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2011年5月29日 (日)

浜大津支線配線図

膳所~浜大津間の貨物支線は、1889年(明治22年)に関ケ原付近~馬場間の開通による東海道本線の全通以前は、長浜までを航路を介して結ぶメインルートの一部を形成していました。
全通による支線化・貨物線化を経て最後には廃止されてしまったわけですが、そういった歴史以外にも大きな特徴を持つ路線でした。

196000
・これは1960年(昭和35年)頃の図で、以前の膳所・大津駅の記事からの再掲です。
・図の右下方向に延びる線路が浜大津支線です。

次に1955年(昭和30年)1月の浜大津支線です。

195501r
・なんといっても特徴的なのは、京阪電気鉄道線との線路の共用ですね。
・京阪電鉄線は複線、浜大津支線は単線。
・京阪電鉄線は電化、浜大津支線は非電化。
・京阪電鉄線は軌間1435mm、浜大津支線は軌間1067mm。
・これほどまでに性格の異なる路線の線路を共用したのにはただただビックリですが、きっと当時としては何らかの事情があったのだと思います。
・閉塞や連動といった保安設備がどうなっていたのか、非常に興味深いですね。
・それに加えてもう一つ特徴的なのは、江若鉄道の乗り入れです。
・膳所駅の片隅にちょこんと設けられたホームから江若線の列車が発着していたと思われます。
・すなわちこの区間には、国鉄と京阪と江若の3社の列車が走っていたわけですね。

43-10の貨物時刻表を見てみましたが、どうも浜大津支線の貨物列車は掲載されていないようです。1年後の廃止を前にして、残念ながらすでに貨物列車の設定がなくなっていたのかもしれません。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

何気なく眺めていましたが、江若鉄道から京阪線を経て国鉄へ貨車が直通する事も可能だったんですね、理屈上は。
国鉄⇔江若鉄道の直通旅客列車が存在していたら面白かっただろうな、と想像してしまいました。

浜大津の写真を雑誌等で時折みかけても、頭の中で全体像を描けないでおりました。しかし、今回、配線図を拝見でき、それがすっきり整理された感があります。毎回のことですが、f54560zgさん、そしてT.Mさんには感謝いたします。

ところで、雑誌「関西の鉄道 No.53」に高山禮蔵さんが寄稿されている「京阪電車 駅・路線の変遷」という記事中、22ページに、国鉄列車の運転される時間帯は、石坂線の電車運転は停止され、膳所ー浜大津が1閉塞区間となり、腕木信号機が進行を現示し、通票が機関士に手渡される旨の記述があります。

浜大津で京阪から分岐する付近のレールはまだ残っていたと思います。
昔は江若鉄道鉄道が廃止になったあとも浜大津駅跡にしばらく線路と腕木式信号機が残っていましたが、草が生えていて線路図を書くことはできませんでした。
膳所の北側には国鉄からの線路跡がよく分かる斜面があったのですが、もうなくなっているのでしょうね。
どちらも子供の頃に興味を持ってみていましたが、子供には遠距離なので満足に観察していなかったのが悔やまれます。

「鉄道ファン」1968年(昭和43年)9月号に、『京阪電鉄石坂線を走る86』という記事があります。
『膳所駅から江若鉄道の浜大津駅まで梅小路区の8620が、毎日3往復の貨物を牽いている。この区間は京阪電鉄が国鉄用地を借用しているもので、膳所行き線のみ3線併用で下り浜大津行きは右側通行となるため、膳所発車直前から閉塞区間となり石山寺駅行き電車のダイヤは組んでいない。貨物は、江若鉄道接続(浜大津からは江若鉄道のDD13)のものが1日1往復、ほかに不定期あり。また浜大津止めの列車がある。江若鉄道接続の列車は9月末で廃止予定だが、浜大津止めの列車は継続されるとのこと』と記されています。
また同じく同年12月号には、その8620は10月1日から吹田第一区のDD13に置き換えられたと記されています。1969年(昭和44年)11月1日に浜大津支線が廃止されたので、そのDD13も僅か1年あまりだけの活躍だったのですね。
旅客列車についてはWikipediaに『戦前には湖西北部のスキー場への輸送のため、大阪を週末の深夜に出発し、早朝に近江今津に着く臨時列車が運行されたこともある。復路は午後に近江今津を発って夜に大阪に帰着するダイヤであった。』とありました。

すみもとさん、wikipediaを見ると貨車の直通のほか、臨時の直通旅客列車も運転されていたみたいですね。
E10さん、国鉄列車運転時は京阪は停止ですか。貨車と電車のすれ違い、場合によっては並走も期待していたのですが・・・。
yukawaさん、やはりwikipediaを見ると、3線軌を撤去したのは1976年と、廃止から7年も経ってからなんですね。探せば遺構がいろいろ見つかるかもしれませんね。

スミノエさん、すみません、コメントが一部カブってしまいました。
43-10以降も貨物列車は運転されていたんですね。
ありがとうございます。

またまたすみません。すみませんのオンパレードです(汗)。
0:00のコメントの「E10さん」は、「KASAさん」の誤りでした。お二方に「すみません」です。

京阪の浜大津駅は今から30年前の昭和56(1981)年の4月12日に駅舎は西側から東側へ移転をしましたが京阪の80型が近鉄の丹波橋駅を甲種輸送で通ったこともありましたが京阪本線の天満橋からは特急びわこ号が運転をされていたことがありました。

巽孝一郎さん、情報ありがとうございます。

京津線の浜大津から三条を経て京阪本線の天満橋までの特急びわこ号が廃止になったのは昭和何年頃でしょうかとのことですが、

巽孝一郎さん、wikipediaによれば、昭和15年9月頃廃止のようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA60%E5%9E%8B%E9%9B%BB%E8%BB%8A

昔の浜大津駅西口の跡地ですが今は何になっているのでしょうかとのことです、

巽孝一郎さん、スミマセン、わかりません(汗)。

浜大津駅西口が廃止になった跡地は明日都浜大津ショッピングセンターがあります、

巽孝一郎さん、情報ありがとうございます。

東海道線草津~京都間の複々線工事が、この浜大津支線の廃止を決定的にしたのは確かですよね・・・。

捨て魔捨てるさん、複々線になりますと神戸方への進出はむずかしくなりますものね(それとも線増用地への転用とい意味?(汗))。

嘗て鉄道資料で江若鉄道と云う書籍が販売さましたその中に当時の皇太子(現天皇陛下)が公務で江若鉄道を利用されたとの記事が有りました 車両は国鉄の展望車が使用されたとの事です 国鉄の展望車が乗り入れた私鉄は江若だけではないでしょうか
浜大津に駅が造られたのは琵琶湖の北の長浜と浜大津間を琵琶湖汽船を利用して東西の連絡を図った
其の間系で浜大津の構内から貨車ターンテーブルで直角方向に琵琶湖湖岸に線路を引き汽船より貨物の受け渡しを行っておりました 其の後湖東線が開通してからは東西直通の乗客や貨物の受渡しは終了唯湖西地方の船運の業務は有ったのでしょう
浜大津駅廃止迄此の船運用の線路は最後迄残っていたのではと思います

yyoshikawaさん、浜大津駅自体のみならず、浜大津に至る線路も独特ですね。

ネット画像を検索していた処 連絡に使われていた第一太湖丸の画像が有りました 車搬船では無く普通の貨客船でした 
鉄道ネットワークが整う以前江戸時代より物流の主たる運搬手段は船でした 陸上の各街道は少なくとも西洋の様に馬車が走れる様な状態で無いのは御承知の通りでしょう江戸幕府の政策で江戸の町に反幕勢力が簡単に攻め込まぬ様防御の為わざと通りずらい道にしていた 其の為余程の山奥で無い限り物流は水運で運ぶのが主流となった 主要な港を巡る菱垣廻船樽廻船等の廻船が結び(鉄道貨物で云えばヤード間直通列車)港からは高瀬船三十石船等に詰め替え河川を遡り各地の河岸へ運び其れからは大八車や馬の背に乗せて運搬若しくは天秤棒や背負子で人力運搬で各地へ運ばれました(鉄道貨物で云えばヤードで仕分け後各駅へ送る普通貨物列車ですかね)当然生鮮魚介類はとても山奥へは運べない其の為塩付けや干物乾燥させて運びました其れが又和食のバラエティーの深さの一つだと思うのです
現在も各地に地名で残っておる○○河岸は其の様な水運物流の名残りです
日本の道事情が車利用に向かない状態で有ったが為短期間に日本全土に鉄道ネットワークが構築出来たのだと思うのです すみません配線図の話しから脱線してしまいました

yyoshikawaさん、日本の鉄道の発展の陰には江戸幕府の政策があったわけですね。ロマンですね。

以前から江若鉄道の起点が国鉄線から外れた処に置かれていたのに疑問を持つていました 軽便鉄道以外の地方私鉄の殆どは国鉄との間で貨車の授受を目的に何等かの手段で国鉄線に繋がっているのが当たり前でした
中には全然国鉄に接続して無い地方鉄道も存在してました 例えばガソリン動車で運行していたのに電鉄を名乗っていた水戸電気鉄道は完全に孤立した路線でした
小学校や中学校の教材の地図では江若鉄道は浜大津起点は国鉄線から独立した線として描かれ
浜大津から膳所迄の貨物線は描かれて無かったからでした 実物誌等見ると膳所から浜大津迄貨物線が存在しておる事から貨物の授受が出来ると理解できたのです
鉄道創世期の1872年新橋横浜間と1874年大阪神戸間が其々開業したが其れから暫くの間京浜側は其れ以上延伸は無かった原因は東京京都間の鐵道を東海道経由ではなく中山道経由で建設すべきという軍部の要請が過分に有り中々延伸出来なかった其れに比べ阪神間は順次延伸しである1877年に京都迄伸び其の先日本で初の本格的隧道である逢坂山隧道で東山山塊を抜け膳所迄達しスイッチバックで浜大津迄開業しました
そんな関係で当時短距離の京浜間はタンク機関車だけでしたが長距離の京阪神間にはタンク機関車の他にテンダー機関車も投入されてました

直接配線図には関係有りませんが現在の浜大津には京阪電鉄京津線と石山坂本線が来てますが現在は両線は同じ京阪電鉄の路線ですが以前は石山坂本線は琵琶湖汽船?(すいません会社名失念)と云う別会社でした 其の関係で両線の浜大津駅は別々に設けられてました京津線は頭端駅石山坂本線は通過駅両線は平面交差で其々の駅に出入りしてました
京津線浜大津からスイッチバックする複線の連絡線で両線を結んで車輛の遣り取りが出来ました
京津線は後年京都市営地下鉄と直通運転する様になったおりに京津線頭端駅を廃止してに石山坂本線の浜大津駅に統合石山方に折り返し中線を設け京津線折り返しに使用しております
嘗て京津線は急カーブと急勾配で東山山塊を抜ける為比較的小型の路面電車風車輛其れに比べ琵琶湖汽船の方は普通の大きさの車輛でした唯カウキャチャーが正面に取り付けられてました
戦前京阪本線天満橋から京津線浜大津迄直通運転する為日本で初めての連接式60形電車を投入したのも京津線の路面電車規格に合わせた為でした

yyoshikawaさん、江若鉄道線の列車が膳所まで乗り入れていた時期はあったようですが、その期間が短かったのは不思議ですね。

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