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2011年3月29日 (火)

膳所・大津配線図

まずは1960年(昭和35年)頃。

196000r
・前回の記事の通り膳所駅は1880年(明治13年)に馬場駅として開業したのですが、その後大津→馬場→膳所という名前の変更の歴史を持ちます。
・これに対し大津駅は1921年(大正10年)の開業です。
・今となっては何の変哲もない隣り合う2つの駅ですが、この2つの駅の間には1.7kmという駅間距離からは想像できないような40年もの歴史のギャップが存在するわけです。
・膳所~京都間は1944年(昭和19年)に3線化されたのですが、この時点では複線に戻っています。
1950年(昭和25年)時点ではまだ3線のままですので、1956年(昭和31年)の電化の際に複線に戻ったのではないかと勝手に想像しているのですが、実際はどうなんでしょう。
・膳所駅から右下に向かう線路は浜大津支線で、ちょっとわかりづらいですが「江若」の文字が見える通り、江若鉄道がこの支線を使って膳所駅まで乗り入れを行っていました。
・2番線からは22Cで神戸方に出発できるようです。
・22Aが紛らわしい位置に建っていますが、これは4番線の下り出発信号機です。
・浜大津支線は腕木信号機のようですね。

続いて1966年(昭和41年)3月。

196603r
・浜大津支線はまだ残っていますが、江若鉄道の乗り入れは廃止されてしまっています。

続いて1972年(昭和47年)1月。

197201r
・1969年(昭和44年)に浜大津支線が廃止となり、また1970年(昭和45年)には草津~京都間の複々線化が行われてずいぶんと様変わりしました。
・大津駅は至って単純な駅になってしまいましたが、膳所駅には多くの貨物側線が残っています。
・それにしても複々線で内←→外の渡り線が設けられると、信号機の数がべらぼうに増えますね。

続いて1986年(昭和61年)4月。

198604r
・大きな変化はないようです。

最後に1992年(平成4年)1月。

199201r
・貨物側線が一部整理されています。
・ちょっと驚いたのは1996年(平成8年)3月までは車扱貨物の取り扱いが行われていたこと。どのような貨物が発着していたのでしょうか(書類上の扱いだけかもしれませんが)。
・専用線貨物については多分現時点でも取扱駅になっていると思われます(こちらも書類上だけのようですが)。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

確か、神戸方にセメント関係の貨物取り扱い設備がありました。
近年、撤去されましたが。
配線図には記載がありませんね。
下り引き上げ線付近がもっと先まであったみたいに記憶しています。

すみもとさん、鋭いご指摘で。
私も記事中で専用線貨物について触れており、当然「あれ?じゃあ専用線ってどこにあるの?」と思ったのですが、配線図ではそれらしいものが見あたらず、空中写真でも判然としませんでしたので黙っていました(汗)。
おっしゃる通り下り引上線が途中で途切れている図があり、そういう目で改めて空中写真を見るとそんな気がしてきますね。

浜大津の名称を早くから知っていたせいか、後に浜網走や浜釧路の活字に接しても違和感は有りませんでした。
京阪神から鉄路が浜大津を介して航路で長浜から敦賀方面や関ヶ原方面へと結ばれ、この大津地区の街も当時は活況を呈していたのでしょう。
明治13年、膳所駅構内に当時の馬場機関庫(後の大津機関庫、大正10年廃区、梅小路機関区馬場分庫に改称後大正12年廃止。同12年大津-京都間の新線開通に伴うものと思われます)として開設されたのは明治13年。その頃には新橋-横浜間から110型(長浜地区)150型(京阪神地区)が海上輸送にて投入されています。(両形式の不調による都落ち説あり)
明治15年には 1800型、同18年には1850型が浜大津-京都間の勾配区間に投入され、当時なら近代の EF62型投入並の出来事だったかも知れません。
この1850型は、その後の長浜地区から岐阜方面への延進に対応するため、こちらも神戸港から敦賀港へ海上輸送され、活躍の場を広げました。
その後、明治29年に神戸工場製の 1Cテンダ7900型、明治32年には同じく神戸工場製のB6こと 2120型が馬場-京都間に入線しています。
明治44年には国内初の2C1パシフィック 8900型が大津機関庫に配置(その後、集中配置)。
大正初期には当時の最大急行列車牽引の仕業に就き大津機関庫としての最盛期を迎えたようです。
膳所駅の構内配線の広がりに大津機関庫の存在感を強くし、最盛期の頃の大津機関庫としての配線図の発掘に期待したいところです。

 膳所駅の機関区設備について、若干述べておきます。
 20世紀初頭には、駅南東方向、下り線東京方に転車台を挟み、3線の矩形庫があり、下り線京都方に2線の客車庫が描かれております。なお、浜大津駅方向へは上り本線だけが通じています。
 梅小路分庫の時代の略図では、客車庫のあった京都側に給炭線とその奥(駅からおおよそ西方向)に転車台があったようです。掲げて頂いた図では材料線がその痕跡になると思えます。
 さらに昭和初期には庫や転車台は撤去され、京都方に数線の側線と、駐泊線と覚しき3線が描かれております。
 駅名同様、役割の相を転移させつつ、最盛期をおくり、昭和を迎えて一層単純な駅になっていった気が致します。
 

E10さん、すみません、膳所に機関庫があったことは知りませんでした。そしてSYさん、見事な説明ありがとうございます。
当初は路線の終端部であり、そして逢坂山の勾配区間を考えれば機関庫があって当然ですね。
木曽福島や紀伊田辺などは1970年代になって無煙化で消えた機関区ですが、大津の場合は東海道線という大幹線ゆえ、早い時期に近代化されて消えていったということなのでしょうか。

f54560zgさんのおっしゃるように膳所~京都間が3線から複線に戻ったのは、1956年(昭和31年)11月19日の米原~京都間の電化完成時のようです。鉄道ピクトリアル2004年9月号の「特集東海道本線今昔」に記事がありました。『この区間に10‰の勾配が連続し、上り線の自動信号区間は長大で上下線の線路容量の差が大きく、さらに上り新逢坂山トンネルでは煤煙の為乗務員の窒息事故が発生し、保線作業も困難を極めた。このような理由で上り線を1線増設した。しかし電化完成で牽引力が増加し、輸送単位が増大したため複線に戻った』ということだそうです。

閉そく区間長や保線作業も3線化の理由だったわけですね。
スミノエさん、情報ありがとうございます。

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