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2011年8月26日 (金)

大垣配線図

関ケ原から始まって、東海道線を少しづつ東に移動しています。
今回は大垣駅です。

まずは1960年(昭和35年)頃。

196000r
・樽見線と、実質的な美濃赤坂線・垂井線の分岐駅で、さらに近鉄養老線がスイッチバックの形態で桑名・揖斐方面に接続しています。
・これらの路線の中で樽見線の開業だけがずっと新しく、1956年(昭和31年)です。
・また、図には記載されていませんが、神戸方には大垣電車区が設けられており、東海道線の電車列車の運転上の拠点駅となっています。「大垣行き」の電車で馴染みが深い駅ですね。
・東海道線の電化は1955年(昭和30年)であり、この時点で大垣機関区が大垣電車区に変更されているのですが、1972年(昭和47年)頃までは樽見線もしくは入換用と思われるC11が配置されており、「蒸気機関車が配置されている電車区」という珍しい存在でした。
・「東海道線の電車列車の運転上の拠点駅」の割には進路数は意外に少なく、美濃赤坂線・垂井線用と思われる中線を除けば下りは下り本線・下り1番線、上りは上り本線・上り1番線のみで、ホームでの折り返しもできません。
・東海道線は貨物列車も数多く運転されていたのではないかと思いますので、結構厳しいような気がします。
・その割に樽見線用には樽見本線・樽見中線・樽見1番線と3つも本線が設けられています。
・貨物の積卸は近鉄線を挟んだ向こう側の南1~4番線あたりでしょうか。

続いて1968年(昭和43年)2月。

196802r_3
・下り1番線の東京方に上り出発信号機110Lが設けられましたが、これは樽見線用で東海道線東京方には出発できません。
・また、樽見線の場内信号機には103RDが新たに設けられています。おそらく上り1番線への進入用と思われます。東海道線に比べ樽見線はずいぶんと重要視されているような・・・。
・連動装置は継電の進路選別式と思われるのですが、樽見線の場内信号機のてこ番号が103Rと104Rの2つあるのがちょっと不思議です。

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201r_2
・神戸方から下り1番線に進入できるようになりました。神戸方だけではありますが、これでようやくホームでの折り返しが可能になりました。

続いて1979年(昭和54年)4月。

1979041r_2

1979042r_2
・大垣電車区も描かれていますので、これで全貌が明らかになりました。
・率直に、電車区は思っていたより小規模な気がします。電留線が本線の両側に配置されているのも珍しいですね。
・下側の転車台のある付近が旧機関区で、C11の根城だったところでしょうか。
・「上り乗越線」は確かに本線を乗り越しているのですが、「下り乗越線」は何も乗り越していないところが面白いですね。
・上り出発信号機110LEが設けられて、下り1番線から東京方に出発できるようになりました。これで東京方でもホームでの折り返しが可能になりました。

続いて1986年(昭和61年)4月。

198604r
・1984年(昭和59年)1月に大垣駅の貨物取り扱いが廃止(近鉄線連絡貨物は継続)されてしまいましたが、この時点では特に線路に変化はありません。
・1984年(昭和59年)10月には樽見線が樽見鉄道に転換され、樽見鉄道との連絡貨物の取り扱いが加わっています。

続いて1990年(平成2年)8月。

1990081r_2

1990082r_2
・貨物の取り扱いの廃止により南1~4番線あたりは線路が撤去されたようです。
・東京方に渡り線と場内信号機101RDが設けられ、東京方から上り1番線にも進入できるようになりました。
・電車区関係は電車区18・19番線が増設されたようで、変則的だった番線名の並びも整理されています。
・旧機関区付近では転車台及び機関区3番線の撤去が行われたようですが、大きな変化ではありません。

続いて1997年(平成9年)3月。

199703r_2
・1996年(平成8年)に近鉄線との連絡貨物取り扱いが廃止されましたが、まだ線路は繋がっています。
・上り1番線の東京方に出発信号機8LDが設けられ、上り1番線からも樽見方に出発できるようになりました。樽見鉄道との関係、まだまだ重要視されていますね。
・上り仕訳線の一部が撤去されたようですが、それ以外は大きな変化はありません。

最後に2006年(平成18年)4月。

2006041r

2006042r_2
・近鉄線に続き、樽見鉄道線との連絡貨物も2006年(平成18年)4月に廃止されてしまいました。
・近鉄線連絡貨物廃止の関係で近鉄線と繋がっていた線路が撤去されてしまったようですので、今後は樽見鉄道線側でも変化が起こるかもしれません。
・電車区関係では、今まで「電車区○番線」という名前だった線路が「南○番線」に変更されています。貨物積卸線関係に使用していた「南○番線」の呼称が空いたためでしょうか。
・北側の旧機関区周辺は大きく変化し、電留線が大増設されました。規模的には南側とさほど変わらないくらいになりましたね。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

電車区は本線によって二分されていますね
山側が旧機関区から発展したもので
海側が本来の電車区として新設された方だと思います
この電車区の車止め側すぐ西は杭瀬川(関ヶ原合戦の前哨戦がありました)が迫っていて本線は堤防を越えるために大きく登っています
なので東海道線の列車に乗っていると電車区の配線が手に取るようにわかります

この駅は樽見線の中継貨物がやはり一番多かったんでしょうねえ
ここ大垣から通勤していた先輩がいて
積雪の度遅れて出勤していたことを思い出します

お、大垣駅ですね。
乗り降りの数は極めてマレですが、行き先や乗換えで大変縁の深い駅ではあります。

配線図のいずれにも見えませんが、樽見線の0km754m地点にある場内信号機より樽見方にもう一基、第1場内信号機があり、さらに樽見方に遠方信号機があります。

そして図を拝見して、貨物列車の経路はどうしていたのかと思いました。
下り1番線から樽見線への進路が出来ますが、ここから貨物列車が発車したのは見たことが無く、樽見線の貨物は、樽見本線か樽見1・2番線からの発車で、入れ換えをやっていたのでしょう。
一旦引き上げ。
そこで樽見線の一部を引き上げ線とし、それで場内信号機がかなり東の方に設置されたのかと思いますが、どうでしょうか。

上り1番線から樽見線への進路は、割と最近なのですね。
これ一つには、臨時列車の運転のためではないかと思います。
90年代の一時期、薄墨桜で有名な根尾まで観桜期に、名古屋から臨時列車が14系客車で運転されていました。
余談ですが、その薄墨桜臨時列車の名古屋行きは、稲沢西からは貨物線を通りました。

子どもの頃の記憶を手繰ると、確かに大垣駅ではホーム折返しは見た覚えがありません。
尾張一宮から乗った80系電車は西の方へ逃げ、別の80系米原行きが入ってきたり、高槻か網干の113系が入ってきたりしてました。
そう、当時は大阪快速電車が結構、大垣まで来ていたんです。
グリーン車も連結して。

一つ書き忘れ。
樽見線場内信号機の、3RA2。
これ現地の信号機には「樽出」という札が出てます。
この「樽出」ってなんだ?と、ある時に樽見線の事務所で雑談の途中で訊いてみたら、「東海道下り線にも進路構成できるので、それではいかな」という話でした。
しかし「樽出」って、進路引いた事あるのかな。
進行信号も出せる信号で、通過進路が構成できます。

> 貨物列車の経路はどうしていたのか

いつから変更になったのかは分かりませんが、
以前はこんなところで折り返していました。
http://railtomo.dip.jp/p/simg_0074.jpg
http://railtomo.dip.jp/p/simg_0075.jpg

ヒデヨシさん、積雪で列車が遅れて遅刻だときっと「仕方がないなぁ」で済んじゃうのでしょうか(笑)。
kisomitakeさん、
1)第一場内があるのですか。2006年の樽見線場内の進路が「樽見1区-樽見○○」と記載されているのが引っかかっていたのですが、そういうことだったのですね。隣の上り入換2番線が使えるようにすればよいのに、とも思ってしまいますね。
2)「樽出」、何かヘンですね。普通だったら「下本場」とかですよね。付け間違いとか(笑)。
3)貨物の経路
特に樽見線→神戸方の移動をどうやっていたのかが疑問でした。
樽見2~4番線→上り乗り越しまたは入出区→下り1番線→下り入換2番線ぐらいしか考えられない・・・・・・と思っていたら、ともくんさんから美濃赤坂に続いてまたも衝撃画像が。
これって要するに上り乗越線を経由していたってことですよね。電車区の入出区用としか思っていませんでしたので、まさかまさかでした。
でもそう言われてみれば、電車区線ではなく西1・2番線という他とは区別された線路名、まるで機回しを想定しているかのような配線・・・これはもともと貨物用に設けられた線路なんですね。
いやいや、びっくりしました。ともくんさんに感謝します。

駅の場合は交代要員が来れないと
前日から勤務しているものが引き続き業務するだけです
刈谷ですと
名古屋発の電車しか来ないから把握していますね
当時はほとんど大垣か米原発ですから午前中はダイヤボロボロでした

ともくんさん、すごい画像を有難う御座います。
あんなところまで、貨車お入れ換え作業してたのですね。
これでしたら、東海道本線上下とも平面で横断しなくて済みますし。

その西1番線か西2番線は、今年3月のダイヤ改正までは、三本あるJR西日本車両の一本が夜間留置されていました。

ヒデヨシさん、刈谷では名古屋発の電車しか来ないと、「お、降ってるな」ということになるわけですね。よく新幹線の遅れは報じられますが、在来線も苦労が多かったんですね、当然といえば当然ですが。
kisomitakeさん、ホントに意外でした。コロンブスの卵といえばその通りなのですが。

大垣駅周辺と西濃鉄道の写真をスキャンしてみました。
大垣駅周辺
http://railtomo.dip.jp/photo/ogaki.html
西濃鉄道
http://railtomo.dip.jp/photo/seino.html

ともくんさん、またまた貴重な写真ありがとうございます。とくに貨車でいっぱいの大垣駅にはエネルギーが感じられますね。
ところでクモニ83と113系が衝突しているかのような写真、あれは訓練でしょうか、それとも事故?

> クモニ83と113系が衝突しているかのような写真

あれは事故です。進路が隣の線なのに青を出し、途中で気づいて赤旗を出したがポイントで脱線した。と記憶しています。

やっぱりそうですか、まさかとは思ったのですが。
これまた衝撃的な写真ですね。

子供の頃の記憶では、電化前(昭和30年代以前)は、今と構内配線はまったく異なっていたと思います。電化以前あるいは、蒸気補機の時代の構内配線図を教えて下さい。

じった、と呼ばれていますさん、そうなんです、その通りなんです。大垣駅に限らず多くの駅で電化前後で配線が変わっているのではないかと思うんです。ただ残念ながら蒸機時代の配線図がないんです・・・。

早速のコメントをありがとうございます。
記憶では、現在の2、4、5、6番ホーム辺りに機関車庫がありました。3番ホームから西へ上りホームがあり、電車区は電化の際新設です。3番ホームの跨線橋は昔からあるものです。1番ホームにいると煤煙でかすんでいたとの記憶があります。

じったさん、電化前の配線図、是非とも知りたいです・・・。

大垣駅で、下り1番線から樽見本線への貨物列車の運転は昭和47年ごろに見た記憶があります。
下り貨物列車が下り1番線に到着し、牽引してきた電気機関車は切り離されて単機となり、数分後に下っていきました。
貨物列車の名古屋寄りにDE10の重連が連結され、「樽出」の信号で樽見線に出発していきました。
ほぼ定期列車で、20時ごろた゜ったと記憶しています。

kawachiさん、下り1番線から東海道上下線を横断して樽見線に向かう貨物列車、ずいぶんと大胆な列車が運転されていたんですね。

1972年(昭和47年)1月で、神戸方から下り1番線に進入できるようになりました。

との記述がありますが、私の記憶では、1968年(昭和43年)当時に、神戸方から下り1番線に進入して折り返す113系の普通列車に乗った記憶があります。
大垣駅で初めて見た113系にびっくりするとともに、折り返し時間で、車内清掃を実施していました。
そうとは知らず、乗り込んで注意された子供の時の記憶がよみがえりました。

kawachiさん、1968年2月時点では神戸方から下り1番線には進入できませんので、この後早い時期に改修されたんですね。

神戸方から下り1番線に進入する件ですが、当時の時刻表を調べてみると、昭和43年10月の白紙ダイヤ改正時点から、関西方面がの普通列車が、下り1番線を利用した折り返し運転が始まったようです。

11月5日の私の記述ですが、11月か12月に垂井から大垣駅に行く時に、たまたま運良くこの運用の普通列車に乗り合わせたと記憶したいます。
113系を初めて見てびっくりすると共に、大垣駅での列車構内横断を列車の一番前で、かぶりつきでみていました。

また、この昭和43年10月の白紙ダイヤ改正から、大垣駅中線 ホーム3番線からの、美濃赤坂行、垂井線経由の60系2両よる区間運転が取りやめとなってしまった記憶があります。

ネタ10項で、関西弁で言うところの へたこいた のに性懲りもなく淡い記憶でのコメントです。
昔の空中写真を見ると大垣機関区は東京方左手に2線級に見える矩形庫と矩形庫外側に転車台の配置で新線開通までは D50等の補機基地の機能だったようですが、その後は関ヶ原ー岐阜での区間運転等に C11の塒となったようです。
本線電化の頃なのでしょうか、機関区設備は じったさんのコメントのように駅ホーム外側に移転していて矩形庫と転車台がホームから見渡せたようです。
多分、キネマ旬報社蒸気機関車誌の 特集C11巻だったでしょうか、ホームから写した感じの転車台に乗る C11の写真が掲載されていたような気がします。
その後、機関区設備が電車区側に移転したようですが、配線図の機1〜機3が給炭水線と想像出来るのですが、4線の矩形庫は数両の C11には贅沢過ぎる気もしますので、当時はいったいどんな状況だったのか興味深いですね。

ここ大垣駅は、鉄道に興味を深めていった子供の頃に地元から東京方面に発車していく普通列車の最遠の地だったこともあり、普通電車の先頭車両のおでこに付いている行き先表示の 西明石 京都 草津 野洲 安土 米原 等よりも 大垣 には特別なものを感じていました。

kawachiさん、43-10の前に神戸方から下り1番線への進路が設けられたんですね。
E10さん、ということは、機関区設備は東京寄り→ホーム脇→電車区付近、と2回移転したということでなんですね。
大垣電車区にはC11のほか樽見線の気動車も配置されていましたので、その関係で4線の矩形庫だったのかもしれません。

こんにちは。
今日も大変興味深く拝見させて頂きました。
大垣駅は、東海道本線の列車の乗り継ぎで利用した経験がほぼ全てです。その合間に食事に駅の外へ出る程度のことはしましたが、あくまでも「乗り継ぎのための駅」という感覚でした。
他の皆様のように詳しくなく、くだらないコメントになってしまい恐縮ですが、配線図と解説をこちらで拝読し、一つ驚きがありました。
養老線ホームの横、JR側に広がっている留置線は、近鉄/養老鉄道側の設備ではなく、国鉄/JR側のものなのですね。
東海道本線の下りホームは背を向ける形になっていることもあり、全く勘違いしていました。養老線の中でも国鉄と接続していた大垣駅は重要な拠点だったのだろう、随分たくさんの側線もあるんだ、くらいに思っていました。
時系列で歴史を追って配線図を見る魅力、改めて感じた次第です。
風旅記: http://kazetabiki.blog41.fc2.com/

風旅記さん、
>くだらないコメント
とんでもございません。旅情を掻き立てるコメント、ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。

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