神戸配線図その2
以前1950年(昭和25年)以降の神戸駅についての記事を書きましたが、その後詳しい資料を複数の方からご提供いただきましたので、感謝申し上げると同時に改めて記事にしたいと思います。
まずは1876年(明治9年)。※
・1872年(明治5年)の新橋~横浜間の開業に遅れること2年、1874年(明治7年)に関西地区として初めての鉄道が大阪~神戸間で営業を始めましたので、この図はその開業から2年後の姿ですね。
・全体としては直角二等辺三角形のような形をしており、ちょっと変わっています。
・「停車場」「客車区」のほか、「客車修繕庫」「鋳物工場」「木工場」といった文字も見えますので、工場機能も持っていたようです。
・右上部が貨物取扱設備のようで、桟橋に突き出た線路も見えます。
続いて1913年(大正2年)。※※※
・最初の図の1876年(明治9年)からこの図の1913年(大正2年)までの間の出来事を整理すると以下のようになります。
・1889年(明治22年) 山陽鉄道が神戸まで線路を延伸
・1895年(明治28年) 山陽鉄道の一部の列車が官設鉄道に乗り入れ開始
・1906年(明治39年) 山陽鉄道が国有化
・以上のような経過を経て、終端駅として誕生した神戸駅は中間駅に姿を変えました。
・線路は図の右下方向に延伸されていますので、これに合わせて旅客ホームは位置を移動しているようです。
・旧旅客ホーム付近は貨物設備になったようですが、工場設備や桟橋の線路には大きな変化はないようです。
続いて1921年(大正10年)。※
・1916年(大正5年)に工場設備は鷹取に移管されて廃止となり、その跡地は車両基地に転用されたようです。
・それにしても創業期と比べるとずいぶんと規模が拡大しましたね。
・そしてこの後、1928年(昭和3年)に湊川駅開業と同時に神戸駅の貨物取り扱いは廃止され、1931年(昭和6年)には高架駅として生まれ変わることになります。
次回は神戸駅と湊川駅の関係について見てみましょう。
配線図はSYさん(※印)及びナイショさん(※※※印)よりご提供いただきました。
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3番目の配線図は相当込み入ってますね
最初とは大違い
終端駅というか神戸から内航船連絡や
日露戦争後では熱河航路の始発港として桟橋は重要だったのでしょうね
高架になっても豪華な駅舎は作られましたが
だんだん中間駅化していってしまい
東海道と山陽両本線の連絡駅としての重要性はなくなってしまったんですね
投稿: ヒデヨシ | 2011年5月18日 (水) 19時29分
かつての神戸は鉄道と船とを結ぶ重要な接点だったのでしょうが、今では貨物線もなくなって、個人的には寂しくなりました。
投稿: f54560zg | 2011年5月20日 (金) 23時58分
自身の記憶の歴史から、現在家電量販店になったビルになってしまった箇所にあった大阪鉄道管理局がぼんやり思い起こされますが、その大鉄局も1928年に神戸から移されたものです。その意味で神戸の方が鉄道としては大正期まで重要でした。図はそれを物語っていると思えます。
蒸機や貨車に石炭を積んだ船や艀からそれを直接積み込んだり、桟橋から部材を工場へ送り、順次組み立てられたイメージが浮かびます(勝手な想像ですが)。
次いで、地平神戸駅の運転施設は、最寄りの鷹取工場の敷地に移す案も考えられたようですが、工場施設内の相互職場関係から、新たに用地を得るとなれば、広大な敷地を必要となり、結果運転設備用の敷地を明石駅の西方の台地に求めることになったと読んだことがあります。
まあ、これが謎めいた明石機関区・客操の始まりで、この時期には数少ない、遠距離の回送になった次第です。
以上付言です。
投稿: SY | 2011年5月21日 (土) 22時20分
5000型と言うSLが有りました。
文明開化での鉄道開通時に 150型や160型が新橋-横浜間を陸蒸気として走ったのはSLファンの基礎知識なのですが、次に出てくるのは神戸-京都間のSL5000型です。
走行距離が長く、タンク機関車では不向きで国内初のテンダー機関車が充当されました。
その 5000型の写真は煉瓦製3線式短形庫前に佇む姿でSLファンなら誰もが瞼に焼き付いているのですが、それはこの明治初期の配線図での転車台横の3線式短形庫の前で写された写真だったのか、明治のロマンを感じてしまいます。
明治から大正の頃の配線図らしく、ほぼ原寸大を模した配線図で、湊川神社や多聞通の地名に現在を照らし合わせてみますと往時が偲ばれます。
ヒデヨシさんのコメントのような桟橋を介する列車が運行されていたのでしょうか興味を注られます。
なぜならそれは、母方の家族が戦前に満鉄や撫順炭鉱関係に従事しており(今でも母は撫順会と言う会合に出席しています)、幼い頃から満州の話しを聞かされていた私は、小学生の遠足で神戸港を訪れた時に幼心にも神戸の港から客船で大陸に旅立ち内陸奥地を冒険してみたい欲望に駆られました。
後年、作家の檜山良昭さんの「消えた亜細亜号」と言う小説に巡り会い、それは私の幼心を具体化されたような心境になり、それ以来この神戸港桟橋はそのイメージで塗り固められています。
年頭の神戸配線図の記事と共に、鉄道史上の主要駅の変遷を網羅し、趣味界の発展にますます寄与し続けるf54560zgさんのblog。
T.Mさん及び、SYさん、KASAさん、ナイショさんなどのご協力に、以前のSYさんのお言葉のように、今回も鉄道趣味界の超一級資料としての位置付けを確たるものにした記事だったのではないでしょうか。
投稿: E10 | 2011年5月22日 (日) 00時05分
SYさん、ありがとうございます。
そうですか、明石は神戸からの移転ですか。納得です。
E10さん、それはちょっと大袈裟すぎです(笑)。
ただ、多くの方に支えられていることは間違いありませんので、本当に感謝しなければいけないと思います。
投稿: f54560zg | 2011年5月23日 (月) 23時18分
タイトルや年号が篆書で書かれているところが何とも言えないですね。
投稿: | 2012年5月26日 (土) 22時13分
名無しさん、篆書(てんしょ)体、初めて知りました(汗)。
投稿: f54560zg | 2012年5月28日 (月) 00時04分
神戸と対を成す横浜の開業時代の詳細な配線図が有れば神戸と横浜の対比と埠頭関係の状況が判明出来るのですが 関東大震災のおり鐵道省が類焼てしまい資料が焼失してしまったのでしょう
投稿: yyoshikawa | 2015年6月16日 (火) 18時02分