由比 2012/6/3
今月3日の由比駅の様子です。
・その先のほうです。
・2003年の配線図に記載されていた入換標識10Rらしきものは見当たりませんね。
・下り本線と下り1番線です。
・下り1番線のホームは結構年季が入っていますね。後から作られたような気配はあまり感じられません。
・ちょうど下り1番線に電車が入って来ました。後で調べたら休日に下り1番線に停まる列車は1日に1本しかないんですね。結構ラッキーしてるのかも。
・下り本線を特急ふじかわ2号が通過していきました。
・結構海は近いはずなのですが、潮の香りは全く感じませんでした。
・駅の先にはガードのような構造物があります。正式名称は「由比土砂おおい」なんだそうです。
・あまり「土砂おおい」的な雰囲気は感じられない気がしますね。
・駅の配線から考えると下り1番線と上り1番線のホームは後から設けられたものではないかと想像していたのですが、ホームの状況を観察した限りでははっきりとそう言えるような雰囲気ではないですね。でも最初から片面×2本+島式×1本というのはちょっと不自然な気がするのですが・・・。
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>潮の香り
海側には国道1号線由比バイパスと東名高速道路があるので、地図で見る以上に海は遠いです。
>土砂覆い
由比から興津に掛けての山は地滑り多発地帯で、今も砂防工事が続いています。
昭和39年の6月末、梅雨末期の豪雨の影響か、土石流がこの覆いの中になだれ込み、27日の19時頃から28日8時頃まで不通になる、という事故が起きています。
ちなみに、この土砂覆いの上を旧国道1号線が通っています。
>東海道
静岡、というか駿府から関東に向かう道筋は、時代と、風水害と富士山の噴火で細かく付け替えられています。
興津~由比間に関していうと
1.古代から中世末期
江戸の初めまでは今の国道1号線の位置を通っていましたが、東海の親不知と言われるほどの難所で、旅人の人的損害も馬鹿にならなかったようです。
2.近世以降
徳川幕府は海岸沿いの道を放棄し、興津川を渡ったところで山に向かい、薩陀峠(さったとうげ)を経由する峠越えのルートを開削しました。
3.近代以降
明治になって国道の整備は再び海岸沿いルートで行われ、鉄道もそれをなぞって建設されました。
護岸を建設する技術が手に入ったから、と言うことでしょう。
旧国道1号は、明治期にはもっと興津に近いあたりで東海道線を横切っていたようですが、昭和36年3月にほぼ同じ地点で大規模な地滑りが発生したようです。
そのため、土砂覆いを建設してその上を国道が通過するようになりました。
>あと
富士川は安倍川、大井川と違って、天竜川同様に船渡しが認められていましたが、どちらの川も船着き場の位置は歴史時代を通じて変遷していて、調べていくと今では考えられないようなポイントで渡河していた時代もあるようです。
>左富士
富士市吉原地区の同名の地点は、この付近の東海道が江戸前期に3回に渡って付け替えられ、ほぼ東西に走っていた東海道がほぼ南北に走るようになったため生じた名称です。
東海道線も富士川を出来るだけ直角に渡る都合で、橋梁はあの位置になり、富士川西岸の山地を避ける必要から岩淵駅は大きく南にカーブしたあの位置に立地し、「鉄路の左富士」が産まれた、と。
長すぎですね、済みません。
投稿: bad.Ⅳh-95 | 2012年7月 6日 (金) 20時00分
確かにどのホームもかさ上げされていて
年期が入ってますね
この規模の駅で片面使用もあるといえ
3面ものホームがあるのが驚きです
投稿: ヒデヨシ | 2012年7月 7日 (土) 09時49分
bad.Ⅳh-95さん、長文コメントありがとうございます。
>潮の香り
東海道線の中では最も海に近い駅のひとつではないかと思って期待(?)していたので、ちょっと残念でした。
>土砂覆い
東海道線や東名高速がこれだけ海に近いところを通っているということは、すなわちそれだけ山が海岸まで迫っているっていうことですものね。
ヒデヨシさん、そうなんですよね、その辺が不思議なのですが・・・。
投稿: f54560zg | 2012年7月 8日 (日) 20時55分
「1960年、由比駅」で、検索 してみては?
その時代の由比駅ホーム、わかりそうで。
投稿: | 2019年1月 3日 (木) 14時24分