向日町運転所配線図
向日町運転所は1961年(昭和36年)開設です。
当初は向日町運転区だったのですが、ところで運転区と運転所って何が違うのでしょうか。
(1992年(平成4年)の向日町運転所の写真は神足の記事と向日町の記事に少しだけあります。)
まずは1966年(昭和41年)3月。
・本線関係は東京方の発着が東1~5番線、神戸方への出発が西発1~11番線、神戸方からの到着が西着1~8番線で、それ以外に多数の留置線や洗滌線、検修線等が設けられています。
・東1~5番線の右下方には「梅機向日町派出」の文字も見えます。
・また東1~5番線の上方には「草材向日町分場」もあります。こちらはレール関係の施設だと思います。
・気になるのは、上方やや左に書かれている「向日町操車場」の文字。
・宮原操車場の記事で、「貨物操車場以外で操車場という文字のつく停車場は宮原だけ?」と書きましたが、この文字を見ると「向日町もそうなんじゃないの?」と思いたくなってしまいます。
・だけど、いやいや、ちょっと待って下さい。
・否定意見その1。JTBの停車場変遷大事典には「向日町操車場」という停車場は存在しないんです。これは結構決定的かと。
・否定意見その2。一般的に、停車場名が書かれている下には起点からのキロ程が書かれています。宮原操車場にだって書かれています。ですが「向日町操車場」の文字の下にはこの数字が書かれていないんです。
・従って、個人的には、向日町操車場という停車場は存在せず、前述の東1~5番線、西発1~11番線、西着1~8番線といった本線は向日町駅の構内かと考えています。
・但しちょっと引っかかるのは、東1~5番線から東京方に出発する信号機が「出発信号機」と書かかれていること。東1~5番線が向日町駅の構内ならば、「場内信号機」のほうが自然のような気が。
・また、「じゃあ、配線図に書かれている「向日町操車場」ってのはいったい何なの?」という素朴な疑問も湧いてきます。
続いて1971年(昭和46年)9月。
・ほとんど変化はありません。
最後に1986年(昭和61年)4月。
・ほとんど変化はないのですが、神足寄りのところに転車台が出現しています。
・1971年以降に新たに設けられたものではなく、単に記載されていなかっただけだと思うのですが。
向日町運転所といえば関西の花形車両基地なわけですが、ちょっと今車両に関する資料が手元にありません。配置されていた車両に関することが書けなくて申し訳ありません。
配線図はT.Mさんよりご提供いただきました。
○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●○●
バックナンバーはこちらからどうぞ。
《山科付近3線区間》で配線の一部が見られる旧来の名門京都検車区が東海道新幹線建設用地になることに伴い、確保されていた貨物操車場用地に移す計画がなされ、新たに加えられる気動車施設並びに電機仕業施設、それら3施設を統合的に新設したのが向日町運転区です。他の運転所・区が各車両施設を統合して一元化したのに一応即していますが、ここは新設です。
気動車区相当と言っても、80輌余りはキハ80・82だけでまさに特急専用区です。6輌を基本編成とし、まつかぜ・かもめ(京都~宮崎・長崎:小倉まで併結)・白鳥(大阪~青森・上野(直江津まで併結:上野行きは尾久担当))等といった顔ぶれでした。あとは150輌余りの客車です。
開設当初は東引上げ・東部着発線と中部線群の一部、庫の一部、機留線といった単純な構造で、大阪方の線群・施設は設けられておられず、大阪方へは繋がっておりませんでした。気動車の走行区間からも知れるように、日本海側を走行する仕業があり、冬期の雪害の影響に常時晒されることを宿命づけられました、例えば、近頃の今庄駅の出来事が思い出されます。。
そして、東海道新幹線の開業に伴い、大阪方の線群が完成し、田町から151系が大挙して下って来、20系客車、北陸線用の481系が配され、規模も所属車両も増え、運転区から運転所に改称され、一大特急基地の歩みを始めた次第です。
投稿: SY | 2011年2月12日 (土) 10時42分
36・10での函館の「おおぞら」尾久の「つばさ」そして SYさんの記されている向日町の特急群。
重幹線以外に、機動力を持ち合わせたDC特急網を構築する先駆けとなった車両基地が向日町運転所なのでしょう。
43・10以前の最初の配線図の頃には既にEC DC PCで700両以上の数量を誇り、20系客車を含め40編成規模の特急用編成を擁しています。収容線の能力もそれらに合致しており興味深いですね。
尾久や品川に宮原もかなり凄かったのですが、総合力では向日町だったでしょうか。
最後の配線図の頃に向日町駅に降り立ったのですが、向日町運転所側に本線を渡れる場所が分からず、向日町駅前を右往左往してしまいました。
ようやく本線を越えると京都方向に何やら怪しげな場所を見つけそちらに行ってみたのですが、セメント工場の引き込み線だけでちょっと残念でした。
事務所で見学の意を申し出ると助役さんが「望遠レンズとかお持ちでないですか?ここから姿の見える範囲内ならかまいませんが遠くに行かれるのは困るんですよ」と、何とも変わったお返事でした。来訪目的が転車台である旨を伝えたのですが、困惑した助役さんの表情にそれ以上はあきらめました。
当時、関西で頻発していた車両部品の盗難に苦慮されていたらしく、現場の助役さんにしてみれば見学者に対する最大限の配慮だったのでしょう。
事務所前に居た先客の車両写真目的の鉄道少年達と構内の写真を撮り事務所で助役さんにお礼を言って引き上げたのですが、それから25年の歳月の間、東海道本線脇の転車台を車窓から一瞬だけ眺めるだけの繰り返しが続いています…。
投稿: E10 | 2011年2月13日 (日) 17時06分
もともとは貨物操車場用地であったこと、そして開設当初は大阪方には線路が繋がっていなかったこと。
SYさん、勉強になります。ありがとうございます。
E10さん、向日町の転車台は難物ですね!
私は最初からあきらめていました。電車の窓か比較的近い位置で眺められるのが救いです。
投稿: f54560zg | 2011年2月13日 (日) 22時49分
遅いコメントで失礼いたします。
向日町運転所(開設当時は区)の設置経緯は、SYさんから御説明がございますが、初代の区長には、後にJR東日本の副社長、会長に就任された山之内秀一郎氏が28歳のときに就任しています。彼の著書「新幹線がなかったら」(東京新聞出版局 1998年刊)によると、就任時には未だ向日町運転区は発足していなかったので、京都客車区長という肩書だったそうです。京都客車区を主体に梅小路機関区の機関車技術陣と京都自動車工場(国鉄バス?)のエンジン技術者とを集めて1961年の秋に向日町区が発足したそうです。ダイヤ改正当日の大阪発「白鳥」が北方貨物線経由で始発駅へ据え付けられたときに、編成が逆向きになった珍事があったそうです。通常青森から大阪へ到着したら西向きで走り、北方貨物線経由で向日町区に戻ってきます。改正直前に本営業同様の試運転を行っていましたが、試運転なので大阪駅までは行かずに、京都駅から向日町区へ取り込んでいたのでした。このため編成の向きが逆になってしまったそうで、そのまま営業運転したそうです。
投稿: コスモス | 2011年3月 6日 (日) 00時10分
28歳の若さで区長さんとは、さすがにスゴイ方ですね。
編成逆向き・・・、これもある意味スゴイですね。ふつう気づくだろうに、って思っちゃいます(笑)。
ちょっと話がそれますが、大阪発の東海道上り列車を向日町から出す場合、いったん大阪を通過して宮原もしくは塚口まで行って引き返して大阪へ、というパターンだと思っていたのですが、この当時は北方貨物線経由で回送していたんですね。
投稿: f54560zg | 2011年3月10日 (木) 22時30分
記事内、東1~5番線の上方の「草材向日町分場」ですが、この場所は「向町レールセンター」という別名で、定尺レール(25m)を溶接してロングレールにする施設です。
なので多数両「チキ」が留置されているのを見かけることが多かったです。
なにぶん30年前の事なので、現在でも同じ施設かは分りませんのでご了承ください。
投稿: 床屋のシンサン | 2018年1月26日 (金) 11時44分
向日町運転所の転車台は1970年2月には存在していた記憶があります。しかも新設ではなく相当に古びていました。
出発線を支障する位置なので常用する体制ではありません。
電車・気動車・客車を400配置とはいえ転向の需要はどのくらあったのでしょうか?
投稿: C6217 | 2018年1月26日 (金) 21時25分
初めにある「運転区」と「運転所」の区別。これは単なる規模の大きさです。
業務管理上と人員管理上のための相違です。運転区は機関区などど同じですが、運転所は運転区クラスの集合体で、トップは所長、その下に区長に相当する科長がいます。
向日町では、電車科長・客動車科長がいました。
機関車は別組織として運転所とは別に梅小路機関区機関区向日町派出が東端の構内にありました。
運転所は駅に隣接する車両基地です。したがって上図の構内配線のほとんどは運転所ではなく向日町駅の構内です。
一つの駅なのですが、駅本体ではなく車両基地部に着発する列車に対して「向日町操車場」の時刻設定がありました。
つまり一つの組織なのに運転上は二つの時刻設定名が存在した訳です。なお駅中心を表すキロ程は一つです。
向日町の場内と並ぶ位置に出発があるのは当然のことでホーム外れにある出発は第2出発と呼びます。
判りやすい例として吹田操車場には到着線・出発線・直通する着発線に対して別個の時刻設定名がありました。
組織としては一つの吹田操車場です。
投稿: C6217 | 2018年1月26日 (金) 21時50分
床屋のシンサンさん、向日町は今でも盛業のようすね。草津はわかりませんが。
C6217さん、操車場などの大きい停車場の場合、列車運転方向で距離の離れた着発線を同じ位置としてダイヤを作成しようとするとどうしても無理が出てきてしまいますよね。吹田の「吹六」とか新鶴見の「御幸」とかはどこまで公認されていた名称なんでしょう。
投稿: f54560zg | 2018年1月28日 (日) 18時09分
昔の貨物時刻表ないし、機関車運用表に向日操発着の表記のありますよ。
貨物のはここの客レ入れ替え受託してましたし、高架橋横の大阪セメントの貨車を解放後は向日操まで回送してたと…。
投稿: ゆかわあきら | 2018年1月29日 (月) 20時30分
ゆかわあきらさん、先の「吹六」とか「御幸」のような表記がなされているケースはときたま見かけますね。但しあくまで俗称であって、正式な停車場ではないと思うのですが。
投稿: f54560zg | 2018年1月31日 (水) 21時13分
遅レスで失礼いたします。
向日町運転所の転車台ですが、一時期転車台を眺望できるマンションに居住してまして、1977~1980年ごろはキハ82の方向転換に使用しているのをちょくちょく見かけました。
当時、鉄道好き小僧だったとはいえ、定点観測をしていたわけではなく正確な頻度はわかりませんが、たまたまぼんやり眺めている時にちょくちょく見かけたくらいなので、それなりに活用されていた印象です。
当時、寝台特急の入換の主役だったDD13が運転所南端の転車台まで推進で推してきて、転回後は牽いてかえってました。
投稿: 70年代の鉄道小僧 | 2022年9月 3日 (土) 18時25分