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2011年3月24日 (木)

阪和線 1976~1978

大阪環状線まで来たついでに1976年(昭和51年)~1978年(昭和53年)の阪和線関係の未公開写真を掲載します。

阪和線関係は過去の記事にも写真があります。

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・1977年3月、美章園です。112Dきのくに11号です。
・ちょっとわかりづらいですが、先頭はキハユニ16です。

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・1976年3月、杉本町です。単976列車です。

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・同じく杉本町で、15Dくろしお4号です。

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・同じく杉本町で、970列車です。
・右側に103系が見えますので、中線で対向列車をやり過ごしてからこちら側に渡って来たんだと思います。

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・1978年3月、堺市です。

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・1977年3月、東岸和田です。1398列車です。

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・1976年3月、和歌山です。

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・同じく1976年3月、和歌山です。

19770313e01
・1977年3月、和歌山です。
・ヘッドマークの「新快速」の文字がなくなりました。

19770313e02
・同じく 1977年3月、和歌山です。
・ひどい写真ですが、ED608+EF15120です。

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・1978年3月、和歌山です。
・ヘッドマークがまた変わりました。

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・同じく1978年3月、和歌山です。キハユニ1610+キハ282313+キハ58599です。
・ちょっと記憶があやふやですが、最初の美章園の写真の112Dから切り離された先頭部3両ではなかったかと・・・。

19780311d03
・ 同じく1978年3月、和歌山です。969列車です。

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・同じく1978年3月、和歌山です。371列車です。
・竜華操~和歌山操間の貨物列車は列車番号が900代で和歌山操行きが奇数ですが、和歌山操を越えて紀勢線方面に直通する貨物列車は列車番号が300代で竜華操行きが奇数でした。

19780311d06
・同じく1978年3月、和歌山です。
・それにしても和歌山ではそれほど機関車牽引列車は多くなかったと思うのですが、その割にはED60、EF15、EF58、DF50、またこれらの重連など、バラエティに富んだ機関車を見ることができましたね。

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コメント

すべて貴重なお写真でツボに来るものばかりですが
自分的にはキハユニ16が一番惹かれます
冷房付の急行列車に併結されていますが
この頃は荷物専用として客室は使っていなかったんでしょうか?
もちろん私は知りません
荷室は随分狭いですしね

ちなみに紀勢本線反対側の参宮線で急行志摩にキハ30を荷物車代用で連結していたのを撮影しました

私はこのお写真の中ではEF15が一番感慨深いです。
EF15は地味で人気がないと思います。でも阪和線のEF15は大阪ではとても貴重な存在でした。関東・東京方面にお住まいの方は、デッキ付き電機はEF15だけでなく、EF10・11・12・13そして56・57などがあり珍しくなかったと推察します。しかし大阪近郊の東海道・山陽本線からデッキ付き電機は比較的早くに姿を消していたのです。

茨木市在住の1968(昭和43)年から、土曜日は昼食後夕方までよく茨木駅へ列車を見に行きました。当時の東海道本線大阪近郊の貨物列車の主力は、EF60・61・65そしてEH10、また登場間もないEF66が特急貨物列車を颯爽と牽いていました。
そんな中、昼過ぎに茨木に停車する貨物列車が上下一本ずつあり、それを牽いていたのがEF15で、デッキ付きの機関車はそれだけでした。それが黙々と入れ替えをしたあと、やがてゆっくりと発車していく姿をいつも飽きずに眺めていました。そんな私を覚えてくださる機関士さんもおられ、EF15の窓から顔を出して話しかけてもらったり、別の日に茨木を通過する貨物列車を牽引するEF60の窓から手を振ってくださったこともありました。
ところが、やがてそのEF15もEF60に置き換えられてしまい、以後東海道本線大阪近郊でEF15を見なくなりました。
1969(昭和44)年8月末現在の電気機関車運用区間表によると、岡山機関区のEF15が米原操~糸崎間で運用されており、私が見ていたのはそれだったようです。1969年の国鉄車両配置表では岡山にはEF15が21両、EF60が26両の配置があります。それが1971年版ではEF15は消えてEF60が40両とEF65が23両配置となっていて、その間に置き換わったようです。
こうして大阪駅で入換えをしていたEF14を除き大阪近郊の本線からデッキ付きの電機が姿を消しました。

小学校に上がる前までは比較的阪和線に近い所に住んでいましたが、その頃で印象に残っているのは阪和線色の70系やオレンジ色の旧型電車、南紀直通のキハ58の急行で、電気機関車のことは覚えていません。カメラを持って阪和線を訪ねるようになったのは関西本線から蒸機が消えた1973(昭和48)年以降で、その時に懐かしいEF15やそれよりさらに古めかしいEF52、また本線では見られなかったED60・61の姿を見ました。驚いたのは本線では特急列車の先頭に立つEF58が貨物を牽引していたことです。これら異形式の機関車が混在し重連を組むこともあって趣味的にはとても面白かったです。
やがてEF52、ED61が消え、ED60やEF58も末期にはEF60に置換わりましたが、EF15は1986年に阪和線・紀勢本線から電気機関車が消えるまで残っていました。

幸いEF15は大阪近郊では2両保存されています。各地にバラバラに保存されているかつての仲間と、京都の梅小路にできる鉄道博物館に一堂に会する日が来ることを楽しみにしています。

このキハユニ16が連結されるきのくには当時注目されていたように記憶しているのですが、実際の使われ方については私もよく覚えていません(当時の雑誌は持っていますのでそれを調べればわかるのでしょうが・・・)。いずれにせよいくらなでも客扱いは行っていないでしょうね。
阪和線の電気機関車も特殊な面が多かったですね。もともとは鳳所属で、阪和貨物線の開業の頃に竜華に電機基地が設けられて移動したようですが、運用区間が短いためか絶えず寄せ集めの感がありました。ED60の単機とEF58の重連が見れる線区はそうはないと思います(笑)。
ところで鳳の電車や竜華の電機はどういうルートで工場入出場していたんでしょうか。阪和貨物線開通以前は天王寺経由?開通以降は城東貨物線を無動力?今は西九条・梅田経由?
このあたりは長いこと「孤立した電化区間」だったような・・・。

鳳(阪和線)杉本町(阪和貨物線)竜華(関西本線)天王寺(大阪環状線)京橋(淀川貨物線)初代淀川電車区(淀川・城東貨物)吹田
というルートだったかと。

名無しさん、コメントありがとうございます。
天王寺で関西線→大阪環状線がポイントですね。
情報ありがとうございます。

初めてコメントいたします。
トラックバックしましたのでご連絡いたします。

ゴハチ信者さん、コメントありがとうございます。(トラックバックは無条件で公開される場合とそうでない場合があるようで、ゴハチ信者さんの場合は後者でして気づくのに遅れました。スミマセン。)
私もその昔高崎線の客車鈍行にはずいぶんとお世話になりました。ですので、特に高崎第二のEF58に親しみがありますね。

113系の新快速懐かしいです。
当時、堺に住んでいたので鳳まで停まらない新快速にはなかなか乗れなくて悲しい思いをした記憶があります。
9枚目の新快速の文字が無いヘッドマークですが、ヘッドマークの真ん中に丁番があって、ノートようにめくって新快速とそれ以外の運用では赤だけになっていたとおもいます。
たしか天王寺でやっていたのを見た記憶があるんですが、小学校低学年に記憶なので、間違っていたらすみません。

いんてさん、不思議なのはヘッドマークには新快速の文字がないのですが、その上の方向幕に新快速と表示されていることですね。

貴重な写真ばかりで、とても懐かしんでおります。
ところで9枚目の写真は初見です。ヘッドマークに新快速がある(というよりそれしかない)のに、何故幕で新快速表示なんでしょうか?当時鳳在住でしたので、新快速の誕生時から終了時までずーっと利用していましたが、見たことはないですねぇ。蝶番が壊れたのか?
赤帯車の丸い新快速ヘッドマークはよく見ました。赤帯車が間合い使用で新快速運用につく頻度が高くなり、赤帯車誕生後しばらくしてから作られました。
青帯車はでかいヘッドマークを最後まで使用していたと思いますが、一部には丸い新快速ヘッドマークでの運用もあったのですね。通常は天王寺向きしか見ないので、和歌山向きでそのようなことがあったのかもしれません。
ありがとうございました。

hiroさん、おっしゃる通りヘッドマークに不具合でもあってやむなく方向幕で表示しているのかもしれませんね。

昭和38年から平成13年に中国赴任のため日本を離れるまで阪和線沿線に住んでいました。新快速健在のころは、堺市に…、やはり鳳まで止まらない新快速が恨めしかったですね。ということで、話題の裏返しの新快速マークですが、これは間合い運用で快速に充当されるときに中央の「新快速」と書いた円盤部分を裏返して隠していたものです。このときだけは、当時のクイーン、冷房113ブルーライナーに乗れるのでうれしかったです。ただ、堺ではクロスシートに座れないのが残念でした。

のむちゃんさん、コメントありがとうございます。
ただ、ちょっと違うんです。間合いで快速に使用しているのではなく、新快速に充当しているにもかかわらず「新快速」の円盤を隠して方向幕に「新快速」の表示をしているところが不可解なんです・・・。

約40数年前の国鉄天王寺駅での記憶。
学校が終わって友人と夕方、天王寺駅に列車を見に行った時、急行きのくにの先頭に見たことのない形式の車両が連結されていたのを今でもはっきりと記憶しています。行き先も当時は白浜行き又は新宮行きが多いなか珍しく椿行き、もしくは周参見行きだったと思う。後にそれがキハユニ16であることがわかり、やっと阪和線内のキハユニ16の画像と会うことができました。貴重な画像、ありがとうございます。

昔の天王寺駅ファンさん、確かに急行列車の先頭にはちょっと不釣り合いの、印象に残る車両でしたね。

大阪環状線を天王寺で降りて、片町線と同じ電車を見た時、あれは阪和線と親父から聞いた。鳳電車区は聞いたことはあった。
始めて乗ったのは、白地に青い‟113系”が走る様になってからである。湘南色の電車もあった。南紀へ行くとき、急行‟きのくに”に乗り、和歌山まで停まらなかった。帰りは、ブルドッグを前後に特急‟くろしお”であった。大阪環状線を1周して、奈良行快速オレンジライナーに「天オト」の電略記号を見た。阪和線ホームでオレンジ色の旧型電車も「天オト」の電略記号を見て、鳳電車区の配置であり、特急、急行のディーゼルカーは和歌山の配置であった。紀勢本線が電化で、くろしおが電車化されて鳳電車区の配置となった。普通列車も電車化されたが、急行はディーゼルカーのままであった。
電車区は日根野に移り、鳳は支区になった。関西本線同様に快速電車が大阪環状に乗り入れる様になって、阪和線を利用するようになった。関西空港行と和歌山行の4両~4両で、ともに15分間隔になり、日根野からは4両で良いぐらいである。
天王寺の高架ホームは、始発の区間快速と鳳までの各駅停車となった。
杉本町から、貨物線があって高架にはならず、開かずの踏切にはなった。杉本町での学生を見ると鳳までの各駅停車はロングシートの方が、具合が良い。

ニッシーさん
阪和線が大阪環状線に乗り入れるための天王寺駅の連絡線建設は大英断であったように思います。

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