« 東海道線各駅の配線の特徴 その1 | トップページ | 東海道線各駅の配線の特徴 その3 »

2011年10月 2日 (日)

東海道線各駅の配線の特徴 その2

前回の続きです。

kisomitakeさんに先回りされてしまいましたが、米原以西の様子を見てみましょう。

1960年(昭和35年)頃の彦根~守山間です。

41196000r

42196000r

・米原以東とはがらっと変わりまして、上下本線が隣り合っている駅はひとつもありません。
・上下共用の副本線が上下本線の間にあるという点では先の高崎線と同じなのですが、でもちょっと違う。
・特徴的なのは、ホームのない中線がやたら多く設けられており、本線が4線ある駅でも島式ホーム2面というパターンがないことです。
・とにかく「本屋の改札の目の前に下りまたは上り本線を配置する」と言いますか、「極力島式ホームを採用しない」と言いますか、そんな点にこだわったかのような印象を受けますね。
・いずれにせよ、米原を境にその東西ではかなり雰囲気が異なっているように思います。

ついでに、東海道線ではないのですが、その延長線上の山陽線。
1969年(昭和44年)の大久保~東岡山間です(加古川姫路は除きます)。※※

51196904r_2

52196904r_2

53196904r_2

54196904r_2

55196904r_2

・基本的には高崎線のような上下本線間に中線のあるパターンですが、島式ホームの外側にホームのない副本線が設けられた駅が多く見受けられますね。
・ホームのない中線が設けられた駅は一つもありません。

配線図はT.Mさん及びKASAさん(※※印)よりご提供いただきました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 東海道線各駅の配線の特徴 その1 | トップページ | 東海道線各駅の配線の特徴 その3 »

コメント

山陽本線でいえば、大久保・東加古川・宝殿・曽根・御着という駅が複線区間でのシンプルな配線だと思っていましたが、実はそうではないというのが新鮮です。
ちょっと変わっているパターンとしては、有年の上り線。
普通電車はいつもガクンと分岐器を通過してホームに着きます。この配置って不思議です。
余談ですが、三石駅の下り待避線。
兵庫・岡山県境のトンネルを抜けるとすぐに場内で下り勾配に。
この待避線に上手く貨物列車を停止させるのは難しいと若い頃に先輩から国鉄時代の話を伺いました。

はじめまして.いつも興味深く拝見しております。小生岡山県出身なもので,山陽本線の紹介記事の西進も期待しています.
さて,ホームのない中線ですが,確かにこの付近では珍しく,庭瀬にみられるくらいでしょうか.
また,ホームのない副本線は少なく,三石,西阿知にあったくらいです.
有年の上り通過線は整理されてしまって,ごく普通の配線になってしまったようですね.

米原駅以西の図を拝見しまして、第一に思ったこと。
この当時で既に、構内線路名が数字の番線表示になっていますね。
大阪鉄道管理局の特徴でしょうか。
米原駅は国鉄時代は名鉄局の管内だったので、平成の始め頃まで「上り本線」などの名称表示でした。

で、ホームの無い中線が多いことについて。
これは私の推測ですけど、地域的な流儀というか、或いは輸送状況の違いなのか、そんな所かと思います。
相対式ホームの間に更に一線あるのは、東海道本線の湖東線(今のJR琵琶湖線部分)だけでなく、北陸本線もこんな流儀ですね。いや、中線を撤去した駅が多いから、「だった」の過去形かな。

貨物列車は何も旅客ホームの存在は必要なく、旅客列車(急行列車など)の退避だけであれば、中線一本で足りるとの考えでしょうか。
山陽本線部分が結果的にせよ構内線路が四線あるのは、西国への貨物輸送が多かったのではないかと思います。昔は大陸連絡の輸送がありましたから、その関係の列車も多かったと思いますけど、どうでしょう。すみません私の推測で。

なるほど
彦根~守山はずいぶん変わっていますね
特に調べたわけではありませんが
米原から北陸旧線を通って金沢あたりまでも
ホームのない中線タイプが多いと思いましたがどうでしょうか?
ホームのない中線タイプは線路配置で一番古いタイプになると思われます

すみもとさん、有年駅も昔は普通の中線タイプだったようですが、いつの頃かこのような配線になったようです。何で有年駅だけなのか不思議ですね。
Mimu生さん、コメントありがとうございます。
Wikipediaを見る限り、上り通過線はまだ健在のようですね。線路の配線自体はごく普通になってしまったようですが、ホームの配置がちょっと特殊なように思います。
kisomitakeさん、線路名が数字のほうが合理的な気はするのですが、個人的には「下り本線」などのほうが情緒(?)があって好きですね。
各線区ごとに輸送需要の違いがありますので、それに応じた配線が選定されているとは思うのですが、それでもやっぱりヒデヨシさんと同感で、湖東線区間はかなり変わってる部類のような気がします。

いつもありがとうございます。
大阪鉄道管理局管内の東海道線は、おそらく複々線の関係と思われるのですが、番線表示が数字のみですね。京都や新大阪なども1番から順番に振られていて、たとえば現京都0番のりばは本来上り本線と呼ばれてもおかしくないですが、今も昔も0番表示です。
もっともいまの0番のりばは旧2番線なのですが、それを知る人ももう少ないかもしれません。

わだらんさん、「線路に呼び名を付けよ」と言われたら、大鉄局のように番号をつけるのが普通なような気がしますね。「下り本線」とか「中2番線」といった呼び方だとそれぞれの位置関係がわかりづらいように思います。
ただ、個人的には「上り1番線」とか「裏2番線」などという呼び方のほうが趣があって好きですが。

 明治43年発行の鉄道院西部管内各駅配線図と云う図面集が有りました 後年鉄道史料から復刻版が出版されました 横長で一駅一ページ片面刷り 当時の関西圏の鉄道院線が網羅されておりました
 当時未だ東海道本線の湖東線部は単線でした此の区間の駅は今もそうですが相対ホームに中線一本に他に貨物ホームが付くパターンでした丁度山陰本線亀岡駅の配線が当時の湖東線部の駅と同じでした唯当時は安全側線は有りません
 中線は恰も距離の長い背向片渡り風です 当時の考えでは今と違い中線は退避目的では無く上下間で貨車授受が目的で引かれたのではと思います 荷扱いの済んだ貨車を多分人力で中線に押し込み留置 貨物列車が其れを連結し逆に解結車を中線に押し込み留置 後で貨物ホーム迄人力移動したのでは 後年輸送量が増大する様になり非駅舎側ホームの外側に本線引き従来の本線を退避線に尚且元の中線は留置線のまゝにするか あるいは上下両方から入線出来る様にして貨物列車退避に使用するの二通りのパターンになったのではと思います 因みに西部管内各駅配線図集の駅の大半が相対ホームに中線パターンでした 関西地方の特例配線であったのか東日本では逆にあまり見かけ無いと思うのですが如何でしょう

「中線=上下両方が進入できる」で の
ポイントにて、通過できる構造、ですよね?

yyoshikawaさん、明治43年発行の各駅配線図とはスゴイ資料をご存知ですね。おっしゃる通り、相対ホームに中線パターンと言う駅は東日本では見かけませんね。明治43年発行各駅配線図東日本版があったらぜひ見たい・・・。

米原~京都の
この区間 は、
「湖西線」が開通する前 は、
ダイヤ上
いわゆる「特急街道」ですね。

そのため、
「中線」は必要 で。

湖東区間の東海道本線は開業時よりホーム無しの中線仕様の駅パターンが主流でした 当時は当然単線で開通しており 当時は飽く迄駅発着貨車の留置が目的で設けられており通過列車用では無かった
当時の写真を見ると本線駅進入側は直線分岐も定位つまり直線駅進出側は対向線進入に付き反位側で進出が通常パターンですで中線は下り側上り側共背向定位分岐つまり中線は上下線に対しては長い背向の渡り線状態でした と云う事は飽く迄荷扱い貨車を一時的に留置するのが目的で設けた
其の後複線化や輸送力増強等で何処の駅も側線や留置線が増加して行くのです特に駅舎側で無いホーム外に側線を追加して行くパターンで駅は成長して行くのです

yyoshikawaさん、
>駅舎側で無いホーム外に側線を追加して行くパターンで駅は成長して行く
まったくその通りですね。本屋側のホームを変更するのは大変ですから。ただ本屋と反対側に成長していく際に本線と副本線の入れ替えを行うかどうかで結果が変わってきますね。

関東圏の駅で例外的に相対ホームに中線の有る駅が嘗て存在してました 中央本線武蔵境駅がそうです中線は貨物列車待避専用でした下り線ホームは西武鉄道是政線(現玉川線)との乗り換えの為島式になってました現在は両線共高架化されましたが中央線と多摩川線間には多摩川線車輛の定期検査の為車輛授受連絡線は残ってます

yyoshikawaさん
おっしゃる通り武蔵境駅は例外的な配線でしたね。理由は全くわかりませんが(汗)。

滋賀県の主要駅は米原である。三重県亀山が大阪天王寺鉄道管理局からJR東海になり、米原は名古屋鉄道管理局から、JR西日本になった。
以前は、駅前の道路まで‟近江鉄道”があり、国鉄時代は、日本で1番長い跨線橋があった。操車場跡は貨物駅になる方向になっている。北陸本線の起点で蒸気機関車がヨンサントーまで、田村まで橋渡して‟DD50”が最後まで配置していた。今は、岐阜県境まで米原市になり、以前はかなり広い構内でありながら、町は駅前に喫茶店もない田舎の駅であった。
新幹線以外で、米原を通過したのは、大阪~長野行の特急‟しなの”であり、急行‟高千穂・桜島”の時は、北陸本線からの雷鳥が遅れて、今は無き当時の1番ホームに臨時停車した。JRになって、東京行のブルートレインは、JR西日本からJR東海の乗務員交代の臨時停車していた。
大阪からは、今は無き急行きたぐに・ゆのくにが残り他は湖西線経由になった。昭和58年までは、ローカル客車は‟DE10”の橋渡ししていた。
県庁所在地である大津市は、府庁で政令指定都市である京都市と隣接していて、正直目立たない大津から長浜へ船で連絡して敦賀港へ行き、ウラジオストクへ渡って、ヨーロッパへ行っていた。東海道本線が全通する前である。田村からは、新幹線の試験目的で、交流電化されて敦賀まで直流電化されて、新快速が敦賀まで行く様になった。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 東海道線各駅の配線の特徴 その2:

« 東海道線各駅の配線の特徴 その1 | トップページ | 東海道線各駅の配線の特徴 その3 »

過去の記事

2023年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ