« 塚本配線図 | トップページ | 甲子園口・西ノ宮配線図 »

2011年4月 8日 (金)

尼崎配線図

かつての尼崎駅は、乗降客が多そうな割には快速電車も福知山線の優等列車も止まらない駅でしたが(大阪駅の隣の隣ですから、まあ、そんなもんかな、という気もしますが)、今では東西線も開通し、新快速や特急「こうのとり」までもが停車する駅に出世しました。

(1977年(昭和52年)頃の尼崎駅の様子はこちら。)

まずは1950年(昭和25年)4月。

195004
・上り線側には福知山線用のホームが設けられているのですが下り線側には設けられていないという、非対称的な配置が特徴です。
・3・4番線間に電車の折り返し用と思われる引上げ線が設けられています。この時点では甲子園口駅には折り返し設備が設けられておらず、尼崎で折り返していたんですね。

続いて1960年(昭和35年)頃。

196000r
・電車の折り返し用引上げ線が1線になっています。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603r
・電車の引上げ線がとうとうなくなってしまいました。
・この時点では甲子園口駅に折り返し設備が設けられています。

最後に1986年(昭和61年)4月。

198604
・尼崎港支線は1981年(昭和56年)に旅客営業が、1984年(昭和59年)には貨物営業も廃止されました。
・配線図はいかにもその部分を消しただけ、って感じですね。
・もう一つ、尼崎~尼崎市場間の貨物線について。
・こちらは1967年(昭和42年)開業・1980年廃止という、短命な路線でした。
・「路線」といっても列車ではなく、おそらく構内運転ではなかったかと思いますが。
・配線図上はその痕跡が残っています。
・7番線以降の番線数字が1つづつ繰り下がっています。7番線が新たに設けられて繰り下がったものの、結局7番線が廃止されてしまったのでしょうか。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。

« 塚本配線図 | トップページ | 甲子園口・西ノ宮配線図 »

コメント

やはり貨物取扱駅&分岐駅は面白いですね
尼崎港支線は1回乗ったことがありますがたしかDD13牽引客車列車だったような気がしますがどうでしょうか?
築堤に尼崎港支線用の尼崎駅ホームがありました
それから尼崎市場駅は福知山線の上下線に挟まれた中にあったんですね
この存在は知りませんでした
空中写真で見ても駅のすぐ近くの専用線という感じです

それから尼崎港からの貨物は尼崎駅に直接入れない線路配置ですね
塚口(またはより北の駅)まで持って行って福知山線の貨物に連結されて東海道線へと運ばれたのでしょうか

そういえば、尼崎港線上にあった「尼ヶ崎駅」のホームは記入されていないのですね。
些細なツッコミですみません。
私にとって尼崎港線は、飾磨港線とともに乗り損ねたローカル線です。

父の里の岡山などから大阪へ戻る時、福知山線・尼崎港線とアンダークロスする所に来ると「ああ帰ってきた」といつも思っていました。
福知山線のDF50・DD54を追いかけていた時には、大阪~尼崎間を客車の最前部で録音したり、尼崎港線のホーム上から撮影したりしました。

尼崎港線はDD13が貨物だけでなく客車も牽引していましたね。大阪近郊では他に和田岬線や紀勢本線和歌山市~和歌山間でも見られましたが、地味すぎて撮影していないのが今となっては悔やまれます。本で読んだのですが、昭和24年まで尼崎駅は「神崎駅」(そして「尼崎港駅」が「尼崎駅」)で、本線の神崎駅と区別するため職員の方々は、土手の上にある尼崎港線の神崎駅を「ドテカン」と呼んでいたそうです。また乗務員の方はこの線を運転する列車の事もそう呼んでいて、それは廃止になるまで続いたそうです。

1980年代前半には毎週2日尼崎に行くことがあり、往復ともいつもわざわざ福知山線のDD51牽引客車列車を利用していました。末期には通勤用に改造された12系も入り、宝塚電化後はイエローの103系と共存していました。福知山線で大阪へ行く乗客はほとんどおらず、いつも福知山線ホームで私は一人ぼっちでした。他と違って古めかしく、いかにも汽車のホームという雰囲気が好きでした。

尼崎港線は昭和55年2月に片道だけしか乗車しておらず、また1日2往復のうちの夕方の便であたりは薄暗く、写真も撮っておりません。したがってほとんど記憶はないのですが、乗った客車はスハフ422303(多分大ヒメ)、牽引機はDD13だったと思います。

確かに尼崎港線のホームが描かれていないのはヘンですね。「ドテカン」とはまたすごいネーミングです・・・。

上りにだけ福知山線ホームが存在したわけですが、スミノエさんおっしゃる通り、ほとんど降車専用ホームだったのではないでしょうか。

53-10改正では尼崎港支線の列車は川西池田~尼崎港間の設定で、川西池田行きが奇数(下り)、尼崎港行きが偶数(上り)だったのですが、上記昭和55年2月時点では塚口~尼崎港間に短縮され、塚口行きが偶数、尼崎港行きが奇数と上下が逆転していました。

43-10貨物時刻表を見てみますと、主に吹田操~尼崎港間に下り3本上り4本の貨物列車が設定されています。記載されている駅名は吹田操・尼崎・塚口・尼崎港の順で、ほとんどの列車は塚口はレ(通過)となっています。塚口で運転停車でスイッチバックしていたのではないかと思うのですが、ひょっとしたら川西池田あたりまで行っていたかもしれません。いずれにせよ福知山線の貨物とは別の、独立した系統だったようですね。

「トワイライトゾーンMANUA15」に昭和55年10月1日改正の尼崎港線列車ダイヤがありました。
それによると貨物列車はf54560zgさんのおっしゃるように塚口運転停車でスイッチバックになっています。それから客扱いをする2往復の内、朝の塚口発尼崎港行きは混合列車です。
客車が川西池田まで行っていた時には、朝の尼崎港発川西池田行き列車は塚口で30分以上停車し、後続の大阪発福知山行きの普通列車に追い抜かれていました。その福知山行きには何度か乗りました。塚口で隣のホームに2両編成のガラガラの列車が停まっていたのを覚えています。

尼ヶ崎駅の神戸寄り南側(図では上)にある破線の専用線はアルナ工機(現アルナ車両)への専用線ですね。住友機工の敷地を通り、帝国酸素の敷地で南に90度カーブして工場に入っていました。
アルナの敷地内は3線軌条になっていて、曲線のガードレールが複雑になっていました。
また尼崎市場への引き込み線を使って下り線から上り線へ甲種車両を転線させ、吹田の阪急正雀工場などにオンレールで輸送していました。
懐かしいです。

スミノエさん、今53-10の時刻表を見ています。塚口駅の行には発時刻しか掲載されていないのですが、尼崎港発川西池田行き821列車の塚口発時刻8:17の脇にはわざわざ注記で「塚口着は7:39」と書かれています。38分の停車ですね。福知山行きの鈍行と、多分そのあとのまつかぜ1号通過後の発車かな、と思います(福知山行きの鈍行も川西池田でまつかぜに追い抜かれるようですが)。
尼崎港線の客車は昼間は川西池田で昼寝でしょうか。この客車の運用もナゾです。
yukawaさん、尼崎市場の線路は上下間の転線に利用されていたんですね。確かに便利そうですね。方向別の複々線区間だと外側線の上下の転線はちょっとやっかいですからね。

f54560zg さん、尼崎港線用の客車は川西池田の側線で休んでいたようです。ネットで川西池田や尼崎港線の検索をしてみるといくつか出てきます。また「関西の鉄道No.5」にもありました。

こんなページがありました。
http://c5557.kiteki.jp/html/kawanisi-ikeda1978-8.htm
昭和53年8月の川西池田での福知山行き普通735列車と特急まつかぜ1号、そして尼崎港からの821列車の様子です。

ご指摘で初めて気がつきました。821列車が塚口で38分も停車していたのは、「まつかぜ」の為だったのですね。仮に821列車が先に川西池田へ行ったとしても数分後には735列車が追いついて川西池田に並んでしまい、「まつかぜ」が通過出来なくなりますね。
ところで復刻時刻表を見比べて見ると、735列車が川西池田で「まつかぜ」を待避するのは大体共通しているのですが、ひとつ例外期間を見つけました。
以下735列車の時刻です。なお「まつかぜ」の大阪発8:00、宝塚発8:26は変わっていません。
1972年2月
塚口7:45・北伊丹7:57・川西池田8:25・中山寺8:41・宝塚8:46
1972年3月 
塚口7:45・北伊丹7:56・川西池田8:08・中山寺8:15・宝塚8:36
1972年12月 
塚口7:45・北伊丹7:56・川西池田8:24・中山寺8:31・宝塚8:38

1972年3月改正で735列車は宝塚で「まつかぜ」待避になったのに、半年後の1972年10月改正では川西池田待避に戻っています。
対向する444列車とは2月までは中山寺で、3月以降は宝塚で交換しています。即ち1972年3月から半年間の735列車は、宝塚で「まつかぜ」を待避した後、444列車とも交換しています。当時の宝塚駅のホームは対向式で2番線しかない。実際見ていないので本当のところはわかりませんが、おそらく下り735列車は2番ホームに停車。下り「まつかぜ」と上り444列車は1番ホームを使っていたと推測します。

スミノエさん、貴重な情報ありがとうございます。
下りの735列車が上り本線に入り、上りの444列車が下り本線へ、すなわち右側通行ってことですね。
腕木信号機時代の宝塚駅は、1番線、2番線のいずれにも福知山方への出発信号機が設けられていたようですので、そういった運転も可能だったんですね。
http://senrohaisenzu.cocolog-nifty.com/blog/2008/12/1980228-ae5d.html
かなり特殊な使い方とは思いますが。

10年近く前までは本線を越える尼崎港線の土盛りが残っていましたが、今ではその痕跡さえなくなりました。
時代の流れなんでしょうが、なんだか寂しいですね。

昔そこを線路が通っていたことなんて、知らない人の方が多いんでしょうね。
でも私は知っていることを自慢したいと思います(笑)。

尼崎港発の普通列車は川西池田行きと塚口行きの列車が運行をされていましたが本数は一日に何本運行をしていましたかとのことです、

巽孝一郎さん、コメントありがとうございます。
大昔のことはわかりませんが、1972年(昭和47年)時点では川西池田行きが2本運転されていただけです。
廃止直前の1980年(昭和55年)10月でもやはり2本だけです。この時点では行先は塚口に変わっていましたが。

尼崎港線の尼崎仮駅は高架で単式ホームでしたが尼崎港線の尼崎仮駅の乗場出入り口の近くにまぁ~るい看板が立っていましたがこれは山田倶楽部写真館の画像にて配信をされていたからなんです、

巽孝一郎さん、山田倶楽部写真館拝見しました。貴重な写真がいっぱいありますね。

尼崎港線の金楽寺駅の出入り口脇のところにもまぁ~るい看板が立っていたことがありましたかとのことですがこれはどうやら本当のことでしょうか、

巽孝一郎さん、いろいろ質問をいただいてうれしく思うのですが、すみません、ちょっとわかりません・・・(汗)。

福知山線の支線でもあります尼崎港線にも西神崎駅がありましたがその西神崎駅は尼崎駅に変わったのが昭和何年頃のことでしょうか、

「西神崎」駅というのはわかりませんが、現在の尼崎駅はかつては尼崎港線の乗降所も含めて「神崎」駅でした。ですので土手の上にあった尼崎港線のホームは「ドテカン」と称されていたそうです。それが「尼崎」駅に改称されたのは昭和24年1月1日ということです。

尼崎港線配線図の記事の中の1955年の配線図には巽孝一郎さんがおっしゃる通り「西神崎」と記載されているのですが、記事中に私も書きました通り正式な名称ではないようです。この時点では正式には尼崎であったと思われます。

尼崎駅から伊丹間ですが、現在は発車後上に登り、向かって右へ進みますが、1984年当時は発車後一旦向かって左に曲がり、その後右へ曲がって進んでいたんですね。
・・・・・・って何か訳のわからない説明で申し訳ございません(笑)

アニメ版両津勘吉さん、いえいえよくわかります。昔はあたかも助走をつけるように一度左に曲がっていましたね。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/506157/51336160

この記事へのトラックバック一覧です: 尼崎配線図:

« 塚本配線図 | トップページ | 甲子園口・西ノ宮配線図 »

過去の記事

2017年8月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31    
無料ブログはココログ