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2011年7月17日 (日)

関ケ原付近の路線の変遷

突然ではありますが関ケ原に飛びます。

関ケ原付近は東海道本線の中でも特徴的なことが多い場所です。

1)雪が多い

2)列車本数が少ない
・関ケ原~米原間が東海道本線の中では最も列車本数の少ない区間だそうで、青春18きっぷ利用者の間では「関ケ原越え」として難所扱いされているようです。

3)開業が早い
・関ケ原駅の開業は1883年(明治16年)で、この時点では東海道線は新橋~横浜、大津~神戸間が開通していたに過ぎません。
・静岡や浜松、名古屋よりも開業が早いのはちょっと意外。

4)東海道線の最後の開通区間
・開業は早かったのですが東海道線としては最後の開通区間でもあります。
・関ケ原駅の開業後、東海道線は怒涛の勢いで開通が進み、6年後の1889年(明治22年)4月には関ケ原~馬場(膳所)間を残して開通してしまいました。この区間がその3か月後の同年7月に開通し、晴れて東海道線全通となっています。

5)急勾配の緩和
・こちらは本物の関ケ原越えです。
・急勾配緩和のため路線の付け替えや緩勾配線の設置などが行われています。

6)垂井線の存在
・ちょっとクセモノの垂井線です。

線路的には1)、2)は省略して、3)~6)の観点で関ケ原付近を観察してみたいと思います。

手始めに路線の変遷です。

最初に1882年(明治15年)。

1882
・長浜~金ケ崎間の鉄道が開通(一部は徒歩連絡)し、また長浜~大津間は太湖汽船により航路で接続されました。
・すでに大津~神戸間は鉄道が開通していますので、航路を介して金ケ崎~神戸が結ばれたことになります。

次に1884年(明治17年)。

1884
・1883年(明治16年)に関ケ原~長浜間が開通し、関ケ原駅が設けられました。
・翌1884年(明治17年)には大垣まで延伸され、1887年(明治20年)には武豊~金ケ崎間が全通しています。
・「春照」は「すいじょう」と読むらしいです。難読です。

次に1891年(明治24年)。

1891
・1889年(明治22年)に関ケ原~春照間で分岐し長岡・米原を経て馬場に至る路線及び米原~長浜間が開通し、東海道本線が全通しました。
・旧線は休止となり、1891年(明治24年)に分岐部に深谷貨物駅が設けられて貨物線として復活した時期もあったようですが、しばらく後には再度営業が休止されています。

次に1899年(明治32年)。

1899
・急勾配緩和のため関ケ原~長岡間で線路の付け替えが行われ、関ケ原~深谷(貨)~長岡間及び休止中の深谷(貨)~長浜間が廃止されました。

この後、1900年(明治33年)に柏原駅と醒ヶ井駅が開業し、1914年(大正3年に)長岡駅が近江長岡駅に改称されています。

関ケ原以西の急勾配緩和策の実施に比べ関ケ原以東のそれはずっと後のことで、新垂井経由の下り線が設けられたのは1944年(昭和19年)でした。

南荒尾(信)~関ケ原間の縦断面図はこんな風になっています。

1r

2r

・垂井経由の線路には最大25‰の勾配が見られますが、新垂井経由の線路では10‰以下に抑えられています。
・その代わり距離が約3km伸びていますが。 

以上のように関ケ原付近の路線は結構いろいろな変遷をたどっているのですが、ちょっと不可解なのはそれらが開通から間もない短期間に集中していることなのです。

結果として、
1)関ケ原~深谷(貨)間
  ・1883年(明治16年)開通
  ・1899年(明治32年)廃止、使用16年
2)深谷(貨)~春照~長浜間
  ・1883年(明治16年)開通
  ・1889年(明治22年)休止、使用6年
3)深谷(貨)~長岡間
  ・1889年(明治22年)開通
  ・1899年(明治32年)廃止、使用10年
といったぐあいで、せっかく作った割には短命だった路線が多くなっています。

素人的にはついつい「だったら最初っから・・・」と思ってしまうのですが、当時はそれなりの事情があったのだと思います。

縦断面図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

以前から私も関ヶ原~米原間の頻繁な線路の付け替えは何だろうと思っていました
もちろん勾配緩和でしょうがなぜそれほど路線選定が確定していなかったのかはわかりませんね

垂井付近の勾配は実際乗ってみると
直線で延々と勾配が続いているのを体感できます
蒸機や初期の旧型電機での長大貨物列車には相当きつかったと思います

今のルートになって100年以上が経過しているのに、それ以前の10数年でバタバタとルートが変わっているのはちょっと不思議です。
山科付近では10‰でもきつくて3線にした経過があるようですから、電化前は新垂井経由でも苦しかったかもしれませんね。

全く鉄道とは違う観点から「関ヶ原」です。
相応しくないと判断されたら即削除お願いいたします。
今から約30年前、関ヶ原の古戦場を訪ね米原まで新幹線、米原から上り東海道本線に乗り関ヶ原まで古跡巡りをしたことがあります。
松尾山頂に登り、小早川秀秋陣跡から臨む関ヶ原の景色は絶景(歴史の重みと相俟って)で、今も忘れられません。
小早川秀秋の義父は、私の地元の領主小早川隆景なのです。

また、邦光史郎(四郎?)の著書の関ヶ原を岐阜羽島あたりから描写する文章は戦記ものの価値以上に鉄道の醍醐味を十分堪能させてくれるものです。
さて、関ヶ原の駅はこじんまりした、どこにでもあるような駅でしたが、歴史的重みを感じさせる駅であることに違いはありません。
また、東京から「あさかぜ」で広島まで帰る時、最後尾から眺めた関ヶ原の駅、受験で上京する時のスブリンクラーの水、色々と思い出多い駅です。

いかにもTOさんらしいコメントありがとうございます。私のような鉄道バカにとって大変勉強になります。
関ケ原の駅には古い跨線橋が残っており、ひっそりと歴史の中にたたずんでいる雰囲気です。

はじめまして。2chの車両スレに山科駅記事の紹介があり、そこから繋がってきました。楽しい記事とても興味深く読ませていただきました。

明治政府は東海道線敷設当時お金が無く、とりあえず長浜大津間は湖上連絡でよいと考えていたようです。既に江戸時代から琵琶湖内には定期航路が多数ありましたから。ところがいざ鉄道連絡が始まると日に2または3往復の航路は輸送力不足やまた天候にも影響され安定せず、あわてて湖東線の建設にとりかかりました。結果的に米原経由となって長浜を東海道線が通る必要がなくなり、春照から先は廃線となりました。さらにそれなら柏原回りのほうが勾配少なく、路線変更になりました。国道365号を走ると勾配のきつさを体験できますね。
ちなみに膳所梅小路間の3線化はトンネル内換気に時間がかかるため列車間隔を詰めることができないためのものです。

わだらんさん、このブログでは初めまして(実は以前ヨソで一度だけ・・・(笑))。
関ケ原~長浜間の開業は新橋~横浜間が開業してからわずか11年後のできごとですから、まだ鉄道に対する国の方針などがはっきりとは定まっていなかったのかもしれませんね。
山科付近の3線化は煤煙対策ですか、ありがとうございます。私はてっきり勾配対策かと思っていました(汗)。

垂井経由の旧線に25‰とありますがもともとは20‰でした。迂回線が完成するので勾配の心配がなくなり、迂回線との立体交差のために短区間の25‰が設けられました。
揚げ足とりでごめんなさい。

C6217さん、すごいなぁ、いろいろお詳しいですね。
ぜひ、この調子(?)でどんどん揚げ足取りをお願いいたします。

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