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2011年2月10日 (木)

向日町運転所配線図

向日町運転所は1961年(昭和36年)開設です。
当初は向日町運転区だったのですが、ところで運転区と運転所って何が違うのでしょうか。

(1992年(平成4年)の向日町運転所の写真は神足の記事向日町の記事に少しだけあります。)

まずは1966年(昭和41年)3月。

196603r
・本線関係は東京方の発着が東1~5番線、神戸方への出発が西発1~11番線、神戸方からの到着が西着1~8番線で、それ以外に多数の留置線や洗滌線、検修線等が設けられています。
・東1~5番線の右下方には「梅機向日町派出」の文字も見えます。
・また東1~5番線の上方には「草材向日町分場」もあります。こちらはレール関係の施設だと思います。
・気になるのは、上方やや左に書かれている「向日町操車場」の文字。
・宮原操車場の記事で、「貨物操車場以外で操車場という文字のつく停車場は宮原だけ?」と書きましたが、この文字を見ると「向日町もそうなんじゃないの?」と思いたくなってしまいます。
・だけど、いやいや、ちょっと待って下さい。
・否定意見その1。JTBの停車場変遷大事典には「向日町操車場」という停車場は存在しないんです。これは結構決定的かと。
・否定意見その2。一般的に、停車場名が書かれている下には起点からのキロ程が書かれています。宮原操車場にだって書かれています。ですが「向日町操車場」の文字の下にはこの数字が書かれていないんです。
・従って、個人的には、向日町操車場という停車場は存在せず、前述の東1~5番線、西発1~11番線、西着1~8番線といった本線は向日町駅の構内かと考えています。
・但しちょっと引っかかるのは、東1~5番線から東京方に出発する信号機が「出発信号機」と書かかれていること。東1~5番線が向日町駅の構内ならば、「場内信号機」のほうが自然のような気が。
・また、「じゃあ、配線図に書かれている「向日町操車場」ってのはいったい何なの?」という素朴な疑問も湧いてきます。

そういうどーでもいいことは置いといて、配線図の拡大版です。1966031r

1966032r

1966033r

続いて1971年(昭和46年)9月。

197109r

・ほとんど変化はありません。

最後に1986年(昭和61年)4月。

198604r
・ほとんど変化はないのですが、神足寄りのところに転車台が出現しています。
・1971年以降に新たに設けられたものではなく、単に記載されていなかっただけだと思うのですが。

向日町運転所といえば関西の花形車両基地なわけですが、ちょっと今車両に関する資料が手元にありません。配置されていた車両に関することが書けなくて申し訳ありません。

配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。

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コメント

 《山科付近3線区間》で配線の一部が見られる旧来の名門京都検車区が東海道新幹線建設用地になることに伴い、確保されていた貨物操車場用地に移す計画がなされ、新たに加えられる気動車施設並びに電機仕業施設、それら3施設を統合的に新設したのが向日町運転区です。他の運転所・区が各車両施設を統合して一元化したのに一応即していますが、ここは新設です。
 気動車区相当と言っても、80輌余りはキハ80・82だけでまさに特急専用区です。6輌を基本編成とし、まつかぜ・かもめ(京都~宮崎・長崎:小倉まで併結)・白鳥(大阪~青森・上野(直江津まで併結:上野行きは尾久担当))等といった顔ぶれでした。あとは150輌余りの客車です。
 開設当初は東引上げ・東部着発線と中部線群の一部、庫の一部、機留線といった単純な構造で、大阪方の線群・施設は設けられておられず、大阪方へは繋がっておりませんでした。気動車の走行区間からも知れるように、日本海側を走行する仕業があり、冬期の雪害の影響に常時晒されることを宿命づけられました、例えば、近頃の今庄駅の出来事が思い出されます。。
 そして、東海道新幹線の開業に伴い、大阪方の線群が完成し、田町から151系が大挙して下って来、20系客車、北陸線用の481系が配され、規模も所属車両も増え、運転区から運転所に改称され、一大特急基地の歩みを始めた次第です。

36・10での函館の「おおぞら」尾久の「つばさ」そして SYさんの記されている向日町の特急群。
重幹線以外に、機動力を持ち合わせたDC特急網を構築する先駆けとなった車両基地が向日町運転所なのでしょう。
43・10以前の最初の配線図の頃には既にEC DC PCで700両以上の数量を誇り、20系客車を含め40編成規模の特急用編成を擁しています。収容線の能力もそれらに合致しており興味深いですね。
尾久や品川に宮原もかなり凄かったのですが、総合力では向日町だったでしょうか。

最後の配線図の頃に向日町駅に降り立ったのですが、向日町運転所側に本線を渡れる場所が分からず、向日町駅前を右往左往してしまいました。
ようやく本線を越えると京都方向に何やら怪しげな場所を見つけそちらに行ってみたのですが、セメント工場の引き込み線だけでちょっと残念でした。
事務所で見学の意を申し出ると助役さんが「望遠レンズとかお持ちでないですか?ここから姿の見える範囲内ならかまいませんが遠くに行かれるのは困るんですよ」と、何とも変わったお返事でした。来訪目的が転車台である旨を伝えたのですが、困惑した助役さんの表情にそれ以上はあきらめました。
当時、関西で頻発していた車両部品の盗難に苦慮されていたらしく、現場の助役さんにしてみれば見学者に対する最大限の配慮だったのでしょう。
事務所前に居た先客の車両写真目的の鉄道少年達と構内の写真を撮り事務所で助役さんにお礼を言って引き上げたのですが、それから25年の歳月の間、東海道本線脇の転車台を車窓から一瞬だけ眺めるだけの繰り返しが続いています…。

もともとは貨物操車場用地であったこと、そして開設当初は大阪方には線路が繋がっていなかったこと。
SYさん、勉強になります。ありがとうございます。
E10さん、向日町の転車台は難物ですね!
私は最初からあきらめていました。電車の窓か比較的近い位置で眺められるのが救いです。

遅いコメントで失礼いたします。
向日町運転所(開設当時は区)の設置経緯は、SYさんから御説明がございますが、初代の区長には、後にJR東日本の副社長、会長に就任された山之内秀一郎氏が28歳のときに就任しています。彼の著書「新幹線がなかったら」(東京新聞出版局 1998年刊)によると、就任時には未だ向日町運転区は発足していなかったので、京都客車区長という肩書だったそうです。京都客車区を主体に梅小路機関区の機関車技術陣と京都自動車工場(国鉄バス?)のエンジン技術者とを集めて1961年の秋に向日町区が発足したそうです。ダイヤ改正当日の大阪発「白鳥」が北方貨物線経由で始発駅へ据え付けられたときに、編成が逆向きになった珍事があったそうです。通常青森から大阪へ到着したら西向きで走り、北方貨物線経由で向日町区に戻ってきます。改正直前に本営業同様の試運転を行っていましたが、試運転なので大阪駅までは行かずに、京都駅から向日町区へ取り込んでいたのでした。このため編成の向きが逆になってしまったそうで、そのまま営業運転したそうです。


28歳の若さで区長さんとは、さすがにスゴイ方ですね。
編成逆向き・・・、これもある意味スゴイですね。ふつう気づくだろうに、って思っちゃいます(笑)。
ちょっと話がそれますが、大阪発の東海道上り列車を向日町から出す場合、いったん大阪を通過して宮原もしくは塚口まで行って引き返して大阪へ、というパターンだと思っていたのですが、この当時は北方貨物線経由で回送していたんですね。

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