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2011年6月 5日 (日)

加古川配線図

今回は加古川駅です。

(1979年(昭和54年)の加古川駅の様子はこちら、加古川気動車区の様子はこちら。)

まずは1950年(昭和25年)4月。

195004r
・大きい駅なのですが、本線関係は比較的さっぱりしています。
・2番線は山陽線下りの待避用で、折り返しはできません。
・4番線は山陽線上りの待避用ですが、ホームはありませんので旅客列車同士の追い越しはできません。
・加古川線・高砂線の本線関係がよくわかりませんが、
  出発信号機10  加1→高砂方
         11  加2→谷川方
         13  加3→高砂方
         14  加3→谷川方
ではないかと思っています。
・加古川線ホームの右側の延長線上に加古川機関区が設けられていたはずですが、この図ではよくわからないですね。
・図の左下、加古川線と高砂線の間の点線は昔の軍用線です。
・また、図の右上の点線は日本毛織加古川工場への専用線ではないかと思うのですが、定かではありません。

続いて1958年(昭和33年)4月。

195804r
・電化されました。架線が張られている範囲がよくわかります。
・この頃加古川機関区は加古川線管理所に組織変更されているようで、さらに1970年(昭和45年)頃に加古川気動車区に再度組織変更されているようです。

続いて1971年(昭和46年)9月。

197109r
・東部信号扱所は継電化されたようですが、西部や中部はまだそのままのようです。

続いて1986年(昭和61年)4月。

198604r
・出発信号機9Lが設けられ、2番線から神戸方に出発できるようになりました。すなわち加古川折り返しの列車が設定できるようになったわけですね。
・1984年(昭和59年)に高砂線は廃止されてしまいました。
・また1990年に加古川気動車区は加古川鉄道部に組織変更されているようです。

最後に1999年(平成11年)10月。

199910
・2000年(平成12年)頃より高架化工事が始まっているようですので、その直前の姿になると思います。
・工事に先立って1999年頃には高架化で支障する加古川鉄道部が厄神付近に移設されています。
・その後2004年(平成16年)に加古川線が電化され、2005年(平成17年)には高架化工事が完了し、全く新しい姿に生まれ変わりました。
・高砂線と高砂工場、非電化の加古川線、加古川気動車区、数多くの貨物側線群、全て遠い昔のことになってしまいましたね。

以下、1979年(昭和54年)の未公開写真をいくつか。

19790830d21
・東京方です。
・左へカーブしているのが高砂線・加古川線です。

19790830d20
・振り返るとこんな感じ。

19790830a01
・今度は加古川線・高砂線ホームから。

19790830a02
・加古川・高砂方です。

19790830a04
・門司方です。

19790830d01
・門司方からです。

19790830d17
・門司方からです。

19790830d18
・加古川駅本屋です。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

地上時代の加古川駅、非常に懐かしいです。
2番線から神戸方へ折り返し運転できるようになったのは比較的新しいんですね。新たな驚きです。
それから、JR移行後に発足した加古川鉄道部は、加古川線電化と共になくなり、加古川線内の各駅は加古川駅の管轄に、運転部門は網干電車区の厄神派出となりました。
お世話になった運転士の皆さんや駅関係のかたも殆どが定年退職を迎えられたようです。
ちなみに、西へ延びる点線は日本毛織加古川工場への専用線ですね。

このあたりはすみもとさんの本拠地でしょうか。
加古川駅と聞くと始発・終着列車多く設定され、旅客列車同士の追い越しも上下を問わず頻繁に行われているようなイメージがあったのですが、実際には結構簡素な構成でした。
日本毛織の専用線は結構クセモノのようですね。このあたりは宝殿駅と絡めて・・・。

分岐駅で風格のある木造駅本屋
貨物積卸設備、テルハ、両側に降りれる跨線橋、三箇所もの信号所、検重器、ヤード照明塔、多数の留置車両。
幹線の大駅の考えられるすべてを持った駅ですね。

この旧駅舎は素晴らしい作りで感心したので
写真を撮るだけでなくスケッチも致しました。
保存されていないのが惜しいですね

3番目写真
入線してくる貨物列車?を待っているようですが
私も現役時にこうして待っていたので
なんだか懐かしく思います

4番目写真
地表に開通表示灯らしきものがありますが何故に地面にあるのでしょうか?

あれっ?名前表示が無い
上のレスは私のモノです、すみません

昔の写真って良いですね。
未公開写真の一枚目、加古川線と高砂線が2線の状態で建ち並ぶ民家の奥へ消えて行く光景は山陽本線上り列車から幾度となく目にした光景です。
当時の情景が走馬灯の様に甦ってきます。
加古川駅東側の昔の艶街辺りから北へと続く細い踏切も印象深く、この奥、加古川線と高砂線の分岐から加古川線の少し奥に専用線(戦時中の弾薬庫)の分岐がありました。
また、高砂工場入出場車両がひとやすみしていた姿も目を引き、さらに配線図を見て北側の側線群が10線以上も有ったとは驚きです。
高砂線の廃線後に、本線を跨ぐ、橋脚部分が煉瓦作りの鉄橋が早く撤去され、土手部分も平地化されました。(現在は道路)
以前の記事の加古川気動区の西側裏手には、円形の煉瓦壁に囲われた貯水池があり、加古川の車両基地の風情を盛り上げていました。
また、同じく以前の記事の下り線左側の保線車両達は、現在は高架された本線北側に移り、ちょうど貯水池が有った辺りに移転しています。
加古川線も高架後にしか利用しておらず、加古川駅ともほとんど無縁でしたが、高架前に混雑時の新快速を避け快速を加古川まで利用して下りの新快速に乗り換えたりしていて、古い跨線橋が懐かしく思い出されます。
乗換え待ちに一度だけ食した1番ホームの駅そば屋の味が意外と美味しかったことも思い出です。
加古川駅と言えは、ホーム屋根支柱に、明治期の古レールが使用されていたことが有名でしたね。
旧加古川機関区の転車台は、上り本線土手横辺りに在ったらしいのですが、文献その他でもまだ接する機会がなく、私の中では加古川機関区の転車台は今だに幻の転車台の一部となっています。
次回は宝殿駅と日本毛織(通称ニッケ)の専用線の記事がアナウンスされていますので、私も加古川鉄橋辺りのコメントは次回に持ち越したいと思います。
これまで、ここ加古川の鉄道に纏わる話しは意外と眼にする機会が少なく、こちらの地元やお詳しい方々のコメントに期待したいところです。

ヒデヨシさん、現役時代は走ってくる貨車に飛び乗ったりとかされていたんでしょうか。素人的にはカッコイイと思ってしまうのですが、冬・雨・雪・夜間などは危険ですよね。けがなどされなかったでしょうか。お疲れ様でした。
開通表示灯、おっしゃる通り規定では地上から600mm以上と定められているようですね。例外的な扱いでしょうか。以下は弘前ですが、これも地面付近に設けられていますね。
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2010/02/13/031978100203_2.jpg
E10さん、加古川の転車台ってナゾですね。個人的には検修線の先のほうがクネっと曲がっているのがひっかかるのですが。

構内指導掛をやっていました
ヤードでは切り方とかブレーキ担当とかですね
もちろんどちらも飛び乗り飛び降りが主体です
ステップの無い場所に飛び乗ったり
10両ほど突放したとき片側数か所ブレーキをかけても止まりそうもないとき
黒貨車では片側ブレーキなので連結器上を渡って反対側のブレーキを掛けたりしました
効き始めるとブレーキが多すぎるので走って飛び乗り解錠しなければなりません
両数が多い貨車を静かに留置車両に連結するのは難しいですね
ちなみにコキ25500はブレーキの効きが良いのですがコキ50000は手ブレーキの効きが最悪なので要注意貨車でした
転倒したりリバー転轍器に激突したりもありますが大した怪我はありませんでした。
先輩の方で他駅に転出されて機関車に轢かれて亡くなったことはあります

昭和25年の配線図なのですが、ちょっと気になる点が。
北側の側線群の奥から3線目の車止め手前に丸印しがありますね。整然とした側線間の幅から推察して通常の転車台でもなさそうですが、工場や港関係によく見られた貨車用のものでしょうか‥?
加4の下辺りの配線模様は正に機関区らしい配線に見え、敷地的にこの一帯が加古川線の私鉄時代の車両基地では?と想像され、その名残りの古い小さな転車台のようにも感じてしまいます。もちろん機関区好きの妄想ですが‥。
それと、以前からこの加古川関係の記事で気になることがあるのですが、そのことは、も少しあとでお尋ねしてみようと思います。

ヒデヨシさん、危険なお仕事だったんですね。大きなけがをされることもなくて本当によかったですね。
E10さん、この丸印は微妙ですね。おっしゃる通り機関車用の転車台はありえないような気がしますが、かといってこの位置に貨車用というのもおかしいような気がします。何か別の意味を持つ丸印かもしれません。

はじめて投稿します。
質問なんですが、加古川駅から上り本線に沿って東方向に引き込み線がありましたが、1967年頃にその引き込み線を使って貨物列車の入れ替え?をやっていたように記憶しています。
昼の12時頃に引き込み線に貨物が入って来ると、約40分ほど、駅から東側の踏切が3か所ともに遮断されていたと思います。
今から思うと、不思議な光景のように思うのですが、もしご存じであればコメントいただけないでしょうか。

はやたまさん、コメントありがとうございます。
申し訳ありませんが私はわかりません。どなたかご存知の方いらっしゃいましたらコメントお願いします。

まちBBSの
兵庫県加古川市総合スレ Part29
http://kinki.machi.to/bbs/read.cgi/kinki/1307442787/
にも書き込んだんですが、寺家町周辺の同心円状の路地についてその由来をご存じの方はいませんか?非常に特徴的な路地なので気になっています。
地図を見てわかるだけで全部で3本あります。
1本目は人形の陣屋から公民館の西を通ってれんばい市場の南、大川町の交差点の南へ延びる路地で、見ようによっては中国銀行の辺りまで延びています。
2本目は銘菓本舗亀屋の辺りから光念寺の西を通って大川町の交差点のすぐ北を通過して曽谷医院の北側を通っている路地です。
3本目は不鮮明ですが、2本目の更に外側、加古川図書館の西に斜めに延びている路地です。
昔ニッケ加古川工場にはトロッコ網があったとのことですのでその跡ではないかと考えています。

おお~っ、確かにいかにもそれらしいカーブが(3本目は微妙ですが)。昔の写真を見てもよくわからないですね。
どなたかご存知でしたらよろしくお願いします。

お騒がせしました。

まちbbsの書き込みを読んで水路について掲載されていたのを思い出して「かこ・スタイル」と言う本を見てみました。
結局中央の湾曲した路地は文岸寺川跡と書かれていました。お騒がせしました。あとかき庄から南に伸びる水路がある模様。これは中溝川跡。逆に加古川の土手のすぐ東を流れているのが雁南川になるということです。
恐らくは文岸川と平行に何本か同じような水路があって同心円上に路地が出来ているんじゃないかと思います。
最終的には中溝川の方に合流しているのでしょうね。
かこ・スタイルの該当ページです。答えを持っていながらアタフタしてたなんて情けない。
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up71339.jpg
http://uploader.sakura.ne.jp/src/up71340.jpg

そうですか、水路でしたか。いかにもそれらしいカーブでしたので、私もてっきり線路かと思いましたが。

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