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2011年2月 5日 (土)

紀和配線図

先日このブログをご覧いただいている堤さんという方から、「1960年前後の紀和駅の配線図はないのか」というコメントをいただきました。

そのコメントをご覧になったKASAさんが「ん? こーゆーのならあるけど・・・」と、紀和駅(当時は和歌山駅。以降も特記以外は周辺の駅を含めて現在の駅名を使用することとします)の配線図を送って下さいましたのでご紹介したいと思います。

(注:上記「 」内の文章は私が勝手にアレンジしています。)

いつ頃のものかははっきりしないのですが、
・駅名が「紀和」ではなく「和歌山」になっている。
・田井ノ瀬~和歌山(当時東和歌山)間の短絡線がすでに開通している。
ということから判断して、1961年(昭和36年)から1968年(昭和43年)の間のものと思われます。堤さんのご要望と必ずしも一致するかどうかはわかりませんが。

11r

12r
・短絡線の分岐部分や和歌山機関区の着発線まで紀和駅の構内だったようです。
・従って和歌山機関区の入出区は、和歌山方面に対しては「列車」ですが、紀和方面に対しては「車両」です。
・ということは、仮に和歌山始発で紀和(ホームのある部分)行きという列車があった場合、また和歌山始発で和歌山機関区行きという列車があった場合、どちらも「和歌山発紀和行き」ということになりますね。
・ホームが描かれていませんが、1番線の片面ホームと3番線・4番線間の島式の2本です。
・ホームのない2番線及び5番線、6番線も本線だったんですね。紀和駅の貨物取扱い廃止は1968年(昭和43年)ですから、それまで運転されていた貨物列車用でしょうか。
・下り本線(和歌山市方面)は3番線、上り本線(和歌山線・紀勢線方面)は4番線で、1番線は上下共用の副本線です。1番線が下り本線でないのがちょっと意外。
・線形的には和歌山線方面が直線になっていますが、信号上は紀勢線側が主たる本線です。

以下、過去の記事の写真の一部を再度掲げて配線図と比べてみます。

19800313c01
・1番線の左側には貨物扱い設備が、また右側の洗滌台の部分には裏1~9番線があったわけですね。
・2番線はすでに本線とは断ち切られています。

19800313c02
・ホーム部分には2番線のレールが残っています。

19800313c04
・客車が止まっているのが5番線、かつてはその左側に6~10番線まであったわけですね。

19800313c07
・残骸となってしまったシーサスも配線図にはしっかり記載されています。
・中央の線路はかつての和歌山線で、紀勢線はその左側の空きスペースを通っていたんですね。

19800313c08
・右側の線路の残骸がかつての紀勢線ですね。田井ノ瀬~紀和間廃止後にこのように線路が付け替えられたのではないかと思います。

19800313c10
・このあたりの埋もれた線路はかつての和歌山線ではなく、東引上線もしくは県連専用線のようです。

19800313d01
・このあたりに客留1~4番線があったわけですね。

紀和付近には興味深いことがいろいろあります。
・和歌山機関区が紀和駅から現在の新在家に移転したのは意外と古く、1951年(昭和26年)です。1947年(昭和22年)の空中写真を見ると新機関区の工事が進んでいる様子がわかりますが、短絡線もすで形作られているのがわかります。
・移転前の紀和駅にはどのような機関区設備があったのでしょうか。上記空中写真では残念ながら細かくはわかりません。
・前述の短絡線、開通は1961年(昭和36年)7月なのですが、定期列車の設定は8か月後の1962年(昭和37年)3月改正の準急「はまゆう」「はやたま」まで行われなかったようです(JTB停車場変遷大事典による)。この間団臨等は運転されていたようですが、他にはどのような使われ方をしていたのでしょうか。和歌山機関区の入出区もあったのかなぁ、とも思うのですが、それだったら新在家移転と同時に短絡線も開通していたほうが自然ですよね。前述の空中写真でも機関区と短絡線は同時進行しているようにも見えますので。
・冒頭に掲げた配線図では和歌山機関区の入出区線は紀和駅構内ですが、現在では和歌山駅の構内のようです。従ってかつては回送列車として運転されていたものが現在では入換(多分構内運転)になっているわけですね。
・短絡線で正式な旅客営業が開始される(1972年(昭和47年))まで和歌山線の列車は紀和方面に直通していたわけですが、全列車和歌山市発着だったのでしょうか、それとも紀和始発・終着列車も多かったのでしょうか。和歌山市駅が南海の駅ですから、遠慮して入りづらかったのではないかという気もするのですが。
・国社分界点の存在も異色です。なくなったとかいうウワサも・・・。

配線図はKASAさんよりご提供いただきました。

このブログをご覧いただいている皆様方からのありがたいご厚意に改めて感謝申し上げます。

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コメント

 まず初めて配線図を拝し得ることが出来、お二方に謝意を申し上げます。
 こんな設備を有していた、かつての要衝駅なのですね。明治末頃の駅の配線図は側線もさほど無いほどの普通の駅の様で、注釈にただ紀和鉄道(高田~五条~和歌山市駅)の工場を有していたと記されている程度でした。どう考えても同鉄道の末端部にあって、運転上転車台や運転設備を有しても良いのですが、それが無く、市駅の南海鉄道側に転車台が一基あるだけです。新在家の設備が稼働する以前、そうした設備が紀和駅(旧和歌山駅)の近辺にあった筈だと改めて思われるのですが…国土変遷の47年の航空写真でも、客車用の庫らしきものが見える程度で、蒸機用の設備は…まったく不思議です。戦後間もなくの時点で新在家に大きな設備を設けようとする動きがあったこと自体、殆どそうした設備が脆弱であったのかもしれません。
 そこでその辺りのことを、機関区乃至転車台に強い“E10”さんや、地元の方々に切に伺いたく思った次第です。 
 とあれ、重ねて深謝致します。  

和歌山と千葉と言うより、紀伊半島と房総半島が何か似通ったイメージを持っており、千葉の項でもお話させていただいたように、謎めく部分は両地域に共通していて、紀勢本線と言うより天王寺鉄道管理局管内の機関区は長年謎めいた機関区の部類に入っていて、苦手意識も持っていました。(湊町 竜華 王寺 加茂 五条 和歌山 紀伊田辺 紀伊勝浦 新宮など)
和歌山の鉄道は意外と古くて新しく、日露戦争以前には既出の紀和鉄道により五条から、明治末期には南海電鉄により大阪難波から電車が来ていたようです。
更に昭和初期に阪和電鉄による和歌山乗り入れが行われ、大阪より当時の高速鉄道が2本も来ていたのは驚嘆に値するのでしょう。
和歌山市駅、紀和駅、和歌山駅に関しては f54560zgさんの記事や皆さんのコメントでその様子が解って来ましたが、紀和駅の旧和歌山機関区に関しては霧がかかったままのようです。航空写真が不鮮明なのですが、当時の和歌山駅(現紀和駅)の王寺方左手に2線級の短形庫が見て伺え、蒸気機関車誌No.28「特集・近畿のSL」に、和田康之さんによる紀勢西線蒸気列車の思い出のと言う記事があり、「昭和6年和歌山機関庫には 870、6760、8620が計十四両配置され、そのうち 6760が主力となって西線の列車をひいていた。 その後線路は南にのび、紀伊田辺、紀伊富田と開通していき、それにともなって機関車数もふえ、昭和八年の和歌山庫には 1070が2、6760が11、8620が7と計20両が在籍し、和歌山(現紀和)駅の東側の狭あいな庫にひしめきあっていた。これが和歌山県下におけるSLのすべてであった。」とあります。
f54560zgさんの写真にも給水塔が写っており、それらを考えると、その一帯に機関区設備を有していたものと思われます。敷地が狭苦しく、西舞鶴機関区や北上機関支区のようなイメージなのかも知れませんが、転車台の位置が特定出来ないのが歯がゆいところです。紀和鉄道が有していた開業当時のSL達は 10型(B)450型(1B1)1180型(C)1370型(C)等のタンクロコで、もしかして明治期より紀和駅構内には転車台は設置されず、その後のテンダー機の方向転換には SYさんのおっしゃる和歌山市駅側の転車台を利用していたのかも知れません。
戦前から紀勢西線に C58が投入され(紀伊田辺11両 新宮6両 和歌山はナシ)戦後の昭和21年の和歌山機関区には1号機を含む15両の配置があり(紀伊田辺22両 新宮7両) 他に 6700 6760 C12が各1両と B50が2両、それに C58が15両の計20両で、それが移転前の手狭な構内の最大容量だったのでしょう。
千葉機関区のように旧和歌山機関区の謎が解けないのは悔しいのですが、いろいろと勉強させていただきありがとうございます。

実は紀和駅の記事が出てコメントも考えていたのですが、宮原や東京見聞記に鷲別などの記述がまだ途中のままで和歌山関係のコメントを躊躇していました。
f54560zgさんのブログにたくさん有る良いところの一つに“視点が向く”と言うことがあります。
今回、苦手な和歌山地区に視点を向かせていただき、また、貴重な資料を拝見出来て、皆さんに感謝しております。

ナゾの和歌山機関区、とても楽しいです。
私もE10さんと同じく、給水タンクの存在から機関区設備はその周辺ではないかと思います。ただ、転車台が不可解ですね。
SYさんのおっしゃる「市駅の南海鉄道側の転車台」が気になるのですが、これは南海の所有する設備、ということでしょうか。南海についてはよく知らなくて申し訳ないのですが、南海も蒸機を所有していたのでしょうか。それとも場所としては南海のエリアにあるけれど、用途は紀和鉄道用ということでしょうか。

子供のころ紀和駅周辺が遊び場でした。紀和第一踏み切りから少し国道二十四号線方面に上がったところ千品食料品店の前にに赤い給水塔がありましたがそのすぐ南側に木製の石炭貯蔵所が確かにありました。後の和歌山機関区の給炭施設とは比べ物にならない原始的なただの石炭置き場みたいなものですが、その高さが機関車に人力で石炭をくべるにちょうどよいような程ありました。石炭がまだ少し残っているのも見たことがあり、子供心にここが機関区だったんだなと思ったものです。

転車台についてはこの場所から少し紀和駅舎よりにあった客貨車区現業事務所のとなり、すなわち堀製麺所の近くに広場があり、それが巨大なコンクリートのサークルに囲まれていて、間違いなく転車台を埋め立ててできた広場だなと思っていました。

この転車台にいたる線路が一本尾高ゴム工場の方からのびていて、転車台にいたる直前のところですが二本の線路の間に窪みがあってその横に木組みの廃棄物置き場みたいなものがありました。これは機関車のボイラーから出る灰のためのものではないかと思っています。

給水塔の前に当時線路がまだありましたが滅多に使われることもなく、線路工事用の車両の置き場みたいになっていました。

この幻の機関区については私も大変興味があります。また何か教えてくださればさいわいです。

ききさん、コメントありがとうございます。
貴重な情報ありがとうございます。
いただいた情報を頼りに改めて
http://archive.gsi.go.jp/airphoto/ViewPhotoServlet?workname=USA&courseno=R506-4&photono=65
を目を凝らして眺めてみますと、田井ノ瀬寄りの車庫らしき白い長方形の和歌山市側の端、田井ノ瀬方面行きの白いホームの田井ノ瀬側先端、この2点のちょうど中間の少し上のほうにΘのようなカタチが見えるような・・・、だけど違うかも・・・。

SL時代に機関区と名乗る場所に転車台が無かったのは真岡機関支区ぐらいだったでしょうか。
徳川御三家、天下の紀州藩の地元である和歌山機関区に転車台が無かったかも‥との前出の私のコメントは軽々しいものでした。
地元の、ききさんの証言をお聞きさせていただき、堀製麺所や尾高ゴムの場所を検索してみて、旧和歌山機関区の転車台、炭台、給水塔などの全貌が垣間見れ、更にf54560zgさんの掲げられた空中写真に旧和歌山機関区の転車台は、かなりの謎解きが進んだように思い感謝いたします。
旧和歌山機関区が敷地的に手狭で、SL配置数約20両に紀伊田辺機関区や新宮機関区に王寺機関支区などからの機関車をさばくのには苦慮したのかもしれませんが、ききさんのお話に、機関区としての配線は無理なく配されているように感じ、現和歌山機関区に移転したのは戦後の需要増によるものではないのかと推察できます。
また、ヒデヨシさんの熊野地のコメントでの空中写真を拝見し、SL時代の新宮機関区と、この旧和歌山機関区の規模が似通っているようなイメージを感じ、その中間点の紀伊田辺機関区の役割を改めて実感したように思います。
それと、和歌山地区では阪和線と紀勢本線の接続によるELとSLの付換えが長年に渡り頻繁に行われていて、国府津、下関、門司、福島、米原などよりも、ここ和歌山独特の役割としての事象であったことは忘れてはならいのでしょう。

和歌山での機関車付け替えは興味深いですね。紀勢線という幹線と、ターミナルである大阪との間に阪和線という買収線区が介在する例は珍しいのではないかと思います。

古い時代の信号機のことを調べていて、貴ブログにたどりつきました。相当以前からたちあげられ、詳しく調べ様々な資料を入手され、正確な情報となるようきちんと整理されている格調高いブログで、敬服の至りです。
 ブログ内に私の出身地和歌山市の紀和駅和歌山駅付近のことがあるのに気付き、とてもうれしくなり、書き込みさせていただきます。少し長くなりますので、2回に分けて書き込みします。
 私は1960年代後半高校生時代で、ちょうど、東和歌山駅が和歌山駅に改称された時期でした。
1、その頃、紀和駅の、紹介いただいた線路図「裏1~9」と記されている線路のところで、和歌山機関区のC50、8620が客車の入換をしているのをみた記憶があります。和歌山駅の貨物の入替もC50、8620が担当していました。
2、南海和歌山市駅。私の持っている1967年10月の紀勢本線列車ダイヤによれば、紀和(当時和歌山)――和歌山市間の列車は、回送も多く、48往復もあり、しかも下り3便が続いて後上りが3便続くなど、通票の折り返し使用ができない場合もあり、かなりの過密ダイヤでした。通票は、東和歌山(現和歌山)――和歌山は「4」、和歌山――和歌山市は「2」と記されています。信号扱いは南海の社員がしており、SLの機回しの旗ふりも南海の制服を着た人でした。和歌山線は1番線、紀勢線は2番線、南海線との直通列車は3番線に入りました。貨物列車は6番線の外側までSLが入っていったと思います。和歌山市駅は現在のさびれきった状況からは想像できないのですが、乗降客が多くとてもにぎやかでした。国鉄の列車案内も南海の社員が担当し、長年和歌山市駅のアナウンスを担当された女性の方の、寝台急行大和号の案内「東京到着は明朝6時でございます」が今も耳の奥に残っています。

3、1968年3月の和歌山線時刻表によれば、上り五条方面行き普通は和歌山市発19本、紀和発1本、和歌山発1本で、急行は「はやたま」「はまゆう」が紀勢線より和歌山、短絡線を経て和歌山線に入りました(次の停車は粉河)。下りは普通和歌山市行き13本、紀和行き8本(接続して紀和発和歌山市行き6本)、和歌山行き1本で、急行は「はまゆう」のみでした。1970年3月の時刻表では、和歌山発着の上りが3本、下りが4本にふえ、急行は「しらはま1号、2号」と改称されています(下りは1号のみ)。阪和線との接続は紀伊中之島駅で、当時は阪和ホームに地下道はなく渡線路で、駅員が踏切バーを操作し、多くの乗り換え客がいた記憶があります。
4、どなたかが書き込みされているように、和歌山市駅での折り返し列車は紀和駅でSLを進行方向にあわせて事前または事後に付け替える必要があり、和歌山・紀伊中之島――和歌山市間が20分近くかかる列車もありました。
5、教えていただきたいことがあります。田井ノ瀬――紀和、和歌山間の列車の閉そくはどういう方式でしていたのでしょうか。通票閉そくとすると、紀和、和歌山両方に閉そく機が必要で、そのような分岐型のような閉そく機はあったのでしょうか。田井ノ瀬駅に二方向分の閉そく機2台があったとすれば、片方の閉そく機を半開または全開で使用中、他方の閉そく機の鎖錠はどのようにしていたのでしょうか。和歌山機関区付近に信号所はなかったと思います。また、1970年代後半、田井ノ瀬駅で、和歌山方ホームでは通過列車の通票受けうずまきはあるが、授与器はないなあと思いながらみた記憶があります。もちろん、五条方には授与器があったのでしょう。
どうも、細かいことばかり、冗長に記してしまい、お読みいただく時間手間を無駄に使わせてしまいました。申し訳ございません。内容が乏しいと思われた場合はどうぞボツにして下さい。

苗苗さん、貴重なお話ありがとうございます。じっくりと拝見させていただきました(笑)。
私のコメントも長くなりそうですので、別途記事を書きますね。

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