姫路配線図
今回は山陽線を軸に、播但線、飾磨港支線、姫新線が分岐する姫路駅です。
1979年(昭和54年)8月に手柄山のYHに宿泊しているのですが、姫路駅に関しては写真も撮っておらず、正直全く記憶がありません(汗)。
まずは1950年(昭和25年)4月。
・この時点では山陽線を含めすべて非電化です。
・旅客駅の部分と貨物駅の部分が直列に配置されているため、全体としてはかなりの長さになっています。
・旅客駅、貨物駅のそれぞれに転車台が設けられています。
・姫路客貨車区が設けられているはずなのですが、この図のどの部分なのかはよくわからないですね。旅客駅部分の海側の南1~7番線あたりでしょうか。
続いて1958年4月。
・ちょうど姫路まで電化が延伸された頃です。
・貨物駅部分の上下本線が広がって貨物線群がその間に入る、いわゆる抱き込み式に変わっています。
・貨物駅の転車台付近には「第一機関区」、旅客駅の転車台付近には「第二機関区」の文字が。「第一機関区は蒸機・ディーゼル機、第二機関区は電機」というのがよくあるパターンですが、姫路の場合はどうだったんでしょうか。広島と同じく旅客と貨物?
続いて1966年(昭和41年)3月。
・この時点では山陽線は全線電化が完成しています。
・旅客駅にあった転車台が姿を消しました。
・但し1984年(昭和59年)3月までは姫路第一・第二の両機関区組織が存在していますので、特に第二機関区は乗務員区的性格が強くなったのかもしれません。
続いて1986年(昭和61年)4月。
・第一機関区と第二機関区が統合されたのでしょうか、旧第一機関区部分が姫路機関区となっています。
続いて1992年(平成4年)4月。※※
最後に1999年(平成11年)10月。
・高架化工事の関連と思われますが、貨物駅部分はそっくり廃止されて数本の電留線に姿を変えました。
・旅客駅付近の側線群も大幅に規模を縮小しています。
貨物駅は御着駅付近に姫路貨物駅として1994年(平成6年)移転・開業しています。
この後姫路駅は高架化工事が行われ、2008年(平成20年)に工事が完成しています。
加古川や明石、兵庫、神戸などもそうでしたが、高架化の際には車両基地と貨物設備がいつも邪魔者扱いされます。
姫路の場合は車両基地は余部駅付近に、貨物設備は御着駅付近に移転し、結果として姫路駅本体部分は、機能的ではありますが個人的には味気ないものになりました。
また、姫路駅の配線はいろいろと細かいところで興味深い点があります。これについてはまた別の機会に。
配線図はT.Mさん及びKASAさん(※※印)よりご提供いただきました。
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飾磨港支線を乗りに行ったとき新幹線高架から駅構内全域が眺められたように記憶しています
すでにDE50も留置されていたような…
姫新線もそのとき乗りました
ほとんど馴染のない駅ですので思い出も何もないのですが
その訪れたとき配置図には関係のない
姫路市モノレールの廃墟跡を巡った記憶があります
当時はまだ高架路線もほとんど残っていてビックリしました
投稿: ヒデヨシ | 2011年6月21日 (火) 01時51分
姫路駅以西が単線で描かれている明治期の図を見れば、姫路駅西南西の機関区には15線を擁する立派な扇形庫が描かれ、片や東北東に伸びる播但線に分岐していくような側線等が全く絡まず、(至って想像で恐縮ですが)まず姫操が駅とともに設けられず、後に設けられたのであろうと思えます。
よく調べてはいないのですが、従って操車場奥の姫路第一機関区の方が歴史的には新しいのでは?と判断しております。後の姫操の設置に伴い、駅側の本来の機関区が第二機関区になり、旅客担当を課されたのではないかと、図上から思えます。
客貨車区については,播但線ホーム北側と第一機関区東側に検車線があり、目を引くような建屋なく、分散した位置関係にあり続けたであろうとおもえます。
とあれ、第二機関区や電留線があった所に在来線の高架が建ち、新幹線に沿う形になりました。それは恰も浜松駅と同様の姿で、しかも至ってシンプルな形になりました。新幹線が設計上の基準線です。無論高架過工事途中では、地平の播但線へ繋がる市川以西の臨時の構造は、工程的に興味が持たされました。
投稿: SY | 2011年6月23日 (木) 00時56分
いくつか思い出のある駅です。
山陽本線車窓からよく見えたモノレール。今でもかなり廃線跡が残り、最近は手柄山駅に保存されていた車両が公開されました。
昭和40年代の岡山までの山陽本線沿線では、加古川と共に蒸機を見られる駅でした。姫新線・播但線・赤穂線のC11・C57・C58。
1969(昭和44)年には姉と二人、子供だけで姫新線沿線の伯父の家へ出かけました。大阪から急行「みまさか3号・但馬4号」の併結列車に乗りました。この駅で分割され前部の「みまさか」が先に発車し、後部の「但馬」は(後に知ったことですが)、4両増結してからバックして豊岡へ向かうのでした。
大阪から姿を消した80系電車も、ふんだんに見られました。ぜひカメラに収めたかった113系との新旧快速電車の2ショット、カメラを手にし始めた頃にこの駅で撮りました。
新幹線車窓から何気なく撮った姫路機関区に憩うDD54・EF60や様々な貨車も、今となっては貴重な記録となりました。
悔やまれることは、1974(昭和49)年4月に播但線経由で、豊岡駅に残るC57 128号機の廃車体の撮影に出かけた時のこと。この駅で、わずか3両しかないDD54一次型の1号機と2号機に出逢い、喜んでカメラに収め、1号機牽引の列車で和田山まで乗車したのですが、フィルムがカメラに巻き取られておらず、全て撮影失敗。間もなくDD54は急速に姿を消し、一次型に出逢うことは二度とありませんでした。
投稿: スミノエ | 2011年6月23日 (木) 21時03分
姫路配線図ありがとうございます。
山陽本線を少しずつ西進して来て期待感が高まり地元の駅が登場して、これまで他項の駅等、それら地元の方々のお気持ちはこんな感じだったのかと気づかされました。
今回の配線図は、特に姫路第二機関区辺りには感慨深いものがあります。
SYさんからも解説をいただいており、手持ち資料を少し整理して地元の私なりのコメントを改めてせていただきいたいと思います。
f54560zgさん、T.Mさん及びKASAさん、嬉しさのあまり感謝の言葉か見つかりませんが、本当にありがとうございます。
投稿: E10 | 2011年6月25日 (土) 11時04分
ヒデヨシさん、私もホントに記憶がありませんで・・・(汗)。
SYさん、そうですよね、創業期は旅客に貨物に車両基地もall in oneですが、成長するに従って貨物は分離され車両基地は分離されというのが一般的ですから、旅客駅付近の機関区のほうが歴史がありそうですね。客貨車区の一部は播丹ホーム北側ですか。ちょっと意外でした。
スミノエさん、貴重なお写真、いつか拝見したいですね。私も一度カメラの中でフィルムがちぎれて記録がパーになったことがあります。
E10さん、真打登場ですね。期待しています。
投稿: f54560zg | 2011年6月25日 (土) 22時51分
姫路駅の地上時代、といっても高架化の途上
だった頃の様子しか知らないのでかつての
様子がわかって一層面白いですね。
御着はごく普通の2面3線ですが新幹線の
保守基地への側線が下り本線から分岐しています。
投稿: 伊26 | 2017年8月 4日 (金) 00時00分
またしても揚げ足とりです。
姫路第二機関区は第一機関区の機能飽和のために設けられ、山陽本線の旅客列車のみ受け持っていました。
山陽本線の電化完成に伴い1960年から基地機能はなくなり乗務員区となりました。
1986年図で第二区の名前が消えたのは、廃止されたからです。その後継は網干電車区です。
廃止の理由は西明石のブルトレ脱線事故で露顕した乗務員の規律が不良ということです。そういう職場はツブしでしまえというのが当時の世論であり、本社の方針でした。乗務員は実質的に網干電車区へ移動の形となりました。
JR移行の直前の雰囲気を記憶の方には説明不用ですね。どうも駄弁を弄しました。
投稿: C6217 | 2017年8月 4日 (金) 19時00分
伊26さん、C6217さん、高架化された他の駅と同様、姫路駅も昔の面影がなくなってしまいましたね。
姫路第二機関区は実質的に網干電車区に移行したわけですか。情報ありがとうございます。
投稿: f54560zg | 2017年8月 6日 (日) 20時35分
こちらの歴史博物館で鉄道展が6月17日(日)まで開かれています。(詳細はネット検索等で)
神戸の項で SYさんが掲示されている明治期の配線図に類似した配線図の原版を複写したような配線図が展示してあり、配線図ファンの方なら一見の価値が有りそうです。
また、懸案の姫路第二機関区に関して、館内のライブラリーで《高橋秀吉コレクション》と言う書籍が閲覧でき、10枚ほどの関連写真が見られ、謎めく姫路第二機関区の解明に、自身の中では「世紀の大発見」とも言える写真も有りましたので、そちらも御覧いただければと思います。
尚、写真は名刺サイズほどで見にくいのですが、鉄道展に同書内の姫路第二機関区の拡大写真も有りますので、参考にしていただければと存じます。
これまで約40年近く姫路第二機関区に関して調べて来ましたが、あまりにも情報に接する機会が少なく、もはやギブアップ状態でしたが、「灯台もと暗し」とはこのことで、自身情けない限りです。
今回、《高橋秀吉コレクション》の写真で知り得た情報を含め、姫路の機関区関係のコメントを改めたいと思います。
投稿: E10 | 2018年6月 8日 (金) 00時27分
姫路第二機関区の資料が少ないのは残念ですね。戦時中のドタバタ期に建設され、戦後の落ち着いた時期を過ごす機会にも恵まれずに設備が撤去されたからでしょう。
図面では位置がずれていますが、実際は転車台や給炭設備などがホームの目の前にありました。おそらく一番ホームに近い機関区ではなかったかと思います。
乗務員区になったあと、全員が網干に引っ越し、その後に姫路派出所として半分が姫路に戻り、さらに全員が姫路に戻って姫路列車区となりました。列車区は運転士・車掌の総合乗務員区です。
投稿: C6217 | 2018年6月 8日 (金) 08時47分
E10さん、C6217さん
第一、第二機関区としては高崎、吹田、稲沢などがありますが、これらに比べると確かに姫路の第二機関区は情報が少ないですね。
ぜひ新情報をご紹介下さい。
投稿: f54560zg | 2018年6月10日 (日) 22時21分
姫路機関区のコメントについて補足します。
最初の姫路機関区は図の姫路第二区の位置に設置されました。
貨物操車場の開設(年度?)に伴い姫路第一区の位置に移転しました。旧区は廃止されました。(ただし設備は取り壊さずに残っていた可能性あり)
戦時中に増強のために第二区が新設されました。姫路区は姫路第一区と改称されました。
このとき全くの新設か、旧設備の一部を再用したのか不明です。
両区の担当は客車と貨車の分離です。ただし支線区のC11・C58は第一区だったと記憶しています。
電化により第二区は乗務員のみとなりました。
ブルトレ事故により姫路第二区は廃止され、乗務員は網干電車区に移りました。
網干では乗務員運用が不便なので、元の第二区の位置に網干電車区姫路派出所を設置して乗務員を戻しました。それも何段階に区切って。おそらく復活には抵抗が大きかったのでしょう。
その後、姫路車掌区と合同して姫路列車区が発足しました。
読みにくい補足で申し訳ありません。
投稿: C6217 | 2020年8月 8日 (土) 20時15分
C6217さん
詳細なご説明ありがとうございます。姫路は交通の要衝で蒸機時代は活気がありましたが電化の際は大阪と岡山に車両基地を取られてしまいましたね。
投稿: f54560zg | 2020年8月 9日 (日) 15時54分
補足の蛇足 1944年ごろの山陽本線の輸送力増強は、瀬戸内海の海運の鉄道転嫁のためで、1年間で貨物列車の本数が倍増したと伝わっています。そのほとんどは石炭列車だったそうです。資料を出せなくて申し訳ありません。
このために姫路と広島に第二機関区が新設されました。
海運の減少は、まだ戦災を受ける前なので船が他目的へ転用されたものと推定されます。
柳井や小郡は旅客担当を他へ移すことで貨物列車の増強を引き受けています。
投稿: C6217 | 2020年8月10日 (月) 14時50分
C6217さん
情報ありがとうございます。
山陽筋の戦時中の状況がよくわかりました。
投稿: f54560zg | 2020年8月11日 (火) 21時41分
こんなところに書くのは場違いかもしれませんが、また山陽本線の竜野駅や、姫新線も載せて頂けませんか?ご検討いただきますようお願いいたします。
投稿: AAA | 2020年9月 7日 (月) 15時19分
AAAさん
限られた区間、限られた時期(かなり古い)のものしかありませんが、いずれご紹介したいと思います。
投稿: f54560zg | 2020年9月10日 (木) 19時26分
ある本で伯備線の三重連関連の記事を読んでいて、足立駅発の石灰石列車に行先が飾磨港となっていたのですが、この列車は操車場へ入ってから飾磨港方面へ折り返したのか、姫路駅の7~11番線あたりに入線して折り返したのかご存じでしょうか?
投稿: 床屋のシンサン | 2023年6月17日 (土) 18時37分
どなたかご存知の方いらっしゃいましたら情報お寄せ下さいませ。
投稿: f54560zg | 2023年6月22日 (木) 19時07分