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2012年8月26日 (日)

石部トンネル

静岡から焼津方面に向かうと、途中山塊が駿河湾の際までせり出している部分があります。

Photo
Yahoo地図で見るとこんな感じ。今ではどうってことないのかも知れませんが、その昔は鉄道建設にはやっかいな地形だったようで、完成後も急曲線や自然災害(なんたって「大崩海岸」ですから)のため輸送の隘路となってしまい、後年改良計画が立てられることとなります

この区間の改良及び複線化・電化に伴う変遷の概略は以下の通りです。

R

改良に伴う大きな変更の第一ステップは1944年(昭和19年)12月の日本坂トンネルへの線路切り替えですね。弾丸列車用のトンネルを先行して完成させ、暫定的に在来線をこちらに移設してその間に旧線を改良する計画でした。
しかしながら弾丸列車計画が中止となってしまったために旧線を改良する必要もなくなり、暫定が恒久のような形となって1949年(昭和24年)に電化が行われます。
ところがその後新幹線計画が持ち上がり、日本坂トンネルをこれに充てることとなりました。当初の計画が再浮上することとなったわけで、1962年(昭和37年)に改良が完成した旧線に在来線を戻し、日本坂トンネルは新幹線に明け渡しました。
旧線の改良に際しては従来の旧石部トンネルと旧磯浜トンネルはつなげられて1本の新石部トンネルとなっています。

地図上で実際の線路の移設を追いかけると以下のようです。

まず1944年(昭和19年)12月以前の状態。

1944r

複線化は行われているものの開業時のルートです。

続いて1944年(昭和19年)12月。

194412r

日本坂トンネルが完成し、こちらを通るルートに切り替えられました。

弾丸列車計画の頓挫により一旦は旧線の改良が中断してしまいますが、新幹線計画により改めて旧線の改良・移設が行われることとなります。

1962年(昭和37年)9月。

196209r

改良が完成した旧線に戻されました。

そして1964年(昭和39年)10月。

196410r

明け渡した日本坂トンネルを使用して新幹線が開業しました。

線路の切り替えの痕跡は空中写真で見ることができます。

1
・左は国土情報ウェブマッピングシステムの1975年(昭和50年)、右は最近のYahoo地図です。
・石部トンネルの東京方で、1975年では在来線と新幹線を結ぶ線路の痕跡が確認できます。
・Yahooの地図でもなんとなくわかりますね。

2
・旧石部トンネルと旧磯浜トンネルの間の部分です。
・1944年(昭和19年)の切り替えですのでさすがにこちらはちょっとわかりづらいですね。

3
・石部トンネル(旧磯浜トンネル)の神戸方で、やはり新幹線と在来線を結ぶ線路の痕跡が確認できます。

なお、国土変遷アーカイブ空中写真の1962年(昭和37年)では、在来線が日本坂トンネルを通過していた頃の様子を見ることができます。

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCB627&courseno=C1&photono=26

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCB627&courseno=C2&photono=26

http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=MCB627&courseno=C3&photono=23

旧石部トンネルや旧磯浜トンネルの遺構については申し訳ありませんが現地を訪れておりませんのでご紹介できません。あしからず、です。詳しく記録されているサイト様もあるようですので、そちらをご覧ください(汗)。

現在の新幹線の日本坂トンネルは新幹線開業前は在来線が使用していたという、ちょっと珍しいトンネルなんですね。

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コメント

 んでもって、日本坂トンネルを在来線が使っていた時期、静鉄バスが焼津~静岡間の路線バスを旧東海道線経由で走らせていたらしいのですが、詳細がよく分かりません。
 この付近はいわゆる「大崩経由」が国道150号線だった頃には日中1時間程度おき、朝夕30分おきくらいの頻度で用宗駅経由のバス路線があったのですが、150号線バイパスの新日本坂トンネルが開通した後、新トンネル経由にしたとたん、という位短い期間で日本坂や大崩を経由する区間の減便が進み、今では静岡側が用宗駅まで、焼津側は自主運行バスが浜当目という、大崩に向かって昇っていくかなり手前で、バス停で左折してしまい、用宗駅から焼津駅まで路線バスでの移動は全く出来ない状況です。

新幹線の開通前に在来線が使用した例があります。
東海道線の三河三谷から蒲郡の区間の星越トンネルです。こちらは数ヶ月の期間ですが東海道線の電化工事期間だけです。星越トンネルの工事は路盤を堀下げる工事でした。
また新幹線の開通前に私鉄が走った所もあります。
阪急京都線の高架工事に伴い新幹線の高架が完成していたので振り替えた所があります。すいません区間の記憶がなくて申し訳ありませんが。

bad.Ⅳh-95さんはバスにもお詳しいんですね。「浜当目」って何だか北海道のような地名です。
つるたまさん、そうですね、星越トンネルも在来線が使用していましたね。但しこちらは弾丸列車計画が頓挫後だったため、石部トンネルのような一時的な間借りではなく恒久的に使用するつもりだったようです。弾丸列車用地に新上りトンネル(電化対応断面)を建設→上り線を新上りトンネルに移設→あいた旧上りトンネルを電化対応断面に改修→下り線を旧上りトンネルに移設→電化開業、という流れのようです。ですので現在の新幹線用地を通ったのは上り線のみ、トンネルも単線断面でした。電化が1953年、新幹線建設のため追い出されたのが1962年ですから10年位は上り線は新幹線用地を通っていたようです。

 「当目」という地名は他に「岡当目」というところがあるので、久手とか縄手のような地名かも知れません。

bad.Ⅳh-95さん、何か地形の特徴を表しているのでしょうか。

管理人さん
こんばんは
石部トンネルはせりたった海岸に沿ってトンネルがあったようですね。
新幹線から見てもよくわかりません。

そこをリポートしたサイトがあります。
http://yamaiga.com/road/ookuzure/main3.html
ご参考までに。

うさおさん、こんばんは。
情報ありがとうございます。「住人」さんがいるのには笑ってしまいました。

日本坂トンネルをEF58が客車を引いて走っていたのに何度も乗りました。そのころの磯浜トンネルの山側(日本坂トンネル側)は道路に使われていていました。トンネル内ですれ違いができないためタブレット交換のようなことをしていた記憶があります。(兄か叔父がそのアルバイトをしていたような)一度磯浜トンネルを通って静岡側の出口まで歩いて行きました。穴は真っ直ぐなので出口が見えるのですが歩いていてもなかなか近づかなかったです。トンネルを出てすぐ、左側の道のない山の斜面を10mほどよじ登り(下り?)旧150号線に出て帰ってきました。磯浜トンネルの海側は後に知りましたが大阪市立大学が宇宙線の研究をしていました。(岩波新書 青388 『宇宙線の話』189−200頁)
 このURLをご覧になる方のほうが詳しいと思いますが磯浜トンネルを使って駿遠線を静岡まで延長する計画もあったようです。

 現在の石部トンネルは完成早々に前面展望で通りました。旧石部・磯浜の両トンネルを1本にするとき、土被りを確保することと曲線緩和のためにほとんど新線となり、両トンネルは入口部分のみ転用した印象を受けました。
 トンネル内で旧線から緩い曲線で新ルートに移るときは手間のかかる工事だったと思います。旧線をどこまで埋め戻すのか、引用レポートでは埋め戻しに対面したとありました。
 こんな面倒なことをしなくとも、新しい複線トンネルを造れば良かったのに、と思います。
 また現新幹線のトンネルを使用したのは初めから暫定使用のつもりだったのでしょうか。両端のアプローチを見ると目測てR400の曲線で繋がっています。

焼津町生まれさん
>磯浜トンネルを通って静岡側の出口まで歩いて
これって結構勇気のいりことでは?

C6217さん
旧線を利用する距離がそれほど長いのでなければ、確かに全部新線のほうがよさそうな気がします。

再びお邪魔します。
写真や文を拝見(拝読)して昔のことがをさらに思い出しました。
 日本坂トンネルをEF58が通る場面がある映画があります。新藤兼人監督 宇野重吉 乙羽信子 など出演の
『第五福竜丸』(1959年)です。小学校の学校の行事として見に行きました。

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