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2011年7月28日 (木)

垂井配線図

今回は垂井駅です。

まずは1960年(昭和35年)頃。

196000
・信号扱所の記号は第1種になっていますが、見たところ転てつ器はすべて現場扱いのようです。
・垂井線の場内信号機は上下とも進行を現示するようです。すなわち上下とも垂井駅を通過可能ではないかと思われます。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603
・変化はありません。

続いて1967年(昭和42年)1月。

196701
・連動装置が継電の進路選別式になったようです。従って少なくともこの時点では主要な転てつ器は動力転てつ器になっていたのではないかと思います。
・垂井線の上り場内信号機が進行を現示しなくなりました。これを信用すれば、垂井線下りは垂井駅を通過可能ですが上りは通過不可能ということになります。でも片方向だけって・・・?

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201
・変化はありませんが、1971年(昭和46年)10月に貨物営業は廃止されています。

続いて1975年(昭和50年)1月。

197501
・上り本線側の貨物側線が撤去されました。
・これに伴い東京方の渡り線33イ~33ロも撤去されたようですが、代わりに53イ~53ロが設けられています。ただ、東京方から中線に進入できるようになったわけでもなく、何のために設けられたのかが不明です。
・垂井線下り場内信号機も進行信号を現示しないようになり、これで垂井線は上下とも垂井駅を通過不可能になりました。

続いて1979年(昭和54年)4月。

197904
・前述の渡り線53イ~53ロが手書きで抹消されていますね。早くも撤去?
・垂井線上り場内信号機に進行信号が現示するよう(すなわち上りは垂井通過可能)になっていますが、よく見るとこれも手書きで書き加えられたもののようです。

続いて1985年(昭和60年)3月。

198503
・渡り線53イ~53ロは本当に撤去されたようです。いったい何のための渡り線だったのでしょうか。
・垂井線上り場内は進行を現示しないようですので、これに関しては1979年(昭和54年)の図の手書きは間違いっぽいですね。
・何やらメモが書き込まれています。「単弁2K」とか「ノッチアップ」などと書かれていますので、機関士さんでしょうか。

続いて1992年(平成4年)1月。

199201
・ほとんど変化はありません。

続いて1992年(平成4年)4月。※※

199204
・垂井1番線が袋小路になっています。
・但し、1992年(平成4年)の1月から4月の間に袋小路になったとは言い切れませんが。

最後に2006年(平成18年)4月。

200604
・変化はありません。

垂井線の列車は、昔は垂井駅を通過できたようですが、今はkisomitakeさんのコメントのとおり上下とも通過できない設定になっているようです。
(関ケ原駅の場合は通過できるようになっているようですが、なぜ通過できる設定になっているのかは不可解ですね。)

垂井駅は通る列車の数が上下で大きく異なるという、大変珍しい駅ですね。
短期間ではありますが上り列車しか来ない時期もあったわけで、よくもまあそんな大胆なことができたものだ、と不思議に思ってしまいます。

配線図はT.Mさん及びKASAさん(※※印)よりご提供いただきました。

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コメント

垂井腺の上り列車は関ケ原~垂井間は垂井線経由で運転されますが垂井~大垣間は東海道本線の上り線を運転されます。

こうして図を拝見してみると、垂井本線下り場内信号機は、進行現示を出せない二灯式なのですね。
信号機そのものは信号灯が三つ入るタイプのものですが、青の電球(LEDかも)は入っていないのですね。

垂井本線を走る下り列車、場内信号機付近は上り坂になっています。
そこで信号の注意現示まで速度落とすと、上り勾配ゆえ速度がどんどん落ち、運転士によっては(車両によっては、かも)ノッチを入れることもあり、ガクンと衝撃があったりします。
しかも直ぐにノッチオフで、運転が難しいところの一つですね。

T.Mさん、お久しぶりです。
そうですね、ですので同じ線路の上を上下両方向の列車が走るのは垂井~関ケ原間だけですね。
kisomitakeさん、本来ならば速度制限を気にせずにホームに滑り込みたい場所なんですね。運転士さん泣かせ、逆に言えば腕の見せ所かも・・。

東京方の渡り線33イ~33ロも撤去されたようですが、代わりに53イ~53ロが設けられています。ただ、東京方から中線に進入できるようになったわけでもなく、何のために設けられたのかが不明です。

東京方の渡り線31イ~32ロと垂井駅の間には、相川が流れており、その橋梁があります。
昭和48年8月に橋げたごとの総取り換え工事が実施され、大垣からの列車を垂井本線ではなく、中線に移すことで対処していました。
その工事のために渡り線33イ~33ロが設けられ、工事完了後に撤去されたと記憶しています。

kawachiさん、情報ありがとうございます。なるほど、工事期間中の暫定的な配線だったのですね。

15年ほど前ですが、新垂井線の工事の関係??により、一部の特急しらさぎが垂井線経由になったことがあります。
垂井駅3番線 垂井本線 を通過するのかと見ていたところ、垂井駅に運転停止し、63の脱線ポイントが本線に開通してから発車していきました。

また、現在63の脱線ポイントはありません。
10年位前に、垂井駅を出発した313系が途中で雪だまりに突っ込み、前途運転不可能の事故が発生しました。これを救援するためにDD51重連が垂井駅が関ケ原方面に向かおうとしましたが、脱線ポイントが本線に開いていない状態で発車したために脱線ポイントの車止めに衝突し、横転したことがありました。
その後、この事故との関係は解りませんが、この63の脱線ポイントはとりはずされました。(当時、駅員さんなどに事故の顛末などを尋ねましたが、回答はいただけませんでした。)

過去に見聞きしたことを思い出し、書いてみました。

kawachiさん、情報ありがとうございます。
雪だまり突っ込み+救援DD51の脱線横転・・・結構大惨事だったのですね。

50年くらい前の出来事が頭をよぎりましたので、思い出すままに書かせていただきます。

垂井駅のすぐ西側(大阪側)にある金蓮寺踏切を渡ろうとしたところ、遮断機が下り、垂井駅を見ると大垣方面から来た列車が3番線に停車しておりました。
しかし、踏切はなぜか上り方面の矢印がでていました。
ほどなく大阪方面から貨物列車が通過し、垂井駅1番線を通過していきました。
踏切は貨物列車通過後も上がらず、不審に思ったところ、併走する垂井線を上り列車 大垣行き がやってきました。
3番線の列車と衝突するのではとびっくりしましたが、よくレールをみると垂井線から2番線に入るポイントが開いており、無事2番線に入選しました。
その後、3番線より列車が関ケ原方面に向かっていきました。

以上思い出すままにかかせていただきました。

また、垂井駅での脱線事故は、2000年(平成12年)2月16日 ‐ 降雪により立ち往生した下り普通列車を救援するために向かった重連のディーゼル機関車(JR貨物)が当駅の安全側線に突っ込み脱線。事故から約20時間後に復旧した事故でした。

2000年(平成12年)2月16日の垂井駅での脱線事故のときには、大垣方面から垂井駅下車の乗客救済のため、次のような臨時電車が運転されました。
私も偶然乗ることができました。

大垣駅から新垂井経由で関ケ原まで運転する。
もちろん、新垂井駅は通過です。
関ケ原駅で全員をホームに下車させ、米原方面に引き上げる。
下り線に転線して、下りホームに止まり、再び乗客を乗せて、垂井線ではなく、東海道上り線で垂井駅に向かい、客扱いをする。

垂井駅では、安全側線に突っ込んだ重連のDD51の先頭車側のDD51が45°程度傾いて止まっていました。

19年前の出来事を思い出すままに書いてみました。

kawachiさん
垂井駅付近は思いもよらぬ方向から列車がやってくることがありそうですね。

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