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2011年4月 2日 (土)

野洲配線図

野洲駅には野洲電車区(当時)が隣接して設けられています。
電車区という名前はついていましたが電留線のみで検修設備はなく、従って配置車両はありませんでした。

このあたり、草津・野洲・安土と、折り返し駅が小刻みに設けられていましたね。

まずは1960年(昭和35年)頃。

196000
・普通の中間駅ですね。
・いまさらこんなことを言うのも変ですが、上り貨物列車の貨車の解結・積卸線への移動はどういう手順なのでしょうか。
 ・動車が積卸線から発送貨車を神戸方に引き出す
 ・バックして2番線へ
 ・発送貨車を解放
 ・動車は3番線を使って機回り
 ・2番線の発送貨車の東京方に動車を連結
 ・東京方に引き上げ
 ・バックして発送貨車を3・4番線間の側線に解放
 ・動車は2番線または3番線を経由して積卸線に戻る
 ・貨物列車が3番線に到着
 ・牽引機+αが東京方に引き上げ
 ・バックして3・4番線間の側線の貨車に連結
 ・東京方に引き上げ
 ・バックして3番線の貨物列車に発送貨車を連結
 ・到着貨車を持って再度東京方に引き上げ
 ・バックして3・4番線間の側線に到着貨車を解放
 ・東京方に引き上げ
 ・バックして3番線の貨物列車に連結
 ・発車
 ・積卸線から動車が神戸方へ
 ・バックして3番線を通って東京方へ
 ・バックして3・4番線間の到着貨車に連結
 ・下り線東京方に引き上げ
 ・バックして2番線へ
 ・到着貨車を解放
 ・動車が3番線を経由して機回り
 ・2番線の到着貨車の神戸方に動車を連結
 ・神戸方に引き上げ
 ・積卸線に押し込む
延々と失礼しましたが、まあ、ざっとこんな手順になるのでしょうか・・・ホント?
わかっているようで実はよく知らない貨車の動きです。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603
・大きくは変化ありません。

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201
・Wikipediaによれば、1966年(昭和41年)9月に電留線5線が完成、1969年(昭和44年)3月に野洲電車区となって18線に増強されようですが、この配線図ではまだ5線のままです。
・上り貨物列車など用に5番線が新たに設けられています。

続いて1986年(昭和61年)4月。

198604
・ようやく18線になりました。

最後に1992年(平成4年)1月。

199201
・なぜかまた5線に戻ってしまいました。
・2番線が廃止され、3番線以降の数字が繰り上がっています。
・東京方の配線が変更され。本線列車を支障することなく入出区ができるようになりました。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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バックナンバーはこちらからどうぞ。

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コメント

夜行列車に揺られ野洲駅を通過すると、入線している車両のその窓明かりから北陸特急が滞泊しているのが分かりました。
野洲電車区には電車の車両配置がなかったようですが、ごく普通の電車区に特急型車両が入線していると車両区としての格付けが上がったような気がして、ちょっぴり嬉しくなった気分でその後の夜行列車の旅を満喫出来ました。
国鉄時代の野洲駅での小さな想い出です。

いつも興味深く読ませていただいてます。m(_ _)m
野洲駅の到着・発送の貨車扱いですが、上り貨物列車については、米原操車場まで持っていき下り貨物列車に継走して扱ったかもしれません。同様に上り方向への発送貨車は下り貨物列車で梅小路貨物まで持っていて、上り列車へ継走していたかもしれません。ご提示の入換え方法はファンとしては見ごたえがあって興味を惹かれますが、手間がかかるかと思われます。

貨車入換について推測となりますが
まずこの程度の側線しかない駅に入換動車の配置は無かったと思われます
なので側線内の貨車の移動は手押しに頼り
数両まとめて順番を変えるときは貨物列車の機関車を使ったかもしれません
それにより列車に対しては上の方のおっしゃる通り
一方向に限定して貨車の連結解放をやっていた可能性が大きいと思います

野洲電車区といえばやっぱり万博でしょうか。電車区でありながら万博開催中は客車も出入りしていたようですね。
貨車の入換に関しては、確か茨木や高槻など複々線区間のため上下間での授受ができない駅で梅小路・吹操経由の継送が行われていたことは雑誌で読んだ記憶があるのですが、野洲駅のような複線区間の駅でも行われていたのでしょうか。このテの配線の駅っていたる所に存在しますので、それらがみんな一方向に限定していたとはちょっと考えづらい気がしています。
かといって、おっしゃる通りそれらすべての駅に動車が配置されているわけでもないでしょうし、本線をふさいで手押し入れ換えというのもこれまた考えづらいような・・・。

以前一度、ということは草津の配線についてでしたか...
わだらんのわかる範囲でいろいろコメントさせていただきますので、よろしくお願いします。

とりあえずまずわだらんの地元である野洲ですが、
貨車の入れ換えは梅小路の8620が出張作業していたそうです。入換動車があったかどうかは現時点で不明、要調査です。

わだらんさん、その節はお世話になりました(笑)。
情報ありがとうございます。守山や篠原や近江八幡など、このあたり一帯の入換を梅小路の8620が一手に引き受けていたんでしょうね。


 おはようございます、奥野君です。
 昨日になりますが、野洲駅をアップしました。貴配線図に農協の文字はありませんが、側線の横が農協なので多分そうかな? ちなみに専用線一覧によると昭和51年まで記載がありますが、「手押し」と記録されていますです。
 ではでは。

すみません、リンクを間違えました。

奥野君さん、こんばんは。
農協の専用線は下り貨物1・2番線の延長上でしょうか。確かに配線図には記載されていませんね。「935」(有効長?)というよくわからない数字が書かれていますが。

 野洲の上り貨物列車の解結作業について。
 貨物列車の作業は明確に指定されていました。発送貨車と到着貨車を置く場所は指定されていて、野洲の場合は有効長56mと記入された側線です。線名が無記入ですが一般的に預け線と呼んでいました。
 貨物列車の作業順序は本文とほぼ同じですが次のようになります。
  1.到着貨車とその前寄り貨車を持って上り本線へ引き上げ。
  2.預け線へ入り発送貨車へ連結。
  3.上り本線へ引き上げ。
  4.残した列車へ連結。
  5.発送貨車を解放して上り本線へ引き上げ。
  6.預け線へ入って到着貨車を解放。
  7.上り本線へ引き上げ。
  8.残した貨車へ連結。ブレーキ試験。

 ここで意識することは牽引機による作業は預け線への出し入れに限られることです。預け線から貨物ホームへの移動は発送到着とも駅の仕事となります。
 これは責任の所在を明確にするためで牽引機は駅の内部作業にタッチしません。ただし機関車の力を借りねばならない場合もあり、そのときはダイヤ作成のとき牽引機に駅入換を指定します。補助入換と呼んでいました。
 入換動車がいるのはかなりの貨車取り扱い量のある所で、駅員総出による手押し入換が普通でした。野洲も動車がいたとは思えません。
 駅も貨車の移動が大変なので機関車乗務員に依頼することが多くありました。むろん非公認のヤミ作業で、日常のおつきあいがモノをいうことになります。停車する貨物列車の機関車と緩急車(車掌が乗務)にふだんから冷たい飲み物や熱いお茶をサービスするのは常識でした。車掌は入換作業全体の責任者です。

 貨車の逆送は原則として行っていません。認められていたのは京阪神の複々線などに限られていました。無駄な走行はしないという節約精神が溢れていましたから。
 面倒な入換よりも無駄な走行の方がかえって経費節減になると考えられるようになったのは1960ころからです。ちょうど電車化の波と同調しています。

C6217さん、とっても貴重な情報ありがとうございます。
基本は手押しですか。本線をふさいでの手押しって、結構勇気がいりそうですね。
>冷たい飲み物や熱いお茶をサービスするのは常識
これはスゴイですね。そういう世界だったのですね、ちょっとびっくりです。

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