謝いたします。

E10さん、私は帰省のたびにここを通っていましたので、結構恵まれていたのかも(笑)。列車の車窓からはさほど急勾配は感じられなかったのですが、一度だけ上り列車の最後尾から後ろを眺めたときはそのきつさを実感しました。
あと、私はどちらかといえば釜めしよりも「峠の鶏もも弁当」のほうが好きでした。

前回のコメントより早くも5年、時の移り変わりの速さとは恐ろしいものです。
去年の晩秋、軽井沢からバスの往復で久々に再訪したのですが、前回より時間はたっぷりあると踏んでいたのに、旧横川機関区事務所内の鉄道模型デモ走行や、車両展示場へ向かうと、ある英国メーカーの最後の製造となったSLの列車に乗車したりと、あっという間に時間が過ぎて行き、今回も懐かしい車両達をじっくり見る余裕が無かったのが悔やまれます。
前回は、オハネの三連洗面器を間近で見れたのですが、今回は扉が固定されており…。

横川には、ソ300型と言う車両も保存されています。
当時、2両在って、そのどちらかを民営化後の日豊本線南部(おそらく宮崎県)にて見かけました。
夜間でしたが、どこかの駅に駐泊していて、その横に停車した車内から見ると車窓は異様な雰囲気で、「これはなんだ!」でしたが、たまたま近くに乗り合わせていた同業者の方が通り掛かった車掌さんに「あの車両はなんですか?」と話し掛け「近くの鉄橋の付け替えでJR東日本から借りているんです」と、その後、会話が弾み、その同業者は都心有名校の学生さんで、車掌さんのほうから「またこちらにおいでの際はご連絡でも下さい」などと名刺を渡しておられ、学歴の威力を目の当たりにしたと同時に、自らが同等か上回る学歴なら「車掌さーん、こっちにも名刺をー」などと言ってみたかったのですけど、社会人ながら自身の学歴の無さに虚しさを感じながらその夜を車内で過ごしたことを思い出します。

連項の SYさんのコメントを見ながら、ふと思ったのですが、理系の f54560zgさんと、文系を感じ風土史や地学にも精通されている SYさんが中心となられ、他に配線図を寄与された方々やコメンテーターの方々などの御協力のもと、blog内をまとめた書籍みたいなのを作られたらどんなに楽しいことだろうと思いました。
ひとり勝手なことを言ってしまいすみません。

E10さん
横川までいらっしゃったのですね。多分「はるばる」でしょうか。
操重車はなかなかお目にかかれない車両ですから地方の小駅で見かけたら興奮してしまいます。それにしても車掌さんもよくご存知でしたね。

理系の私は無機質でロマンや感情面に欠ける傾向があります。その点E10さんのコメントはその中に人間味や、時として淡い恋心(?)を吹き込んでくださっており、大変ありがたく思っています。

甲府から小海線経由で軽井沢へ行き、大雨でダイヤが乱れていた。小海線は通常通りであった。が、八ヶ岳が見えるほど天気はよくなかった。
清里と、 野辺山間で日本で一番標高の高い所であることで車内放送入った。 小諸に近付くと碓氷峠で集中豪雨で、信越本線もダイヤが乱れていた。
特急‟あさま‟が停まって、 車掌が補助機関車が間に合わない状態であり、 自分より一回り以上も年上の人で、蒸気機関車の列車も乗務してたのか、特急電車でも、カマを繋がなければと言う。今だったら、 専門用語は辞めるに言ったかも知れない。EF62の普通列車に乗り、中軽井沢で1時間近く止められて、 自分みたいなマニヤは解るけど他の客というか、素人さんに碓氷峠のことを言っても解らないの一言であった。
軽井沢に泊り翌日の、EF62の普通列車に乗り、重連のEF63が付き、横川まで旧型客車の扉を開けて、デッキに立つとまるでケーブルカーに乗っているみたいであった。
横川でも、雨に降られて関所記念館へ行き、熊野平の信号所へは行けなかった。軽井沢駅前に、最初の電気機関車が静態保存されて、横川には最後のアプト式の電気機関車が静態保存している。荻野屋で峠の釜めし食って、EF63を見て高崎まで往復して、 最後の急行‟越前”になってダイヤが正常になった。
今は博物館になっている。大井川鉄道の電気機関車を見ると、アプト式を復活出来なかったのかと思った。あの急勾配では、万が一を思うと電車を自力でとは行かない、山陽本線のセノハチの貨物列車の様に。


E10さま
 日豊線南部でソ300をご覧になられたとの事ですね。車掌さんは「JR東日本から借りている」と話されたようですが、正確には「JR東日本に作業を委託していた」とご解釈頂ければと思います。JR東の或る工事区の所有で、橋りょうの桁交換作業のため全国キャラバン(?)のように稼働していると聞いた記憶があります。25年近く前ですが、折尾駅鹿児島下り本線が筑豊線を跨ぐ桁の交換ののち、次は香椎・箱崎間の多々良川でやはり桁交換というスケジュールで九州に来ていました。
 古い操重車とは異なるモダンなデザインで銀色の塗装が印象的でしたが、通常のクレーン車と比べるとブームの伸縮や旋回に意外なほど時間を要した記憶があります。

操縦車・・・、存在は知っていてもなかなか姿を見かけることはなく、ましてや活躍している現場は幻のようでした。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 横川配線図:

« 安中駅の入換信号機 | トップページ | 横川 1987/8/8 動画 »

過去の記事

2025年1月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ