兵庫配線図
東灘の記事で「みまさか」の写真を掲げましたが、これに対するE10さんの「箱状の施設機器」のコメントは、率直に「フッ、気にしているところを突かれてしまったぜ・・・」でした。
そう思ってその写真を改めて見ていたら、その「箱状の施設機器」の上の方の信号機に進路予告機らしきものが。「あれ?元町って分岐器あったっけ?」
さらに写真をよく見ると、その進路予告機のバックにはポートタワーが・・・。
すみません、これは元町駅ではないですね、兵庫駅ですね。いままでずっと元町駅だと思い込んでいました。E10さんに感謝しなければいけません。ありがとうございます。
というわけで兵庫駅です。
今回からは山陽本線です。
まずは明治末期頃。※
・「山陽線」と書かれていますので、おそらく1909年(明治42年)以降、また地平駅ですので1931年(昭和6年)以前と思われます。
・ホームらしきものが5本もあります。また転車台をはじめとする車両基地設備らしものも見受けられます。
・各種施設が何を目的としていたのかが興味深いですね。
続いて1950年(昭和25年)4月。
・旅客ホーム部分が高架化されたため地平に残った和田岬線及び貨物関係施設は鷹取駅との接続になりました。
・発着1・2番線の出発信号機は、鷹取方に対するものは色灯式ですが和田岬・兵庫港方に対するものは腕木式と、同じ発線でありながら方向によって異なる種類の信号機が設けられています。
・さらにその腕木式の出発信号機37には「1・2-兵庫」と書いてありますが、発着1・2番線で出発信号機を共用してるってことでしょうか。ちょっと不思議。
・また和田岬・兵庫港方面からの場内信号機も、5~7と8の建植位置が逆になっているように思います・・・って、自分でも細かいって思いますね(汗)
続いて1958年(昭和33年)4月。
続いて1966年(昭和41年)3月。
最後に1986年(昭和61年)4月。
・和田岬線関係はさらに省略されてしまいました。
・この時点では兵庫港線及び神戸市場線は廃止されていました。
冒頭に記載の通りですので、「みまさか」の写真はこちらに移動させます。
1977年(昭和52年)3月、813Dみまさか1号中国勝山行きです。
配線図はT.Mさん及びSYさん(※印)よりご提供いただきました。
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コメント
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私が和田岬へ行ったときは昭和53年頃
DD13-オハフ64X2、オハ64X2-DD13
でしたなあ
兵庫の駅ホームでは乗客の皆さんが走行中にどんどん飛び降りて走って乗り換えていましたよ
構内の留置線には貨車は無かったので
支線の貨物駅は廃止されていたんでしょう
投稿: ヒデヨシ | 2011年4月28日 (木) 15時31分
和田岬線は民営化直後の客車時代に一度だけ乗った事があります。
ところで、2つめ、3つめの配線図で左上へ伸びる線路は何なのでしょうか。
和田岬方と兵庫港方は右上へ伸びていきますよね。
投稿: すみもと | 2011年4月28日 (木) 19時37分
明治の鉄道業界の風雲児、山陽鉄道の総本山とも言うべき姿に驚嘆し、配線趣味界の最先端を走り続ける f54560zgさんのブログに平成の世で接する事が出来て感謝感激です。
時期は特定出来なくとも、5本にも及ぶホームにはターミナルの雰囲気を感じられ、点在する8ヶ所もの車両施設に、機関区、客貨車区、鉄道工場の存在を感じ、名古屋の項に引き続き我が儘を承知で、SYさん、皆さんの解説をお願いしたいところです。
中央右手の転車台はTで、5番目のホーム右上の変遷台はH(Mにも見えますが)ではないかと想像出来るのですが、転車台右のYとNは、どんな意味を指しているのでしょう。(本線側にはPやFのマークもあります)
駅本屋のA、その右側の巨大な6線庫のC、更に機関庫ではないかと思われる転車台下の3線式短形庫のEの各マークの意味も気になります。
それに、6線庫付近の900を越える数値や、本屋左手側線の300〜400の数値を見るに付け、富国強兵政策による広大なヤードの必要性なのかとも感じ取られるのですが、ただ、それらの数値表記が、ほんとにメーター表記なのか疑問を感じてしまうのですが‥。
鉄道ファンとして兵庫駅の高架線から見下ろす海側の側線群と和田岬方面へ続く線路を見るのは楽しみの一つでしたが、我々の世代が見たその姿は、やはり最盛期を過ぎた姿だったのは残念でした。
山陽鉄道終端側の下関駅構内(移転前)には転車台を2基擁していたようですが、起点側となる兵庫駅辺りはどうだったのでしょう。
いずれにしても、兵庫駅が明石機関区や宮原機関区に本線の役割を譲る前の姿と、戦後の復興期から高度経済成長期の姿を見る事が出来、大変嬉しく思います。
投稿: E10 | 2011年4月29日 (金) 00時41分
走行中に飛び降りることができたのは昔の手動ドアの旧型客車ならでは、ですね。もし事故が起こっても、今のように輸送者側の安全意識の低さを問われることもなかったんでしょうね。
左上方向への側線はおそらく専用線ではないかと思います。
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=M324-A-6&photono=21
建屋もなくただ線路だけが敷かれているように見えますね。
一番最初の配線図は、表題部分を除くと日本の駅の図面とは思えないような雰囲気ですね。長さに関してはおっしゃるとおりメートル単位ではないかもしれません。
山陽鉄道時代の雰囲気がまだそのまま残っているように思います。
投稿: f54560zg | 2011年4月30日 (土) 20時43分
説明が遅れ申し訳なく思います。
まず、図は英語圏の影響を受けているのだと思っております。
よって、有効長はおそらくフィート表記で、数字に0.3を乗じて下さい。現在の表記でも使われている本屋「A」に面した480という数字は、大凡144メートルになり、7~8輌分に相当します。
ついで旗に付された記号については、Dが遠方信号機、Hが場内信号機、Sが出発信号機で、Pはポイントインディケイター(転轍器標識)です。
さらに設備面では、
E:機関車庫
C:客車庫
T:転車台
M:遷車台
N:石炭置き場
F:給水柱
Y:貯水器
以上です。
図上左側・神戸駅方からの出入が重視された構造と言えます。
なお、他の図と比べると、客車庫を除き、そうした建物が撤去された跡に仕訳線や側線が敷設されたことが判ります。兵庫駅地平部分の判りづらさも、これで何とか解けるのではないかと思います。
投稿: SY | 2011年5月 1日 (日) 01時20分
SYさん、解説ありがとうございます。
T:転車台はなんとなく想像ができましたが、それ以外については初めて見る記号ばかりですね。
貴重な歴史が地平部分に残されているわけで、今でも垣間見ることができるのでしょうか。
投稿: f54560zg | 2011年5月 7日 (土) 12時54分